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私の戦時体験 (らくてん) その2

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通常 私の戦時体験 (らくてん) その2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/24 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 音楽部  (1941-44)

 学校内での軍事色が強くなってきて、部活は大幅に制限され、野球やテニスなどのボールを扱う競技は全部廃止になった。残っているのは剣道、柔道、弓道、相撲などで、数少ない部活から私が選んだのは音楽部だった。ブラスバンドの一員として管楽器の主にトランペットを担当した。ただし他の部に比べ白い眼で見られがちであった。そんな中でも少しは音楽を理解し激励してくれる人もあった。

 音楽部での練習曲目は軍歌が多く、流行歌などはもっての外であった。町から出征兵士《戦地に赴く兵士》があると授業から抜けだして駅まで行き、送別の勇ましい軍歌を吹奏したりした。駅頭で演奏したのは多分

   「勝ってくるぞと勇ましく  誓って国を出たからは
    手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞く度に
    瞼に浮かぶ 旗の波」

  とか「我が大君に召されたる・・・」で歌い出しの「出征兵士を送る歌」 のような曲だったと思う。

 また合宿練習の時には陸軍の軍楽隊から下士官が来て徹底的にしごかれた。何といっても花形は年に一度の閲兵分列式《軍事教練の一つで団体行進を点検する査閲》である。全校生徒が何日も前から練習を重ね、いよいよ当日になると、ブラスバンドが先頭に立ち、査閲官の前を軍隊式に行進するのであった。そして曲は「分列行進曲」といって
 抜刀隊の歌
   「吾は官軍 我が敵は  天地容れざる 朝敵ぞ
    敵の大将たるものは  古今無双の 英雄で・・・」の曲であった。

 軍歌の外に外国の練習曲はドイツや東欧系に限られ、それ以外は全部禁止になる。ある時、校内で「蛍の光」を練習していたら先生が突然怒鳴り込んできて「やめろ、やめろ」と言う。何のことかと思ったら敵国の音楽を演奏してはならんということであった。今から見ると考えられないような馬鹿らしい時代であった。そんな時でも古関裕而の曲に出会うと嬉しかったのを覚えている。

 一番の思い出は昭和19年の初め頃、当時の東京、麹町、内幸町にあったNHK放送会館から約5~6曲の演奏が全国に生放送されたことだった。
 その音楽部もやがて練習さえ出来なくなる。それは学徒動員《強制的に学生を勤労につかせる》で全生徒が軍の工場で働くようになってしまったからである。

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