私の戦時体験 (らくてん)・その7
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私の戦時体験 (らくてん) (編集者, 2007/11/23 7:48)
- 私の戦時体験 (らくてん) その2 (編集者, 2007/11/24 8:01)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その3 (編集者, 2007/11/25 9:04)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その4 (編集者, 2007/11/26 8:06)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その5 (編集者, 2007/11/29 9:17)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その6 (編集者, 2007/11/29 9:18)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その7 (編集者, 2007/11/29 9:22)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その8 (最終回) (編集者, 2007/11/30 8:09)
編集者
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投稿数: 4298
専門学校 (1945)
戦争も末期に近付くと、徴兵年齢は引き下げられ、大学生もそのまま戦場へ駆り立てられるようになる。当時は中学の卒業を待たずに4年からでも進学できたが文系はすぐに兵役が待っているので理系を選ぶことにして、ある専門学校を受験した。田舎から東京へ受験に行くにしても、一々学校からの証明書を持参しなければ、汽車の切符も手に入らない時代であった。
学校は池袋にあって文系大学に付属の理系新設校で、受験その他で度々上京したが、その度に空襲に遭って東京へ出向くのは危険極まりなかった。池袋の周りは強制疎開や焼夷弾爆撃を受けて惨澹たる有様だった。駅の近くでは疎開を急ぐ人達が家財や書画骨董の類をそれこそ二束三文で売り叩いていたが、誰も見向きもしない。それでいて衣類や食料は何処にも売っているところはない。また本を手に入れるべく神田や新宿へ行っても、焼け跡ばかりで本を買うどころではなかった。
また入学に当たっての健康診断は築地の聖路加病院で行われたが、その当時は「大東亜中央病院」と称していたと日記に記されている。
当時商業学校は5年制であったのに、この年から4年で卒業ということにになった。毎日勤労動員で勉強は殆どしていないのに、卒業させられたのである。専門学校には4月に入学の予定が軍需工場《軍事に必要な物資の製造工場》の勤労動員が優先して、入学は無期延期になり専攻科ということでそのまま現在の工場に居残ることになる。もうその頃は敗戦も間近というのに同級生のうち何人かは、満洲の国策会社《国の政策により作られた会社》への就職が決まって20年の3月と6月に敦賀港から出港した者もいたのだから、全く哀れという外ない。
そして予定の専門学校に入ったのは3カ月遅れの7月になってからである。入学後も学業どころか、またしても飛行機工場への動員であった。動員前に学校で何日かの合宿による軍事教練が行われた。東京での合宿は毎晩の空襲でその度に屋外へ避難し恐ろしい夜が続いた。誰かがこの学校はキリスト教系だから爆撃を受ける心配は無いなどと言っていたが、本当に周りは無差別爆撃を受けていたのに、この学校の構内には一発の爆弾も落とされなかったような気がする。
教練を担当した配属将校は陸軍大佐だったが「神国日本は精神主義で勝つ」というような無茶苦茶で狂気のようなことを言っていた。
軍事教練が終わると直ちに埼玉県の豊岡という町(現在の入間市)の飛行機工場へ行き全員が寄宿舎生活に入った。それでも授業は週に何回かあり、町の教会を臨時の教室として利用していた。そして今度行った先の近くには陸軍航空士官学校の飛行場(今の入間基地?)があり、またしても敵機が頻繁に来襲するようになる。
ここの工場では「キ-84」(疾風・はやて)とか「キ-115」(剣・つるぎ)と言う特攻用の飛行機を作っていたが、その頃にはもう素人が見ても材料が粗悪で、ひどい飛行機だった。そして間もなく終戦を迎えることになる。
戦争も末期に近付くと、徴兵年齢は引き下げられ、大学生もそのまま戦場へ駆り立てられるようになる。当時は中学の卒業を待たずに4年からでも進学できたが文系はすぐに兵役が待っているので理系を選ぶことにして、ある専門学校を受験した。田舎から東京へ受験に行くにしても、一々学校からの証明書を持参しなければ、汽車の切符も手に入らない時代であった。
学校は池袋にあって文系大学に付属の理系新設校で、受験その他で度々上京したが、その度に空襲に遭って東京へ出向くのは危険極まりなかった。池袋の周りは強制疎開や焼夷弾爆撃を受けて惨澹たる有様だった。駅の近くでは疎開を急ぐ人達が家財や書画骨董の類をそれこそ二束三文で売り叩いていたが、誰も見向きもしない。それでいて衣類や食料は何処にも売っているところはない。また本を手に入れるべく神田や新宿へ行っても、焼け跡ばかりで本を買うどころではなかった。
また入学に当たっての健康診断は築地の聖路加病院で行われたが、その当時は「大東亜中央病院」と称していたと日記に記されている。
当時商業学校は5年制であったのに、この年から4年で卒業ということにになった。毎日勤労動員で勉強は殆どしていないのに、卒業させられたのである。専門学校には4月に入学の予定が軍需工場《軍事に必要な物資の製造工場》の勤労動員が優先して、入学は無期延期になり専攻科ということでそのまま現在の工場に居残ることになる。もうその頃は敗戦も間近というのに同級生のうち何人かは、満洲の国策会社《国の政策により作られた会社》への就職が決まって20年の3月と6月に敦賀港から出港した者もいたのだから、全く哀れという外ない。
そして予定の専門学校に入ったのは3カ月遅れの7月になってからである。入学後も学業どころか、またしても飛行機工場への動員であった。動員前に学校で何日かの合宿による軍事教練が行われた。東京での合宿は毎晩の空襲でその度に屋外へ避難し恐ろしい夜が続いた。誰かがこの学校はキリスト教系だから爆撃を受ける心配は無いなどと言っていたが、本当に周りは無差別爆撃を受けていたのに、この学校の構内には一発の爆弾も落とされなかったような気がする。
教練を担当した配属将校は陸軍大佐だったが「神国日本は精神主義で勝つ」というような無茶苦茶で狂気のようなことを言っていた。
軍事教練が終わると直ちに埼玉県の豊岡という町(現在の入間市)の飛行機工場へ行き全員が寄宿舎生活に入った。それでも授業は週に何回かあり、町の教会を臨時の教室として利用していた。そして今度行った先の近くには陸軍航空士官学校の飛行場(今の入間基地?)があり、またしても敵機が頻繁に来襲するようになる。
ここの工場では「キ-84」(疾風・はやて)とか「キ-115」(剣・つるぎ)と言う特攻用の飛行機を作っていたが、その頃にはもう素人が見ても材料が粗悪で、ひどい飛行機だった。そして間もなく終戦を迎えることになる。