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私の戦時体験 (らくてん)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/11/23 7:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに  メロウ伝承館スタッフより

 インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。

 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたもので、投稿者のご了承を得て転載させていただいているものです。 

 ・タイトル脇の数字は、投稿日を示しています。


 私の戦時体験 その1 95/06/14

 商業学校  (1941-43)

 今年は戦後50年にあたり、戦時中《太平洋戦争(大東亜戦争1941~1945米英蘭ソ連合軍との戦いの最中》の体験者の一人として、何かを書き残すのは自分としての責務であると感じ、拙文《せつぶん=自分の書いた文章をへりくだっていう言葉》を綴ることにした。
 太平洋戦争は私が商業学校に入った年に始まり、卒業した年に戦争が終った。
 そこでその時代の学生生活を書き記すことは、一つの戦時体験として無意味ではないような気がする。なにしろ50年以上前の少年時代のことなので、記憶も薄れ考えも纏まっているわけではない。ただ、ここにその間の日記があるので、それを辿りながら記したいと思っている。

 先ず当時の日記から(12才、字句はママ)

 『昭和16年12月8日(月)

 朝礼の時に校長先生から日・米英の戦端が開かれたことを聞いた。後再度のニュースによれば最早我が軍は赫々《かくかく=勢いが盛んな様子》たる戦果を納めている。朝畏くも《かしこくも=もったいなくも》米英に対する宣戦布告の詔書《天皇の命令を伝える文書》が下された。家へ帰ると昼間線が通って居ないのに電気がついてゐたのでラヂオの戦況を聞いた。』

 (注)昼間線=農業用の機械に使用する時だけは昼間でも電気が来ていた。
 それ以外、電灯用の電気は夜間にしか来ない。当時電池式ラジオなど
 一般家庭にはないから昼間ラジオを聞くことができなかった。

 『昭和17年2月16日(月)

 帝国万歳!! 英、東亜侵略《東南アジア地方を欧米が殖民地政策を行なう》第一の拠点「新嘉坡」は遂に陥落せり。時に十五日午後七時五十分遂に敵は我軍門に降った。』 以下略

 (注)新嘉坡=シンガポール、日本軍占領中は昭南市と改称。

 こんな調子で皆が浮かれていたのに、戦況は昭和17年6月のミッドウエー海戦を境に次第に暗雲が垂れ込めるようになったがそれは知る由もない。
 毎月1回校長の訓話があったが、「戦況は不利で米英の力を侮ってはいけない」としきりに言う。当時は何と腰抜けな校長かと思っていたが、後で考えると大した人であった。あの頃に大本営発表と違うことを言うのは、相当な見識《けんしき=広い知識》と勇気が必要であった。その校長は開明的《かいめいてき=聡明で進歩的》な人で毎年朝鮮半島からの学生を受け入れており、私の組にも一人いて、私とは席を隣り合わせで親しくしていたが昭和19年初め頃に帰省した儘で遂に戻ることはなかった。きっと故国北鮮へ帰って世界の情勢を知って戻れなかったのかも知れない。50年経った今はどうしているのだろうか。

 当時の学校教育は理科系優先で商業科目は殆ど力が入らない。学校も上から工業校に転換を迫られていたらしく、多くの商業校は工業校に転換又は工業科を併設したが、我が校は校長が長州人の頑固さを貫いたようで遂に商業校で通した。その頃教員のうちで一番羽振が良かったのは配属将校《軍事訓練を指導する陸軍から派遣された将校》であった。学科目のなかでは軍事教練が最優先となり、やがて英語教育は敵性語《てきせいご=敵国と認められる国の言葉》との理由で廃止されることになる。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/24 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 音楽部  (1941-44)

 学校内での軍事色が強くなってきて、部活は大幅に制限され、野球やテニスなどのボールを扱う競技は全部廃止になった。残っているのは剣道、柔道、弓道、相撲などで、数少ない部活から私が選んだのは音楽部だった。ブラスバンドの一員として管楽器の主にトランペットを担当した。ただし他の部に比べ白い眼で見られがちであった。そんな中でも少しは音楽を理解し激励してくれる人もあった。

 音楽部での練習曲目は軍歌が多く、流行歌などはもっての外であった。町から出征兵士《戦地に赴く兵士》があると授業から抜けだして駅まで行き、送別の勇ましい軍歌を吹奏したりした。駅頭で演奏したのは多分

   「勝ってくるぞと勇ましく  誓って国を出たからは
    手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞く度に
    瞼に浮かぶ 旗の波」

  とか「我が大君に召されたる・・・」で歌い出しの「出征兵士を送る歌」 のような曲だったと思う。

 また合宿練習の時には陸軍の軍楽隊から下士官が来て徹底的にしごかれた。何といっても花形は年に一度の閲兵分列式《軍事教練の一つで団体行進を点検する査閲》である。全校生徒が何日も前から練習を重ね、いよいよ当日になると、ブラスバンドが先頭に立ち、査閲官の前を軍隊式に行進するのであった。そして曲は「分列行進曲」といって
 抜刀隊の歌
   「吾は官軍 我が敵は  天地容れざる 朝敵ぞ
    敵の大将たるものは  古今無双の 英雄で・・・」の曲であった。

 軍歌の外に外国の練習曲はドイツや東欧系に限られ、それ以外は全部禁止になる。ある時、校内で「蛍の光」を練習していたら先生が突然怒鳴り込んできて「やめろ、やめろ」と言う。何のことかと思ったら敵国の音楽を演奏してはならんということであった。今から見ると考えられないような馬鹿らしい時代であった。そんな時でも古関裕而の曲に出会うと嬉しかったのを覚えている。

 一番の思い出は昭和19年の初め頃、当時の東京、麹町、内幸町にあったNHK放送会館から約5~6曲の演奏が全国に生放送されたことだった。
 その音楽部もやがて練習さえ出来なくなる。それは学徒動員《強制的に学生を勤労につかせる》で全生徒が軍の工場で働くようになってしまったからである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/25 9:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 勤労動員 (1944-45)

 昭和19年に入ると戦局《戦争の状況》は一段と悪化してきたが、何も知らされてない我々は商業学校の4年生に進んだがもう学業どころではない。通年動員といって埼玉北部に疎開してきた陸軍の造兵廠(兵器や火薬の製造所)に勤労学徒として年間を通して働くようになった。4年生に進級する頃には同級生のうち予科練(海軍飛行予科練習生)や特幹乙種(陸軍特別幹部候補生)に志願した者は学年生徒の3分の1に達し、学級も編成替えを余儀なくされていた。
 あの頃は既に陸海軍に入隊した先輩が、格好の良い軍装で母校を訪問し「君達も俺に続け」と呼びかけるので、それに憧れて志願する者が多かった。

 陸軍造兵廠は東京の王子、板橋と群馬からの寄集めの工場であり、近県や広島県忠海の人達が来ていた。綿火薬(めんかやく・ニトロセルロース)の製造という危険な作業で、現に火薬原料の反応中に化学分解が起きて、赤黄色の有毒ガスが発生することもしばしばあり、半鐘《火災等を知らせる釣鐘》を鳴らしてその度に職場を放棄して風上に逃げるのだった。友人は作業衣に火薬の粉が付着していたのを知らずにたき火に当って火傷を負ったこともあった。工員の人達も髪の毛が抜けていたり歯の悪い人が多かったのも有毒ガスのせいだったかも知れない。

 当時の日記の中に、こんな工場火災の記録があった。(字句はママ)

 『昭和20年5月21日(月)  (注、この日は夜勤)

  9時一寸過ぎ時分だったらうか「火事だ」という声に一寸見ると硝化(注、隣の建物で硝酸を化合させる所)が一面に火が揚って炎上している。驚いて飛び出しポンプを見つけに行ったがどこにもない。火の粉が飛び煮洗(注、隣の建物の名称)も危なく、水を出すにも停電にて水は停る。硝化は無論駄目で延焼防止に努める。その内にガソリンポンプも来て消火する。約1時間半遂に消火を終る。ガス(注、有毒ガス)も相当に発生した様だ。食事後は休養をとる。』

 『昭和20年5月22日(火)

  火事の原因は何だったらうか。裸線によるというもの、自然発火というもの、何しろ綿受(注、火薬の原料を受け入れる所)の1号室から発火したのだそうである。下はコンクリートであったけれども上はすっかり焼けてしまった。
 旋回器(注、反応用の機械)も焼けた。復旧するにはどれだけかかるだろうか。
 それはともあれガス発生の為に吸った者もあると軍医殿も来られて診察される。
 朝工場長殿より此の事は口外せぬ様言われる。此の為もう夜勤もなくなり自分等も明日より昼勤に廻ることになった。今日は一日休む。』

 この火災によって、火薬の製造ラインは暫くの間ストップすることになった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/26 8:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 勤労動員つづき (1944-45)

 その陸軍造兵廠の工場は疎開《空襲や災害に備え地方に移転する》工場のため、3つの地域に亘って広い農地や山林を潰して造られ、大小の建物が畑や林の中に散在して出来ていた。第1期は発射火薬の仕上工場、第2期は原料工場、第3期は最も危険なニトログリセリン(ダイナマイトの原料)工場であった。我々はそこで工場の建設から火薬の製造まで携わってきた。

 特に最後に携ったNG(ニトログリセリン)工場は、一つの建物ごとに高さ6~7(?)位の掩堤に囲まれており、一棟が爆発しても他に誘爆しないようになっていた。
 入り口は狭い通路が1カ所しかなく、火薬を運搬するのにも衝撃を与えないよう、1分間に何歩で歩くと決められていたようだ。

 因みに勤労動員中の勤務時間は朝7時から夜の6時まで、時には交替で夜勤があり、その時の勤務時間は夜7時から翌朝の6時までである。そして休日は月に2回の日曜日だけであった。

 その当時一番嬉しかったのは月に1~2回、物資が配給になることだった。日記にその都度書いてある位だから余程嬉しかったに違いない。
 どんな物が配給になったかその頃の日記から拾ってみよう。

    パン、梨、団栗パン、紅白の餅が2個づつ、
    赤飯、ビスケット、蜜柑、煙草または菓子のいずれか、
    手袋、ズボン、土瓶、化粧石鹸、コップ、
    下駄(抽選で) など

 それらは大切に持ち帰って家族で分け合ったのであろう。その頃の家庭では主食をはじめ衣類、燃料、酒、煙草、砂糖、塩からマッチ棒に至るまで、生活物資すべてが配給制で商店はどこも空っぽで、自由に買えるものは何一つなかった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/29 9:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 空襲  (1944-45)

 私の所は東京から北西に約80キロ離れていて、空襲《航空機による襲撃》には直接に被害は受けないものの、利根川の対岸約10キロの太田市に中島飛行機の主力工場があり、何度も空襲を目撃した。以下当時の日記には連日のように空襲の記録があるが、そのなかから主なものを拾って見よう。

昭19.11.01  マリアナ《注1》から出たB29《米国大型爆撃機》、1機が
            初めて東京上空に偵察に現れる。
  19.11.07  B29が2機、飛行機雲を引いて埼玉北部に現れる。
  19.11.24  B29が80機、突如として東京を初空襲。
  20.01.22  職場で竹槍訓練《竹槍を武器にした訓練》が始まる。
  20.02.10  太田市へ空襲の初体験。(B29)
  20.02.16  同じく太田市への空襲。(艦載機)《航空母艦搭載の飛行機》
  20.02.25  同じく太田市への空襲。(B29と艦載機)
            この日は皇居にも爆弾投下。
  20.03.10  東京大空襲。(B29)
            80キロ離れた我が地域からも黒煙が望見された。
  20.04.04  太田市へ夜間の大空襲 (B29)
  20.05.25~26  東京大空襲 (B29)
  20.08.14~15  熊谷の空襲 (B29)

 上記のうちからの日記を書き出してみる。(15才、字句はママ)

 『20.02.10  午後空襲となり数悌団《ていだん=注2》づつ
            10機内外にて約90機主と
            して太田方面に爆弾を投下した。敵2機一度に墜落した
            時は皆喚声をあげた。我戦闘機も体当たりせんと近付い
            て落ちるなど全く気の毒な場面も見せられた。太田付近
            より上る黒煙が高く風に流れて望見された。空襲の初体
            験であった。』

 『20.02.12  新聞に一昨日墜落したB29の写真が出てゐた。
            あの2機が群馬県邑楽郡の高島村に落ちたそうで付近の
            人で見に行くと言ってゐた人もあった。』

 『20.02.16  7時家を出ようとすると直ちに警戒警報が発令され、東
            部軍管区《陸軍が管轄する東部区域》情報は敵小型機
            数十機東方より近接しつつある
            事を伝へた。間もなく空襲警報。明らかに我近海の敵の
            有力なる機動部隊《注3》より放ったものである。遂に来たのだ。
            情報はよくわからなかったが幾度か解除になり又出たが
            午後突如敵約50機が太田方面を急降下爆撃するのが望
            見された。家へ帰って聴くと実に千数百機による波状攻
            撃は9時間に及んだ。一晩中警戒管制である。』

           (注、この時の空襲で私の従兄は太田の飛行機工場におり
            防空壕に避難したが爆弾の直撃を受けて重傷を負った。
            そして同じ壕に入っていた人の多くは死亡したとのこと)

注1.
南太平洋マリアナ諸島
注2.
軍隊区分で 大部隊をいくつかの部隊に区分した内の一部隊
注3.
航空母艦を中心に戦艦、巡洋艦、駆逐艦等による艦隊編成部隊
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 空襲 つづき  (1945)

 前回に続いて空襲体験を当時の日記から拾って見る。(16歳、字句はママ)

『20.02.25  どんよりとした雪雲は空一面に張り折角の日曜日を憂鬱に
           してしまふ。朝食時突如として臨時放送に依る横鎮《よこちん
           =海軍横須賀鎮守府》
発表は
           敵機動部隊の北上を伝へ間もなく警報は空襲を知らせ、艦
           載機多数は数編隊に別れて各地に来った。10時頃であっ
           たらうか関東東北部にあった敵は関東西北地区に来った。
           高射砲弾の音のするほうを見ると来た来た小雀の様なのが
           相当数弾幕を縫ひ群がり急降下する。と同時に地上より煙
           が上がり、機銃掃射も聞きとれる。小型機による波状攻撃
           と相まって午後はB29百数十機も京浜地区に来る。一部
           は頭上にて数回爆音が聞える。3時頃より又もや雪が降り
           出す。』

『20.02.26  昨日の敵機の来襲状況は艦載機約600機、午後主として
           帝都に来襲したるB29は130機であり、それに関する
           発表によるとB29の盲爆《目標も定めない爆撃》により
           恐れ多くも宮中にも爆弾を投下したと事。           
           この仇いかで撃たざるべからず。』

『20.04.04  零時半警戒警報の音に目を醒ます。情報では敵多数機は
           1時に本土到着の見込みと入った。空襲警報と間もなく太
           田方面に於て物凄い爆発音と地響きで起床せざるを得なく
           なった。見ると北方に照明弾が数発あかあかと照っている
           のが見えた。その間にも爆発音と地響き、雲に反響する大
           音響、爆発の光り、照明弾の輝きそして高射砲の音が交錯
           して3時半頃に迄及んだ。利根川北方一帯の爆撃らしかっ
           た。大火災も望見され、こんなことは初めての体験であっ
           た。工場へ行っても一日中その話で持ち切りであった。朝
           から雨にて春にも似ず冷たく寒気が身にしみて来る。』

 また日記には記録がないが、はっきり覚えていることがあるので次に記す。

 この年の暑い日、利根川の河原へ行って見ると、いくつもの焼夷弾《しょういだん=高熱と発火で総てを焼き払う目的の爆弾》の不発が落ちていた。中には裂けていてゼリー状のものがむき出しになっているのもあり、何かに使えるかと思って中から掬って拾って来たが何の役にも立たなかった。そして河川敷にある我が家の畑へ行って見たら、なんと不発弾が一つ落ちていた。その頃、爆弾の処理班など知らないから、自分で片付けるしかない。親戚の者を呼んできて二人で何十キロもあるのを肩に担いで川の近くの窪みに放り投げてきたが、本当に冷や汗ものだった。

 ほかにも色々なことがあり、私の同級生は不発弾に向かって遠くから石を投げていたが当らないので段々近付き、近くから投げた石が信管に命中して爆発し、全身に大火傷を負うという事故があった。
 少年の頃の仕業とはいえ、今から考えるとまったく無茶なことをしたものだ。


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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 専門学校 (1945)

 戦争も末期に近付くと、徴兵年齢は引き下げられ、大学生もそのまま戦場へ駆り立てられるようになる。当時は中学の卒業を待たずに4年からでも進学できたが文系はすぐに兵役が待っているので理系を選ぶことにして、ある専門学校を受験した。田舎から東京へ受験に行くにしても、一々学校からの証明書を持参しなければ、汽車の切符も手に入らない時代であった。

 学校は池袋にあって文系大学に付属の理系新設校で、受験その他で度々上京したが、その度に空襲に遭って東京へ出向くのは危険極まりなかった。池袋の周りは強制疎開や焼夷弾爆撃を受けて惨澹たる有様だった。駅の近くでは疎開を急ぐ人達が家財や書画骨董の類をそれこそ二束三文で売り叩いていたが、誰も見向きもしない。それでいて衣類や食料は何処にも売っているところはない。また本を手に入れるべく神田や新宿へ行っても、焼け跡ばかりで本を買うどころではなかった。
 また入学に当たっての健康診断は築地の聖路加病院で行われたが、その当時は「大東亜中央病院」と称していたと日記に記されている。

 当時商業学校は5年制であったのに、この年から4年で卒業ということにになった。毎日勤労動員で勉強は殆どしていないのに、卒業させられたのである。専門学校には4月に入学の予定が軍需工場《軍事に必要な物資の製造工場》の勤労動員が優先して、入学は無期延期になり専攻科ということでそのまま現在の工場に居残ることになる。もうその頃は敗戦も間近というのに同級生のうち何人かは、満洲の国策会社《国の政策により作られた会社》への就職が決まって20年の3月と6月に敦賀港から出港した者もいたのだから、全く哀れという外ない。

 そして予定の専門学校に入ったのは3カ月遅れの7月になってからである。入学後も学業どころか、またしても飛行機工場への動員であった。動員前に学校で何日かの合宿による軍事教練が行われた。東京での合宿は毎晩の空襲でその度に屋外へ避難し恐ろしい夜が続いた。誰かがこの学校はキリスト教系だから爆撃を受ける心配は無いなどと言っていたが、本当に周りは無差別爆撃を受けていたのに、この学校の構内には一発の爆弾も落とされなかったような気がする。
 教練を担当した配属将校は陸軍大佐だったが「神国日本は精神主義で勝つ」というような無茶苦茶で狂気のようなことを言っていた。

 軍事教練が終わると直ちに埼玉県の豊岡という町(現在の入間市)の飛行機工場へ行き全員が寄宿舎生活に入った。それでも授業は週に何回かあり、町の教会を臨時の教室として利用していた。そして今度行った先の近くには陸軍航空士官学校の飛行場(今の入間基地?)があり、またしても敵機が頻繁に来襲するようになる。
 ここの工場では「キ-84」(疾風・はやて)とか「キ-115」(剣・つるぎ)と言う特攻用の飛行機を作っていたが、その頃にはもう素人が見ても材料が粗悪で、ひどい飛行機だった。そして間もなく終戦を迎えることになる。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 終  戦  (1945)

 昭和20年の8月になると戦局もいよいよ急を告げる様になってきたが、人々は実情を知られることはなく、広島・長崎の原爆もただ新型爆弾としか報道されなかった。そして米軍が上陸して来たらいよいよ本土決戦で、我々も竹槍を持って戦い「最後は赤城山へ立て籠って死ぬまで戦うのだ」ということを言っていた。

 空襲は相変わらず昼は艦載機、夜はB29と、休まる間がないくらいだ。そんな中である日、伝単(敵の宣伝ビラ)を拾った。見ると「マリヤナ時報」とあり中味は降伏勧告のように見えた。これが後で知ったポツダム宣言《注1》であった。全文を読んだが、当時その内容を理解するだけの力はなく、一読して破り捨ててしまった。
 そして埼玉県の豊岡町(現在の入間市)における学徒動員先で寄宿舎生活を送りながら、飛行機工場に於いて15日の終戦を迎えることになる。

8月14日から16日までの日記を書き出してみる。(当時16歳、字句はママ)

 『昭和20年8月14日 火曜日  晴

  夜先生が来られて座談会の様なのを開く。中でも現在の日本の現状等についての話が出る。先生の話によると最悪の事態に処する為、今、宮中では毎日重臣会議が開かれてゐる等、又日本は過日ソ聯政府を通じて講和を申込んだ話等聞き、そんな馬鹿な話があるかと思った。今晩も空襲の予告あり。』

  (注、このときの先生は外務省の友人から情報を得ていたという)

 『昭和20年8月15日 水曜日  晴

  霧の深い朝だった。誰かラヂオを聞いて来て、今日正午、畏くも陛下の重大放送ある旨聞く。耳を疑った程だった。未だ曾てなき事である。理学科の授業にて数学及物理あり。食事後、本社工場前に集合、正午を待つ。
  玉音《ぎょくおん=天皇の声》静かに大東亜戦争の終結を告げ給ふ。
  あヽ此の大東亜戦争も3年8ケ月の長きに亘り、此処に有難き聖断《天皇の御決断》を拝して終 結、吾は悲憤の涙を呑んでポツダム宣言受諾の止むなきに至った。原子爆弾に加ふるにソ聯参加が一層決定的たらしめた。何たることか。我が力足らざる也。今何をか言はんや。以後は生れ変って、軍隊無き日本は科学を以て立つまでだ。一同の気も立ってゐた。』

 『昭和20年8月16日 木曜日 晴

  一同帰省を許す旨通達あり。自分もトランクを持ち、帰る。予期せざる嬉しからざる帰省ではあった。切符買へず東上線にて寄居へ来る。時に四時なり。なれども此処からの切符なし。遂に徒歩を企図し四里半の道を歩いてしまふ。家に着くは八時過ぎ、悲憤の情やみ難く一夜話したり。
  熊谷は14日夜、B29の空襲により相当の被害を受けたとの事、又中瀬も若干やられたとの事。残虐極りなき原子爆弾の現地報告も連日新聞にもあり。
 デマなるか我特攻隊《注2》続々突入中也と。今夜に至るも猶敵の空襲に備へ用意おさおさ怠りなし。現に昼間も警報の発令ありたり。』

  (注)この15日と16日の日記は博文館新社刊「昭和20年夏の日記」という本に掲載あり。16日の日記の後半はこの会議室 #126にて既報。なお、この終戦日に授業が行われた町の教会は、先年懐旧《かいきゅう=昔の事を懐かしく思い出す》の念に駆られて訪ねたところ、外観内部とも終戦のあの日と全く変らずに残っており感慨無量であった。

 かくして太平洋戦争は昭和天皇の御聖断により終結した。私の生まれた昭和4年(1929)は世界恐慌《注3》の始った年であり、昭和20年(1945)16歳の時に戦争が終ったが、特に太平洋戦争中の昭和16年から4年間の学生時代のことは忘れることはできない。今回、当時の日記を見ながらあの頃を辿ってきた。そして、いま改めて「終戦の証書」のなかにある一節『堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノタメニ太平ヲ開カムト欲ス』のところを何度も繰り返して読んでみた。

 今年は丁度戦後50年にあたり、もう一度あの戦争について思い起こし、その教訓を後世に伝える義務があるのではなかろうか。

  まとまりのない文章を最後までお読みいただき感謝します。(完)

注1.
ベルリン郊外のボツダムにおいて 米英中3国が日本に対し無条件降伏を 1945年7月26日に宣言した
注2.
航空機で爆弾と共に 体当たり攻撃をする
注3.
1929年10月24日にニューヨーク株式市場(ウオール街)で株価が大暴落したことに端を発し世界規模の恐慌が始まる

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