私の戦時体験 (らくてん)・その8 (最終回)
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私の戦時体験 (らくてん) (編集者, 2007/11/23 7:48)
- 私の戦時体験 (らくてん) その2 (編集者, 2007/11/24 8:01)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その3 (編集者, 2007/11/25 9:04)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その4 (編集者, 2007/11/26 8:06)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その5 (編集者, 2007/11/29 9:17)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その6 (編集者, 2007/11/29 9:18)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その7 (編集者, 2007/11/29 9:22)
- 私の戦時体験 (らくてん)・その8 (最終回) (編集者, 2007/11/30 8:09)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
終 戦 (1945)
昭和20年の8月になると戦局もいよいよ急を告げる様になってきたが、人々は実情を知られることはなく、広島・長崎の原爆もただ新型爆弾としか報道されなかった。そして米軍が上陸して来たらいよいよ本土決戦で、我々も竹槍を持って戦い「最後は赤城山へ立て籠って死ぬまで戦うのだ」ということを言っていた。
空襲は相変わらず昼は艦載機、夜はB29と、休まる間がないくらいだ。そんな中である日、伝単(敵の宣伝ビラ)を拾った。見ると「マリヤナ時報」とあり中味は降伏勧告のように見えた。これが後で知ったポツダム宣言《注1》であった。全文を読んだが、当時その内容を理解するだけの力はなく、一読して破り捨ててしまった。
そして埼玉県の豊岡町(現在の入間市)における学徒動員先で寄宿舎生活を送りながら、飛行機工場に於いて15日の終戦を迎えることになる。
8月14日から16日までの日記を書き出してみる。(当時16歳、字句はママ)
『昭和20年8月14日 火曜日 晴
夜先生が来られて座談会の様なのを開く。中でも現在の日本の現状等についての話が出る。先生の話によると最悪の事態に処する為、今、宮中では毎日重臣会議が開かれてゐる等、又日本は過日ソ聯政府を通じて講和を申込んだ話等聞き、そんな馬鹿な話があるかと思った。今晩も空襲の予告あり。』
(注、このときの先生は外務省の友人から情報を得ていたという)
『昭和20年8月15日 水曜日 晴
霧の深い朝だった。誰かラヂオを聞いて来て、今日正午、畏くも陛下の重大放送ある旨聞く。耳を疑った程だった。未だ曾てなき事である。理学科の授業にて数学及物理あり。食事後、本社工場前に集合、正午を待つ。
玉音《ぎょくおん=天皇の声》静かに大東亜戦争の終結を告げ給ふ。
あヽ此の大東亜戦争も3年8ケ月の長きに亘り、此処に有難き聖断《天皇の御決断》を拝して終 結、吾は悲憤の涙を呑んでポツダム宣言受諾の止むなきに至った。原子爆弾に加ふるにソ聯参加が一層決定的たらしめた。何たることか。我が力足らざる也。今何をか言はんや。以後は生れ変って、軍隊無き日本は科学を以て立つまでだ。一同の気も立ってゐた。』
『昭和20年8月16日 木曜日 晴
一同帰省を許す旨通達あり。自分もトランクを持ち、帰る。予期せざる嬉しからざる帰省ではあった。切符買へず東上線にて寄居へ来る。時に四時なり。なれども此処からの切符なし。遂に徒歩を企図し四里半の道を歩いてしまふ。家に着くは八時過ぎ、悲憤の情やみ難く一夜話したり。
熊谷は14日夜、B29の空襲により相当の被害を受けたとの事、又中瀬も若干やられたとの事。残虐極りなき原子爆弾の現地報告も連日新聞にもあり。
デマなるか我特攻隊《注2》続々突入中也と。今夜に至るも猶敵の空襲に備へ用意おさおさ怠りなし。現に昼間も警報の発令ありたり。』
(注)この15日と16日の日記は博文館新社刊「昭和20年夏の日記」という本に掲載あり。16日の日記の後半はこの会議室 #126にて既報。なお、この終戦日に授業が行われた町の教会は、先年懐旧《かいきゅう=昔の事を懐かしく思い出す》の念に駆られて訪ねたところ、外観内部とも終戦のあの日と全く変らずに残っており感慨無量であった。
かくして太平洋戦争は昭和天皇の御聖断により終結した。私の生まれた昭和4年(1929)は世界恐慌《注3》の始った年であり、昭和20年(1945)16歳の時に戦争が終ったが、特に太平洋戦争中の昭和16年から4年間の学生時代のことは忘れることはできない。今回、当時の日記を見ながらあの頃を辿ってきた。そして、いま改めて「終戦の証書」のなかにある一節『堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノタメニ太平ヲ開カムト欲ス』のところを何度も繰り返して読んでみた。
今年は丁度戦後50年にあたり、もう一度あの戦争について思い起こし、その教訓を後世に伝える義務があるのではなかろうか。
まとまりのない文章を最後までお読みいただき感謝します。(完)
注1.
ベルリン郊外のボツダムにおいて 米英中3国が日本に対し無条件降伏を 1945年7月26日に宣言した
注2.
航空機で爆弾と共に 体当たり攻撃をする
注3.
1929年10月24日にニューヨーク株式市場(ウオール街)で株価が大暴落したことに端を発し世界規模の恐慌が始まる
昭和20年の8月になると戦局もいよいよ急を告げる様になってきたが、人々は実情を知られることはなく、広島・長崎の原爆もただ新型爆弾としか報道されなかった。そして米軍が上陸して来たらいよいよ本土決戦で、我々も竹槍を持って戦い「最後は赤城山へ立て籠って死ぬまで戦うのだ」ということを言っていた。
空襲は相変わらず昼は艦載機、夜はB29と、休まる間がないくらいだ。そんな中である日、伝単(敵の宣伝ビラ)を拾った。見ると「マリヤナ時報」とあり中味は降伏勧告のように見えた。これが後で知ったポツダム宣言《注1》であった。全文を読んだが、当時その内容を理解するだけの力はなく、一読して破り捨ててしまった。
そして埼玉県の豊岡町(現在の入間市)における学徒動員先で寄宿舎生活を送りながら、飛行機工場に於いて15日の終戦を迎えることになる。
8月14日から16日までの日記を書き出してみる。(当時16歳、字句はママ)
『昭和20年8月14日 火曜日 晴
夜先生が来られて座談会の様なのを開く。中でも現在の日本の現状等についての話が出る。先生の話によると最悪の事態に処する為、今、宮中では毎日重臣会議が開かれてゐる等、又日本は過日ソ聯政府を通じて講和を申込んだ話等聞き、そんな馬鹿な話があるかと思った。今晩も空襲の予告あり。』
(注、このときの先生は外務省の友人から情報を得ていたという)
『昭和20年8月15日 水曜日 晴
霧の深い朝だった。誰かラヂオを聞いて来て、今日正午、畏くも陛下の重大放送ある旨聞く。耳を疑った程だった。未だ曾てなき事である。理学科の授業にて数学及物理あり。食事後、本社工場前に集合、正午を待つ。
玉音《ぎょくおん=天皇の声》静かに大東亜戦争の終結を告げ給ふ。
あヽ此の大東亜戦争も3年8ケ月の長きに亘り、此処に有難き聖断《天皇の御決断》を拝して終 結、吾は悲憤の涙を呑んでポツダム宣言受諾の止むなきに至った。原子爆弾に加ふるにソ聯参加が一層決定的たらしめた。何たることか。我が力足らざる也。今何をか言はんや。以後は生れ変って、軍隊無き日本は科学を以て立つまでだ。一同の気も立ってゐた。』
『昭和20年8月16日 木曜日 晴
一同帰省を許す旨通達あり。自分もトランクを持ち、帰る。予期せざる嬉しからざる帰省ではあった。切符買へず東上線にて寄居へ来る。時に四時なり。なれども此処からの切符なし。遂に徒歩を企図し四里半の道を歩いてしまふ。家に着くは八時過ぎ、悲憤の情やみ難く一夜話したり。
熊谷は14日夜、B29の空襲により相当の被害を受けたとの事、又中瀬も若干やられたとの事。残虐極りなき原子爆弾の現地報告も連日新聞にもあり。
デマなるか我特攻隊《注2》続々突入中也と。今夜に至るも猶敵の空襲に備へ用意おさおさ怠りなし。現に昼間も警報の発令ありたり。』
(注)この15日と16日の日記は博文館新社刊「昭和20年夏の日記」という本に掲載あり。16日の日記の後半はこの会議室 #126にて既報。なお、この終戦日に授業が行われた町の教会は、先年懐旧《かいきゅう=昔の事を懐かしく思い出す》の念に駆られて訪ねたところ、外観内部とも終戦のあの日と全く変らずに残っており感慨無量であった。
かくして太平洋戦争は昭和天皇の御聖断により終結した。私の生まれた昭和4年(1929)は世界恐慌《注3》の始った年であり、昭和20年(1945)16歳の時に戦争が終ったが、特に太平洋戦争中の昭和16年から4年間の学生時代のことは忘れることはできない。今回、当時の日記を見ながらあの頃を辿ってきた。そして、いま改めて「終戦の証書」のなかにある一節『堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノタメニ太平ヲ開カムト欲ス』のところを何度も繰り返して読んでみた。
今年は丁度戦後50年にあたり、もう一度あの戦争について思い起こし、その教訓を後世に伝える義務があるのではなかろうか。
まとまりのない文章を最後までお読みいただき感謝します。(完)
注1.
ベルリン郊外のボツダムにおいて 米英中3国が日本に対し無条件降伏を 1945年7月26日に宣言した
注2.
航空機で爆弾と共に 体当たり攻撃をする
注3.
1929年10月24日にニューヨーク株式市場(ウオール街)で株価が大暴落したことに端を発し世界規模の恐慌が始まる