学徒出陣から復員まで
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学徒出陣から復員まで (あんみつ姫, 2007/12/4 11:39)
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投稿日時 2007/12/4 11:39
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
哈爾浜《ハルピン=中国黒龍江省の省都》学院 21期生 工藤 精一郎(1989年 記)
たしか十一月の二十八日 (昭和十八年)だったと思うが、下宿先のパラノフスキー家が送別会を開いてくれた。家族に見送られることもできぬぼくをあわれに思ったのだ。老夫婦、チユーリンに勤めている長男夫婦、北満学院学生の弟スラーヴァ(ラステスラヴ)と妹ヴエーラ、ぼく、それに一軒おいて隣りに下宿していた久野が、心づくしの手作りの料理が並んだテーブルをかこんだ。
どんな話をしたか覚えていないが、老母が涙ぐみながらかわいそうに、死ぬんじゃないよ、と言った言葉だけが忘れられない。
十一月三十日、スラーヴァたちに見送られて、ハルビン駅を発った。誰かがシューバのポケットにウォッカを一本おしこんでくれた。翌十二月一日、酔いの残った頭で、ふらふらしながら遼陽駅《りょうようえき=中国東北部遼寧省の省都の駅-》に下りた。出迎えの下士官に引率されて、歩兵第五七四連隊の営門をくぐった。この一歩で私人としてのばくの生活は終ったのである。しかしそう思ったのはあとのことで、その時はもやもやした頭でどうにでもなれとふてくされていた。
一列に並ばせられ、背丈の高い方から数名が区切られて、連隊砲中隊所属ということになった。伊藤清久、ぼく、野崎秀堆、それに一期下の黒川、中井、深谷の諸君が同じ中隊になった。ここで一切の私物を小包にして親許に送り、褌のはてまで官給品になった。だが中身だけは自分であることをやめないぞ、ちょっとキザだが、これがこの時のぼくの決意だった。
中隊長に呼ばれて「おまえは兵適《へいてき=兵卒にしか使い物にならない管理職に不向き者》という内申がきてるから、徹底的に鍛える」とおどされた。その意をうけてか、班長のA軍曹に(この名前は頭にしみこんでいて、忘れようにも忘れられないのだが、故人の名誉を思い、やはり仮名にする)目の敵にされ、なにかというと引っぱり出されて、さんざんにぶちのめされ、口の中がボロボロに切れて飯粒がはさまって食えないほどだった。みんなに気合いをかけるために、誰かを犠牲にしなければならぬ時は、まずぼくが人身御供にきれるというわけだ。それにぼくのシニカル《ひねくれ者》なニヒル《虚無的な精神状態》な面つきも気にいられなかったらしい。
広渡大尉をうらんでみたが、これも教練《軍事の基本的な訓練》にまったく出なかった自分が招いた災厄だとあきらめざるをえなかった。自慢ではないが、教練は完全に無視し、軍隊宿泊とやらには、その都度何かの理由をつけて、一度も参加したことがないのである。
連隊砲中隊は馬部隊で朝晩馬の手入れがあるために、それに真冬であり、指先があかぎれで縦に割れ、入浴の時はとびあがるほど痛く、朝起きると疼いてボタンもかけられぬほどで、まさに地獄の責め苦で・目方は十キロも減った。もともとあまりない目方だから、まきに幽鬼《ゆうき=死者の亡霊》の如きとでもいうべきか。さて、中隊での成績は二十二期の三人が上から一、二、三番で、二十一期の三人が下から一、二、三番であった。ばくは彼等に言いわたした。「きみらは成績がよく、上官の受けがいいが、ぼくらがハルビンの先輩であることは決して忘れるな」これはつまらない強がりではなく、ぼくらの自負だった。
ところで体重が十キロ減ったことと、強烈なビンタ《頬を殴る》攻撃の狙いうちに堪えたことであがなったのか、ぼくはビリで甲幹《こうかん=甲種幹部候補生注1》に合格した。
(つづく)
注1 陸軍士官学校出身者以外に予備役の将校を養成する制度があり 甲種は将来将校任官予定者の試験合格者 乙種は下士官養成の試験合格者をいう
たしか十一月の二十八日 (昭和十八年)だったと思うが、下宿先のパラノフスキー家が送別会を開いてくれた。家族に見送られることもできぬぼくをあわれに思ったのだ。老夫婦、チユーリンに勤めている長男夫婦、北満学院学生の弟スラーヴァ(ラステスラヴ)と妹ヴエーラ、ぼく、それに一軒おいて隣りに下宿していた久野が、心づくしの手作りの料理が並んだテーブルをかこんだ。
どんな話をしたか覚えていないが、老母が涙ぐみながらかわいそうに、死ぬんじゃないよ、と言った言葉だけが忘れられない。
十一月三十日、スラーヴァたちに見送られて、ハルビン駅を発った。誰かがシューバのポケットにウォッカを一本おしこんでくれた。翌十二月一日、酔いの残った頭で、ふらふらしながら遼陽駅《りょうようえき=中国東北部遼寧省の省都の駅-》に下りた。出迎えの下士官に引率されて、歩兵第五七四連隊の営門をくぐった。この一歩で私人としてのばくの生活は終ったのである。しかしそう思ったのはあとのことで、その時はもやもやした頭でどうにでもなれとふてくされていた。
一列に並ばせられ、背丈の高い方から数名が区切られて、連隊砲中隊所属ということになった。伊藤清久、ぼく、野崎秀堆、それに一期下の黒川、中井、深谷の諸君が同じ中隊になった。ここで一切の私物を小包にして親許に送り、褌のはてまで官給品になった。だが中身だけは自分であることをやめないぞ、ちょっとキザだが、これがこの時のぼくの決意だった。
中隊長に呼ばれて「おまえは兵適《へいてき=兵卒にしか使い物にならない管理職に不向き者》という内申がきてるから、徹底的に鍛える」とおどされた。その意をうけてか、班長のA軍曹に(この名前は頭にしみこんでいて、忘れようにも忘れられないのだが、故人の名誉を思い、やはり仮名にする)目の敵にされ、なにかというと引っぱり出されて、さんざんにぶちのめされ、口の中がボロボロに切れて飯粒がはさまって食えないほどだった。みんなに気合いをかけるために、誰かを犠牲にしなければならぬ時は、まずぼくが人身御供にきれるというわけだ。それにぼくのシニカル《ひねくれ者》なニヒル《虚無的な精神状態》な面つきも気にいられなかったらしい。
広渡大尉をうらんでみたが、これも教練《軍事の基本的な訓練》にまったく出なかった自分が招いた災厄だとあきらめざるをえなかった。自慢ではないが、教練は完全に無視し、軍隊宿泊とやらには、その都度何かの理由をつけて、一度も参加したことがないのである。
連隊砲中隊は馬部隊で朝晩馬の手入れがあるために、それに真冬であり、指先があかぎれで縦に割れ、入浴の時はとびあがるほど痛く、朝起きると疼いてボタンもかけられぬほどで、まさに地獄の責め苦で・目方は十キロも減った。もともとあまりない目方だから、まきに幽鬼《ゆうき=死者の亡霊》の如きとでもいうべきか。さて、中隊での成績は二十二期の三人が上から一、二、三番で、二十一期の三人が下から一、二、三番であった。ばくは彼等に言いわたした。「きみらは成績がよく、上官の受けがいいが、ぼくらがハルビンの先輩であることは決して忘れるな」これはつまらない強がりではなく、ぼくらの自負だった。
ところで体重が十キロ減ったことと、強烈なビンタ《頬を殴る》攻撃の狙いうちに堪えたことであがなったのか、ぼくはビリで甲幹《こうかん=甲種幹部候補生注1》に合格した。
(つづく)
注1 陸軍士官学校出身者以外に予備役の将校を養成する制度があり 甲種は将来将校任官予定者の試験合格者 乙種は下士官養成の試験合格者をいう
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あんみつ姫