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学徒出陣から復員まで

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/4 11:39
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
哈爾浜《ハルピン=中国黒龍江省の省都》学院 21期生      工藤 精一郎(1989年 記)

 たしか十一月の二十八日 (昭和十八年)だったと思うが、下宿先のパラノフスキー家が送別会を開いてくれた。家族に見送られることもできぬぼくをあわれに思ったのだ。老夫婦、チユーリンに勤めている長男夫婦、北満学院学生の弟スラーヴァ(ラステスラヴ)と妹ヴエーラ、ぼく、それに一軒おいて隣りに下宿していた久野が、心づくしの手作りの料理が並んだテーブルをかこんだ。

どんな話をしたか覚えていないが、老母が涙ぐみながらかわいそうに、死ぬんじゃないよ、と言った言葉だけが忘れられない。

 十一月三十日、スラーヴァたちに見送られて、ハルビン駅を発った。誰かがシューバのポケットにウォッカを一本おしこんでくれた。翌十二月一日、酔いの残った頭で、ふらふらしながら遼陽駅《りょうようえき=中国東北部遼寧省の省都の駅-》に下りた。出迎えの下士官に引率されて、歩兵第五七四連隊の営門をくぐった。この一歩で私人としてのばくの生活は終ったのである。しかしそう思ったのはあとのことで、その時はもやもやした頭でどうにでもなれとふてくされていた。

一列に並ばせられ、背丈の高い方から数名が区切られて、連隊砲中隊所属ということになった。伊藤清久、ぼく、野崎秀堆、それに一期下の黒川、中井、深谷の諸君が同じ中隊になった。ここで一切の私物を小包にして親許に送り、褌のはてまで官給品になった。だが中身だけは自分であることをやめないぞ、ちょっとキザだが、これがこの時のぼくの決意だった。

中隊長に呼ばれて「おまえは兵適《へいてき=兵卒にしか使い物にならない管理職に不向き者》という内申がきてるから、徹底的に鍛える」とおどされた。その意をうけてか、班長のA軍曹に(この名前は頭にしみこんでいて、忘れようにも忘れられないのだが、故人の名誉を思い、やはり仮名にする)目の敵にされ、なにかというと引っぱり出されて、さんざんにぶちのめされ、口の中がボロボロに切れて飯粒がはさまって食えないほどだった。みんなに気合いをかけるために、誰かを犠牲にしなければならぬ時は、まずぼくが人身御供にきれるというわけだ。それにぼくのシニカル《ひねくれ者》なニヒル《虚無的な精神状態》な面つきも気にいられなかったらしい。

広渡大尉をうらんでみたが、これも教練《軍事の基本的な訓練》にまったく出なかった自分が招いた災厄だとあきらめざるをえなかった。自慢ではないが、教練は完全に無視し、軍隊宿泊とやらには、その都度何かの理由をつけて、一度も参加したことがないのである。

 連隊砲中隊は馬部隊で朝晩馬の手入れがあるために、それに真冬であり、指先があかぎれで縦に割れ、入浴の時はとびあがるほど痛く、朝起きると疼いてボタンもかけられぬほどで、まさに地獄の責め苦で・目方は十キロも減った。もともとあまりない目方だから、まきに幽鬼《ゆうき=死者の亡霊》の如きとでもいうべきか。さて、中隊での成績は二十二期の三人が上から一、二、三番で、二十一期の三人が下から一、二、三番であった。ばくは彼等に言いわたした。「きみらは成績がよく、上官の受けがいいが、ぼくらがハルビンの先輩であることは決して忘れるな」これはつまらない強がりではなく、ぼくらの自負だった。
ところで体重が十キロ減ったことと、強烈なビンタ《頬を殴る》攻撃の狙いうちに堪えたことであがなったのか、ぼくはビリで甲幹《こうかん=甲種幹部候補生注1》に合格した。

               (つづく)
注1 陸軍士官学校出身者以外に予備役の将校を養成する制度があり 甲種は将来将校任官予定者の試験合格者 乙種は下士官養成の試験合格者をいう

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/4 11:39
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
哈爾浜学院 21期生      工藤 精一郎(1989年 記)

 二月下旬だったと思うが、部隊に突然春季大演習に出動するという命令が下った。夜の点呼で編成が発表された。また関特演《かんとくえん=関東軍特殊演習(対ソ戦争の準備行動)》 か、いやそうではなさそうだ、蒼ざめた四年兵のガン太郎たちがひそひそ話し合い、貯めこんだ私物の始末に大童だった。翌朝、軍装検査、その数時間後に営庭に整列、そして部隊はあわただしく出動して行った。ぼくらの甲幹は残留組になり、荷物をトラックに積んで遼陽の貨物駅に運ぶ作業に従事した。そしてやはり同じ作業で来ていた三一八など他部隊のハルビンツィたちと、三カ月ぶりに顔をあわせた。やあ、元気かと、声をかけ合っただけではあったが、しかしそれで十分だった。

 この出動がぼくには救いだった。ようやく天敵の鬼軍曹《おにぐんそう注1》から解放されたのである。そしてこの三カ月が地獄であっただけに、その後の軍隊生活はぼくにとって気楽なものになった。三月中旬にぼくら残留組はハルビンの孔子廟の近くの部隊に移った。二度と見ることはあるまいと思っていたハルビンである。藤原が新兵として入隊していた。中隊長が福島高商の出身で、ぼくは何度か彼の故郷の話をした。外出は一度もできなかったが、やはりなつかしいハルビンの空気であった。

 四月下旬、幹部候補生たちは予備士官学校《注2》に入ることになり、成績のよい者は関東軍要員として延吉《えんきち=中国東北部吉林省延辺朝鮮自治州の都市》、成績の悪い者は南方要員として内地の教育隊に向うことになった。もちろん、ぼくは内地組にされた。奉天《ほうてん=中国東北部の現在の瀋陽》の、名称は覚えていないが、小学校の校庭に集結した。
その夥しい数にぼくは驚いた。

 遼陽の師団に入ったぼくら満洲《まんしゅう注3》の学徒出陣組《がくとしゅつじんぐみ注4》だけだと思っていたら十一月の内地の学徒出陣組も多勢満洲に来ていたのだ。釜山から連絡船で下関に着くと、ここで熊本の西部軍教育隊組が別れた。ぼくらは中部軍教育隊で、姫路で別れ、福知山へ向った。五月上旬、福知山の中部軍教育隊に入った。町外れの高台にある古めかしい白壁の兵舎である。ぼくはやはり連隊砲中隊、歩兵中隊に瑠璃垣、機関銃中隊に露崎がいたが、ほとんど会うことはできなかった。

全員が候補生で、いやな下士官がいないので、しかも関東軍の猛訓練に比べると、演習はあそびみたいなもので、むしろ楽しく、ばくは反動でめきめき太った。日本原から鳥取までの三日間の行軍、中国山脈内の清流や戦争など知らないようなのどかな村々、二度の民家宿泊、更に宇品での船舶訓練などが、楽しく思い起こされる。そして数日留守にしてもどった兵舎の猛烈な南京虫《なんきんむし=吸血性の寄生虫で台湾トコジラミとも言われていた》の攻撃はすさまじいもので、みんな悲鳴を上げ、毛布を抱いて外にとび出したものだった。

 さて七月下旬、文科系学生(候補生)撲滅論の恐ろしい噂が流れた。教育隊は特甲幹《とくこうかん 注5》の教育に明け渡し、文科系出身の候補生の残り三カ月の教育は南方の前線で実地に行おうというのである。要するに、口先だけ達者な文科系の連中は、前線で弾丸よけになるくらいしか役に立たんというのだ。

七月末の三日間、営内で家族との面会が許された。南方へ行けば、帰れる見込みはまずない。家族との最後の別れである。ぼくのところへは両親と弟が仙台からはるばるやって来た。ハルビン学院の二年生の夏に帰ったきりだから、三年ぶりだ。支給された軍装から、ぼくら満洲と縁の深い百名ほどが満州行きとわかった。あとの千数百人は南方である。よかった、満洲なら大丈夫だと、両親は安心してもどって行った。         (つづく)

注1 兵の教育や分隊長を務める為 叱咤激励し隊員の士気と秩序維持を担っている厳格な畏敬の言葉
注2 下級将校不足を補う為 予備役将校を養成する教育機関
注3 1932~1945中国東北部に我が国の国策で建国された満州国があった
注4 1943年12月旧制大学高等専門学校学生を学業半ばで学窓から軍隊に徴兵した
注5 特別幹部候補生で学徒出陣者を対象に初年兵教育を排除し短期間での将校養成される者

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/4 11:42
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
哈爾浜学院 21期生      工藤 精一郎(1990年 記) 

 満洲組の首席候補生は瑠璃垣だった。満洲組の中に露崎の姿はなかった。機関銃中隊は除外されたのか、八月初め新京《しんきょう=中国東北部の現在の長春で嘗て満州国の首都であった-》 に着き、そしてそれぞれ所属部隊をきめられた。ぼくはまたしてもハルビンだった。しかも学院のすぐ裏の飛行場大隊である。夏休みなのに学生たちは残っていた。営門前の旧競馬場広場を通る学生たちの姿が見える。
外出はできなかったが、ぼくは学院の建物を見上げながら、しあわせな一月を過ごした。八月末に大隊は奉天《ほうてん=中国東北部の現在の瀋陽》郊外の飛行場に移動した。これがぼくのハルビンとの最後の別れになった。

 十月一日から三カ月間、公主嶺《こうしゅれい=中国吉林省の西部都市-》の教育隊で飛行場大隊要員として甲幹の残りの教育を受けることになった。ぼくらは十名ほどで九月二十八日に原隊を出発した。一日が入隊式だから三十日に隊に着けばよい、とぼくは判断した。そしてぼくはみんなと語らって、奉天で一晩自由に過ごす、つまり軍隊用語で放馬することにした。

以来、放馬はぼくの得意芸となった。ぼくはそのころ奉天の、たしか日満商事にいた祖泉と、連絡をとり、特務機関《とくむきかん=関東軍では主としてソ連各地の情報収集に当っていた組織》勤めで物資豊富な先輩長野泉氏の住居を訪ね、一晩大いに飲み、大いに語り合った。何を話したか忘れたが、当然オフレコの話題であったことはまちがいない。

 翌日、公主嶺の教育隊に着くと、本部の週番司令《しゅうばんしれい 注1》から、おまえたちは昨日着くことになっている、どこをうろついていた、と、こっぴどく叱られ、原隊と連絡をとって処分をきめるといわれたが、原隊のとりなしで、入隊式におくれたわけではないのでということで、なんとか許された。

北満《ほくまん 注2》の方から来た一組は、ハルビンで放馬して、入隊式におくれた。これは肩章をもぎとられて、原隊へ追いかえされた。危ないところだった。だがぼくはひとつおぼえた。入隊式の日とか、命令に到着の期日があれば、それにおくれなければ大丈夫なのだ。

 公主嶺では、もう軍隊生活の要領はおぼえていたし、候補生ばかりなので、気楽な生活だったが、ひとつだけいやなのは、区隊長《くたいちょう 注3》の蛇のような目つきだった。この区隊長 は幹候出身の中尉で、陸士出に対するコンプレックスからか、異常に厳格で、執念深く、偏執狂的《へんしつきょう 注4》なところがあった。やつの胸には心のかわりに石がつまってるのさ、と、ぼくらはかげ口をきいた。そのかわり指導教官の袴田少尉は、見せかけは厳しいが、やさしい心をもち、兄貴のようで、これがぼくらの救いだった。

後日談だが、この区隊長は終戦後も態度を改めることができず、自分の信念を押しとおし、兵隊たちにうらまれて撲殺されたそうである。ばかげたあわれな末路だが、男として自分の主義に殉じたのかもしれない。

 十一月中旬のある日の深夜、区隊長が学外の官舎から馬でかけつけ、内務班《ないむはん 注5》にかけこんできて、起床を命じ、ぼくたち一同に宣言した。レイテで神風特攻隊《かみかぜとっこうたい 注6》が敵艦に体当たりし、轟沈《ごうちん 注7》させた、なんたる壮挙だ、これぞわが軍人の鑑だ、これら軍神《ぐんしん 注8》につづかんとする志願者は申し出よ。わたしは朝まで区隊長室にいる。

みんな蒼い顔でひそひそ話し合った。何をばかな、と思って、ぼくは床にもぐってねてしまった。そのころのぼくは、修養日誌に、せっかくロシア語をやったのだから、どうせ死ぬなら北で死にたい、という意味のことを書いて、区隊長に呼びつけられ、さんざん罵倒されたことがあったが、やっと北にもどって来たのだ。南の島には絶対に行きたくない、まして特攻隊などとんでもない、これがいつわらぬ本音だった。

 朝になると、申し出たのはわずか五人であることがわかった。それも色弱や近視などで、受けても合格の見込みのない者たちだった。区隊長は烈火の如く怒った。そして蛇のような目でぼくらをにらみつけ、すぐに本部へ行って、全員志願を主張した。その勢いにおしまくられて、教育隊全員志願がきまった。ただし教官たちは教育という大切な任務があるから除き、志願は候補生全員とするというのである。これが彼らのやり口だ。

 たいへんなことになった。まず隊で身体検査、合格者は新京に行った、精密検査、そうなれば機械による検査だから、もうごまかしはきかない。なんとしても隊の検査で、どこか悪いことにして、逃げなければならない。ぼくは考えた。視力が急に落ちるわけがない、聴覚のカルテはない、そこで左耳がよく聞こえないことにした。

聴覚の検査はひどく大ざっぱだ。検査係の衛生下士官が小声で東京とか大阪とか言いながら近づいてくる。ぼくは横目で見て、頃合いを見はからって、小声で復唱した。左がよくないな、どうしたんだといわれて、初年兵のときさんざんぶん殴られて聞こえなくなった、と説明した。下士官は気の毒そうな顔をして、左耳の項に×をつけた。ぼくは人のよさそうな下士官に気がとがめたが、次の区隊が入ってきた。その中に瑠璃垣がいた。すれちがいざまに、ぼくは小声で耳でいけとささやいた。
                          
                               (つづく)
注1 司令官が不在時 交替で大尉又は古参の中尉が任命され 朝夕の点呼 夜の見回り等を主任務にしていた
注2 中国東北部に嘗て我が国の国策で建国された満州国があった その北部地帯
注3 軍隊の編成で1個中隊は4区隊の編成でなり 中大尉級の幹部が任命された
注4 一つの事に異常に執着し 病的な態度を示す人
注5 古兵(2年以上)と初年兵とで構成された生活単位
注6 1944年10月ヒリピンルソン島で 時の第一航空艦隊司令長官大西中将が 零式戦闘機で一機一艦体当り攻撃を命じ 実行したのが 特攻の始まりであり 当時の米艦隊を震撼させた
注7 艦船を攻撃し 一分以内に沈めること
注8 壮烈な戦死を遂げ 神格化された軍人

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/4 11:44
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
哈爾浜学院 21期生      工藤 精一郎(1990年 記)

 十二月下旬、卒業間際にはじめて外出許可が出た。昨年の十二月一日入隊以来のはじめての外出許可である。ぼくは新京に行って、内藤を訪ねた。彼は壁一面のロシア語の本にかこまれて暮らしていた。今は軍隊にいるが、ここがぼくの就職先であった。ぼくはもうじき教育隊を卒業して、新京に赴任すれば(一年間のまわり道もさせられたが)、こういう生活ができるのだと、大きな希望に胸をふくらませた(そういうことにはならなかったが)。作間に置手紙をして、内藤と駅に向った。作間がかけつけてくれて、短い間だが、会うことができた。

 原隊、奉天郊外の飛行場大隊で新年を迎えた。そして数日後、仙台飛行学校への入隊を命ずという命令がきた。仙台には父が勤めている。新京へはまた半年のまわり道だが、仙台は悪くない、とぼくは思った。ぼくら七名ほどの見習士官は奉天を発って仙台に向った。

ここでまたぼくの放馬癖が出た。入隊式の前日に着くとして、二日ほど余裕がある。一行の中に東京出身者がいたので、彼の家に一泊することになった。ぼくは家が福島にあるので、福島に一泊し、翌日福島駅から彼らの列車に乗りこむことにした。予告をせずに突然帰ったので母は驚くやら善ぶやらであたふたした。四年ぶりのわが家だった。

翌日無事に仲間と合流し、仙台飛行学校に将校学生として入隊した。中隊長は、例によって到着予定が一日おくれたことに文句を言ったが、入校式にはおくれていないので、またしても予測どおり事なきをえた。

 ここでの六カ月は、教育は主にトトツーの通信教育だし、実地の架線教育で外に出ることも多く、家が近いので面会日には欠かさずに母か父が来てくれたし、まあ気楽な毎日だった。仲間には文学青年や哲学青年もいて、文学や人生について語り合う夜のひとときもあった。

沖縄が落ち、仙台が空襲された。東京出身者の父母たちが、空襲で家を焼かれて近くに移って来た。おまえのとこもか、おれのとこもやられた、というような話が仲間たちの間でひんぱんに聞かれるようになった。卒業が近づくと任地が心配になるものだが、ぼくは新京にもどることがきまっていたので、のんきだった。

ところがである。ここでもぼくは運命を感じざるをえない。任地発表の前日に東京の航空本部が空襲を受け、書類が焼けてしまったのである。

急遽飛行学校本部で任地を決定することになった。ぼくら十名ほどが高田に赴任することになった。越後の高田である。満洲などまったく知らぬ者が、たしか五名ほど、満洲赴任になったが、あとで聞いたところによると、着いたとたんに終戦になったということである。

 九州赴任組が多く熊本出身の区隊長に引率されて出発した。ぼくらはその一行と東京で別れた。高田に着くと、知らぬ土地で、別に放馬して見るところもなさそうなので、まっすぐに連隊に入った。
本部で聞くと、ぼくらが赴任する命令は受けていないという。そして調べてくれて、それはハカタのまちがいで、ツートトトのトが一つ脱落《注1》 していたことがわかった。ちょうどこの隊から五十名ほどそちらへ行くので、引率してくれという。ぼくは一刻も急ぐのでそれはできないとことわり、押問答の未、ぼくらが命令どおり高田の連隊に到着したという証明をもらって、あわてて連隊を出た。

 またしても放馬癖が出た。今度は証明書があるからこっちのものだ。ぼくらはひとまず駅前の宿屋に入って相談することにした。ぼくが最古参で、次の期の、またその次の期の見習士官もいる。若い見習士官の一人に、福岡の近くの大きな農家の息子がいた。それぞれ自分の家に寄り、三日後に彼の家に集まることにした。ぼくは逆もどりになるし、父母とは仙台で何度も会っているので、彼と同行し、彼の家でみんなを待つことにした。のんきな汽車の旅をつづけた。将校勤務の見習士官だ。憲兵《けんぺい 注2》に見とがめられることもない。

                            (つづく)

注1 無線通信符号(モールス符号)で タ=ツート(-・) ハ=ツートトト(-・・・)となり 高田のタと博多のハ の発信間違いか 受信間違いか 博多が正しければ トトの短符符号が 二つ脱落している事となる
注2 平時では軍隊内部の秩序 規則の維持 戦時では交通整理や捕虜の取り扱いの業務を行なう 兵科である

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あんみつ姫

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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
哈爾浜学院 21期生      工藤 精一郎(1990年 記)

 大阪は一面の焼野原だった。それでも焼跡の掘立小舎に人々は生きていた。下関のひとつ手前の駅で列車はとまった。昨日の空襲で焼かれ、これから先へは進めないという。ぼくらは放置されていたリヤカーを失敬し、将校行李《しょうこうこうり 注》 を積んで歩き出した。下関が近づくにつれて、道端にすすけた顔の疲れはてた人々が、わずかの荷物を抱えて、へたりこんでいる。

行くほどに、そうした人々の数は多くなり、あたりはまだくすぶり、煙のにおいがひどくなる。やっと港について連絡艇を出してもらい、門司側に移った。こちらも同じで、まだ焼跡がくすぶっていた。福岡も博多側はみごとに焼きつくされていた。彼の家では突然のことでびっくりし、そして大喜びになった。ぼくは彼の家でのんびり骨休めをした。彼の姓は思い出せないが、満洲夫という名前だけは覚えている。

 約束の日の夕方、みんなが集まった。翌日ぼくらは西部軍司令部の航空情報隊に行って、着任の申告をした。ぼくは内心ひやひやだったが、週番司令は、貴官らの着任の連絡は受けておらんが、いずれ任地をきめるから、しばらく休息しておれ、と言った。ぼくらは割当てられた女学校の裁縫室にひとまず落着き、ほっとした。ここで最後の大放馬も無事に終った。

 そして三日目だったか、捕虜になっていたB29の搭乗員数名が引き出されて、斬首された。福岡無差別空爆の報復であろう。ぼくは二人目の首がとぶのを見て、ゲロを吐き、宿舎に逃げもどった。しかし岩田屋の電動シャッターが焼けて動かなくなり、多くの市民が蒸焼きになって死んだと聞かされて、この報復もー概に否定できなくなり、複雑な思いをした。非戦闘員の市民を無差別に大量殺戮しておいて、その殺人者のまさに一味である捕虜を人道的に扱えといえるものだろうか。

 博多は焼跡なので久留米に気晴らしに出かけたりして、ぶらぶらしていると、十日ほどしてぼくは小月(注・現下関市)の大十飛行師団司令部の航空情報隊に勤務を命ぜられた。これは福岡の原隊から一小隊が司令部付として派遣されているのである。ぼくはほっとした。これで故郷の福島まで遠いとはいえ地続きだ。海はない、いざとなれば歩いてもどれる。これは当時のいつわりのない気持だった。
                           (つづく)

注 将校に任官すると各人の身の回り品や軍装品を納める行李が与えられる(官給品ではなく購入する)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/4 11:54
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
                   工 藤 精一郎(1990年 記)
小月で終戦、直ちに復員

 小月で小隊付士官として、頭上の空中戦を見物したり、毎夜食用蛙の鳴き声に悩まされたり、干潟でシャコとりをしたりしながら、のんびり暮らし、八月十五日の終戦を迎えた。地下要塞のような司令部作戦本部の無線室勤務で、八月初めからポツダム宣言をめぐるやりとりをキャッチしていたので、終戦は別に驚かなかった。

福岡の原隊から現地解散の命令を受け、ぼくは関東方面に帰る四名ほどの兵隊たちと、小月の駅は大混雑だと聞いたので、隣りの埴生の駅に向った。

 ここで話は前後するが、広島原爆のことにちょっとふれる。広島に出張していて、危うく難を逃れ、もどってきた将校から、司令部で報告を聞いた。本部で連絡業務を終え、疲れているからと、とめられるのを振り切って、壕舎にもどったとたんに、そのすごい爆発音を聞き、何事かと思って出てみると、つい今しがたまでいた建物がなくなっており、空に巨大なキノコ雲がゆっくりとひろがり、飛行場のはずれの方から大勢のボロを下げた人々や裸の人々が何かわめきながら、くもの子をちらしたように走ってくる。しばらくは何が起ったのかわからなかったという。

この話を聞いた時点ではまだ原爆とは判らなかった。次いで長崎、ソ連参戦、ぼくはポツダム宣言《注》受諾は時間の問題と見て、もう軍隊から解放されたら、何をしようかと考えていた。

 ぼくらは埴生駅で、駅長の親切で停車時間をのばしてもらい、ようやく列車に乗りこんだ。ところが、この列車は広島止まりだった。ぼくらはホームだけが残った広島駅に下り立ち、茫然としてあたりを見まわした。まわりの山は焼け焦げて、赤茶色だ。町は全体が焼野原で、馬も牛も死んでしまったので、兵隊たちが荷車をひいて、ノロノロと何かをどこかに運んでいる。学院一年の夏休み、木元の家に泊まったことを思い出した。河岸の家だった。市内だしまわりの山々まで焼けているのだ、もう跡形もないだろう。家族の人々のあの時の姿が思い出されて、胸が痛くなった。

 ばんやりしていると、上りの列車が入ってきた。東京行きだという。復員兵《ふくいんへい=兵役を解除され帰国する兵》が鈴鳴りで、とても乗りこむすきはない。あきらめかけていると、工藤見習士官殿じゃありませんか、という何人かの叫び声を聞いた。見ると、目の前の窓から福岡の原隊の兵士たちが手を振っている。この列車は福岡発だった。兵士たちはぼくらを窓からひっぱり上げてくれた。彼らがいなかったら到底乗れなかったろう。

 ぼくは士官だ。この一カ月で兵の指導には慣れている。ぼくは客席のアームの上に立って、通路に雑然と重ねられていた荷物をきちんと並べて積み上げさせて、ところどころに坐れるような場所をつくらせ、座席は三人掛けにした。兵士たちはこういうことには慣れていて、てきぱきと行動した。これも原隊の兵たちだからできたことだが、いずれにしても運がよかった。

こうしてみんなにそれぞれ掛けさせると、ぼくが立っていたアームのそばの席がひとつ空いた。
ぼくはこれは余徳だなとてれかくしを言って、座った。
                   (つづく)

注 ベルリン郊外のボツダムにおいて 米英中三国が 日本に対し 無条件降伏の宣言を 1945年7月26日に 行なった

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あんみつ姫

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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
                   工 藤 精一郎(1990年 記)

 復員列車で未知の中山省三郎さんと出会う  

 「よかったですね、座れて」と向い席の窓際の男が言った。ぼくはさっきから気になっていたのだが、軍人ではなかった。国民服姿で、髪は油気のない蓬髪《ほうはつ=蓬の様にぼうぼうと延びた髪》 で、額が禿で、顎がとがり、鼻筋がとおり、目が澄んでいた。ばくはその目に強くひきつけられた。

理知《りち 注》とやさしさと愁いをおびて、キラキラ光っている。このような目を、このような髪を、ぼくはもうたえて久しく見ていなかった。年のころは四十の半ばか、知識人であることはまちがいない。詩人か。ぼくは興味をもったが、訊き出しかねていると、男の方から話しかけてきた。

 「わたくしはこの兵隊さんたちと一緒に博多から乗ったのですが、あなたも福岡の隊のようですね」
 「ええ、小月に派遣されていて、埴生から乗ったんですが、それが広島止まりで、どうしようかと困ってると、ちょうど目の前の窓にこの兵隊たちがいたものですから」
 「運がよかったですね。わたしも、始発駅でしたけど、ヒノ君たちに助けられてやっと乗りこんだんですよ」
 暑いので、男は扇を開いた。その扇にはカッパの画が描いてあり、葦平というサインがあった。ばくはそれを見て、男にますます興味をつのらせた。

 「ヒノさんて、火野葦平さんですか?」 
 「そう、西部軍報道部で仲間だったので」男は、そんなことをきいたぼくに興味をもったらしく、じつとぼくを見つめた。
 「あなたは学徒出陣ですか?」
 「はい、昭和十八年十二月一日入隊の組です」
 「で、学校はどちらですか?」
 「ハルビン学院です」
 「ほう、ではロシア語をやったんですね」
 「はい、四年間やりました」
 「そうでしたか、奇縁ですね。ぼくは中山ですよ」
 「中山さんというと、あの省三郎先生ですか?」
 「そうです」

 ばくは驚いて、どきどきしてしまった。中山省三郎訳のプーシキンのオネーギン、ツルゲネーフの散文詩、メレジコフスキーの『永遠の伴侶』などを、ぼくは学院時代に読んでいた。ぼくにとっては雲の上のような人だったのである。

中山さんは、重苦しい戦争がやっと終り、これでまた文筆生活にもどれるという解放感もあり、ぼくという若い聞き手を得たことも嬉しかったらしく、ロシア文学のこと、友人たちのことなどをぽつりぽつりと語った。ぼくはぼうっとして、上の空で、何を聞いたのかよくおぼえていない。

注 感情や本能に左右されず 論理的に道理を判断する能力

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あんみつ姫

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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
                   工 藤 精一郎(1990年 記)

阿佐谷の中山さん宅に泊まる

 こうして列車は東京駅に着いた。駅で聞いたところ、上野から北へ行く列車は今日はもうないというし、ぼくの従卒は中央線の豊田へ帰るのだが、これも八王子から先の連絡はもうないというので、中山さんのすすめで阿佐谷の中山さん宅に一泊することにした。

従卒《じゅうそつ 注1》に中山さんの荷物を持たせて、中央線の省線電車にのった。東京はもちろん一面の焼野原である。新宿についた。建物は焼けてなく、フォームだけである。ワイシャツの袖をまくり、よれよれのズボンで下駄をつっかけた男が乗りこんできて、ぼくらの前に立った。

 「やぁ、中山君、無事だったか?」と男は中山さんを見て、なつかしそうに言った。
 「やぁ、新庄君、きみも無事だったか、で、どこへ?」
 「八王子だよ、疎開してるんでな。いや、さんざんだよ、宇都宮に疎開したら、そっちも焼かれてしまってさ。焼いてもらうために疎開したようなものさ」
 「それはひどい目にあったな。で、阿佐谷のぼくの家のあたりはどうかね? 家族は茨城県の大宝に疎開してるが、留守番の老夫婦がいるんだよ。今夜は泊ろうと思うんだが」
 「あのあたりは大丈夫のようだよ」

 中山さんが、「フランス文学の新庄嘉章君だよ」と、そっとささやいてくれた。
 ぼくは学院時代に新庄さん訳のアンリ・ドゥ・モンテルランの『癩を病む女たち』を読んでいた。ぼくはまぶしい思いで新庄さんを見上げた。今日はなんという一日だろう!

 僕は夢の中にいる思いだった。その夜は阿佐谷の中山家に一泊した。ぼくはロシア文学研究の道に進むことを決意し、中山さんは適当なしごとがあったら連絡してくれることを約束してくれた。あまり時間にしばられぬ、小さな出版社の編集のようなしごとがいいだろうと言ってくれた。

翌朝、阿佐谷駅で従卒と別れ、大宝の家族のところへ行く中山さんと上野駅に行き、常磐線に乗る中山さんと別れた。ぼくは大きな荷物を二つ抱えて、改札口の行列に並んだ。ぼくのうしろに老母と三十くらいの娘の二人連れがいた。岩手に疎開している子供たちを迎えにゆくという。娘がぼくの荷物をひとつ持ってくれた。有蓋貨車に乗り、行李と荷物を並べて三人の席をつくった。娘は東京に出て来たら寄ってくれと、アドレスを書いてくれた。

 福島駅に着いた。明るいうちは人目につくので、ぼくは駅前の小さな宿屋に入り、暗くなってからこつそり帰った。父も母も、もちろん、喜んだが、いささかうしろめたい気持もあったらしい。近所ではぼくが復員兵第一号だったのだ。いろいろとわずらわしさもあり、義兄の実家が太平洋岸の相馬地方の農家なので、ぼくはそこへ行って、稲刈りをてつだったりしてのんびり暮らし、体力を回復させた。

このころ偶然に一級下の佐藤清四郎君と出会った。彼も実家で骨を休めていた。
                       
中山さんからの葉書が運命を決めた   

 十一月に福島にもどり、中学の級友たちと当時流行の文化運動にかかわったりしてなんとなくぶらぶら暮らしていたが、ぼくの心は東京に向いていた。そして翌年の二月初め、東京への転入制限の直前に、中山さんから、しごとがあるから出て来なさい、という葉書がきた。それがぼくの運命を決定した。

ぼくはすぐにあの老母と娘に手紙を書いた。折り返し返事がきた。相部屋でよければ、いつでもどうぞいらしてください。復員の途中列車内で出会った中山さんと、老母と娘、この人たちの好意によって、ぼくは転入制限《てんにゅうせいげん 注2》直前の東京にすべりこむことができたのである。そしてこの時ぼくは、偶然の出会いというものがその後の人生を決定することがあるものだということを、しみじみと感じたのである。
                                           (おわり)

注1 将校以上者の身の回り整理や雑務の世話をする兵(海軍では従兵と呼んでいた)
注2 敗戦後の人口急増に対応する為 東京都は転入制限令(条令)を制定して 人口の流入を制限した事があった

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あんみつ姫

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