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Re: 学徒出陣から復員まで

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あんみつ姫

通常 Re: 学徒出陣から復員まで

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/4 11:50
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
哈爾浜学院 21期生      工藤 精一郎(1990年 記)

 大阪は一面の焼野原だった。それでも焼跡の掘立小舎に人々は生きていた。下関のひとつ手前の駅で列車はとまった。昨日の空襲で焼かれ、これから先へは進めないという。ぼくらは放置されていたリヤカーを失敬し、将校行李《しょうこうこうり 注》 を積んで歩き出した。下関が近づくにつれて、道端にすすけた顔の疲れはてた人々が、わずかの荷物を抱えて、へたりこんでいる。

行くほどに、そうした人々の数は多くなり、あたりはまだくすぶり、煙のにおいがひどくなる。やっと港について連絡艇を出してもらい、門司側に移った。こちらも同じで、まだ焼跡がくすぶっていた。福岡も博多側はみごとに焼きつくされていた。彼の家では突然のことでびっくりし、そして大喜びになった。ぼくは彼の家でのんびり骨休めをした。彼の姓は思い出せないが、満洲夫という名前だけは覚えている。

 約束の日の夕方、みんなが集まった。翌日ぼくらは西部軍司令部の航空情報隊に行って、着任の申告をした。ぼくは内心ひやひやだったが、週番司令は、貴官らの着任の連絡は受けておらんが、いずれ任地をきめるから、しばらく休息しておれ、と言った。ぼくらは割当てられた女学校の裁縫室にひとまず落着き、ほっとした。ここで最後の大放馬も無事に終った。

 そして三日目だったか、捕虜になっていたB29の搭乗員数名が引き出されて、斬首された。福岡無差別空爆の報復であろう。ぼくは二人目の首がとぶのを見て、ゲロを吐き、宿舎に逃げもどった。しかし岩田屋の電動シャッターが焼けて動かなくなり、多くの市民が蒸焼きになって死んだと聞かされて、この報復もー概に否定できなくなり、複雑な思いをした。非戦闘員の市民を無差別に大量殺戮しておいて、その殺人者のまさに一味である捕虜を人道的に扱えといえるものだろうか。

 博多は焼跡なので久留米に気晴らしに出かけたりして、ぶらぶらしていると、十日ほどしてぼくは小月(注・現下関市)の大十飛行師団司令部の航空情報隊に勤務を命ぜられた。これは福岡の原隊から一小隊が司令部付として派遣されているのである。ぼくはほっとした。これで故郷の福島まで遠いとはいえ地続きだ。海はない、いざとなれば歩いてもどれる。これは当時のいつわりのない気持だった。
                           (つづく)

注 将校に任官すると各人の身の回り品や軍装品を納める行李が与えられる(官給品ではなく購入する)

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あんみつ姫

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