Re: 学徒出陣から復員まで
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学徒出陣から復員まで (あんみつ姫, 2007/12/4 11:39)
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あんみつ姫
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哈爾浜学院 21期生 工藤 精一郎(1990年 記)
満洲組の首席候補生は瑠璃垣だった。満洲組の中に露崎の姿はなかった。機関銃中隊は除外されたのか、八月初め新京《しんきょう=中国東北部の現在の長春で嘗て満州国の首都であった-》 に着き、そしてそれぞれ所属部隊をきめられた。ぼくはまたしてもハルビンだった。しかも学院のすぐ裏の飛行場大隊である。夏休みなのに学生たちは残っていた。営門前の旧競馬場広場を通る学生たちの姿が見える。
外出はできなかったが、ぼくは学院の建物を見上げながら、しあわせな一月を過ごした。八月末に大隊は奉天《ほうてん=中国東北部の現在の瀋陽》郊外の飛行場に移動した。これがぼくのハルビンとの最後の別れになった。
十月一日から三カ月間、公主嶺《こうしゅれい=中国吉林省の西部都市-》の教育隊で飛行場大隊要員として甲幹の残りの教育を受けることになった。ぼくらは十名ほどで九月二十八日に原隊を出発した。一日が入隊式だから三十日に隊に着けばよい、とぼくは判断した。そしてぼくはみんなと語らって、奉天で一晩自由に過ごす、つまり軍隊用語で放馬することにした。
以来、放馬はぼくの得意芸となった。ぼくはそのころ奉天の、たしか日満商事にいた祖泉と、連絡をとり、特務機関《とくむきかん=関東軍では主としてソ連各地の情報収集に当っていた組織》勤めで物資豊富な先輩長野泉氏の住居を訪ね、一晩大いに飲み、大いに語り合った。何を話したか忘れたが、当然オフレコの話題であったことはまちがいない。
翌日、公主嶺の教育隊に着くと、本部の週番司令《しゅうばんしれい 注1》から、おまえたちは昨日着くことになっている、どこをうろついていた、と、こっぴどく叱られ、原隊と連絡をとって処分をきめるといわれたが、原隊のとりなしで、入隊式におくれたわけではないのでということで、なんとか許された。
北満《ほくまん 注2》の方から来た一組は、ハルビンで放馬して、入隊式におくれた。これは肩章をもぎとられて、原隊へ追いかえされた。危ないところだった。だがぼくはひとつおぼえた。入隊式の日とか、命令に到着の期日があれば、それにおくれなければ大丈夫なのだ。
公主嶺では、もう軍隊生活の要領はおぼえていたし、候補生ばかりなので、気楽な生活だったが、ひとつだけいやなのは、区隊長《くたいちょう 注3》の蛇のような目つきだった。この区隊長 は幹候出身の中尉で、陸士出に対するコンプレックスからか、異常に厳格で、執念深く、偏執狂的《へんしつきょう 注4》なところがあった。やつの胸には心のかわりに石がつまってるのさ、と、ぼくらはかげ口をきいた。そのかわり指導教官の袴田少尉は、見せかけは厳しいが、やさしい心をもち、兄貴のようで、これがぼくらの救いだった。
後日談だが、この区隊長は終戦後も態度を改めることができず、自分の信念を押しとおし、兵隊たちにうらまれて撲殺されたそうである。ばかげたあわれな末路だが、男として自分の主義に殉じたのかもしれない。
十一月中旬のある日の深夜、区隊長が学外の官舎から馬でかけつけ、内務班《ないむはん 注5》にかけこんできて、起床を命じ、ぼくたち一同に宣言した。レイテで神風特攻隊《かみかぜとっこうたい 注6》が敵艦に体当たりし、轟沈《ごうちん 注7》させた、なんたる壮挙だ、これぞわが軍人の鑑だ、これら軍神《ぐんしん 注8》につづかんとする志願者は申し出よ。わたしは朝まで区隊長室にいる。
みんな蒼い顔でひそひそ話し合った。何をばかな、と思って、ぼくは床にもぐってねてしまった。そのころのぼくは、修養日誌に、せっかくロシア語をやったのだから、どうせ死ぬなら北で死にたい、という意味のことを書いて、区隊長に呼びつけられ、さんざん罵倒されたことがあったが、やっと北にもどって来たのだ。南の島には絶対に行きたくない、まして特攻隊などとんでもない、これがいつわらぬ本音だった。
朝になると、申し出たのはわずか五人であることがわかった。それも色弱や近視などで、受けても合格の見込みのない者たちだった。区隊長は烈火の如く怒った。そして蛇のような目でぼくらをにらみつけ、すぐに本部へ行って、全員志願を主張した。その勢いにおしまくられて、教育隊全員志願がきまった。ただし教官たちは教育という大切な任務があるから除き、志願は候補生全員とするというのである。これが彼らのやり口だ。
たいへんなことになった。まず隊で身体検査、合格者は新京に行った、精密検査、そうなれば機械による検査だから、もうごまかしはきかない。なんとしても隊の検査で、どこか悪いことにして、逃げなければならない。ぼくは考えた。視力が急に落ちるわけがない、聴覚のカルテはない、そこで左耳がよく聞こえないことにした。
聴覚の検査はひどく大ざっぱだ。検査係の衛生下士官が小声で東京とか大阪とか言いながら近づいてくる。ぼくは横目で見て、頃合いを見はからって、小声で復唱した。左がよくないな、どうしたんだといわれて、初年兵のときさんざんぶん殴られて聞こえなくなった、と説明した。下士官は気の毒そうな顔をして、左耳の項に×をつけた。ぼくは人のよさそうな下士官に気がとがめたが、次の区隊が入ってきた。その中に瑠璃垣がいた。すれちがいざまに、ぼくは小声で耳でいけとささやいた。
(つづく)
注1 司令官が不在時 交替で大尉又は古参の中尉が任命され 朝夕の点呼 夜の見回り等を主任務にしていた
注2 中国東北部に嘗て我が国の国策で建国された満州国があった その北部地帯
注3 軍隊の編成で1個中隊は4区隊の編成でなり 中大尉級の幹部が任命された
注4 一つの事に異常に執着し 病的な態度を示す人
注5 古兵(2年以上)と初年兵とで構成された生活単位
注6 1944年10月ヒリピンルソン島で 時の第一航空艦隊司令長官大西中将が 零式戦闘機で一機一艦体当り攻撃を命じ 実行したのが 特攻の始まりであり 当時の米艦隊を震撼させた
注7 艦船を攻撃し 一分以内に沈めること
注8 壮烈な戦死を遂げ 神格化された軍人
満洲組の首席候補生は瑠璃垣だった。満洲組の中に露崎の姿はなかった。機関銃中隊は除外されたのか、八月初め新京《しんきょう=中国東北部の現在の長春で嘗て満州国の首都であった-》 に着き、そしてそれぞれ所属部隊をきめられた。ぼくはまたしてもハルビンだった。しかも学院のすぐ裏の飛行場大隊である。夏休みなのに学生たちは残っていた。営門前の旧競馬場広場を通る学生たちの姿が見える。
外出はできなかったが、ぼくは学院の建物を見上げながら、しあわせな一月を過ごした。八月末に大隊は奉天《ほうてん=中国東北部の現在の瀋陽》郊外の飛行場に移動した。これがぼくのハルビンとの最後の別れになった。
十月一日から三カ月間、公主嶺《こうしゅれい=中国吉林省の西部都市-》の教育隊で飛行場大隊要員として甲幹の残りの教育を受けることになった。ぼくらは十名ほどで九月二十八日に原隊を出発した。一日が入隊式だから三十日に隊に着けばよい、とぼくは判断した。そしてぼくはみんなと語らって、奉天で一晩自由に過ごす、つまり軍隊用語で放馬することにした。
以来、放馬はぼくの得意芸となった。ぼくはそのころ奉天の、たしか日満商事にいた祖泉と、連絡をとり、特務機関《とくむきかん=関東軍では主としてソ連各地の情報収集に当っていた組織》勤めで物資豊富な先輩長野泉氏の住居を訪ね、一晩大いに飲み、大いに語り合った。何を話したか忘れたが、当然オフレコの話題であったことはまちがいない。
翌日、公主嶺の教育隊に着くと、本部の週番司令《しゅうばんしれい 注1》から、おまえたちは昨日着くことになっている、どこをうろついていた、と、こっぴどく叱られ、原隊と連絡をとって処分をきめるといわれたが、原隊のとりなしで、入隊式におくれたわけではないのでということで、なんとか許された。
北満《ほくまん 注2》の方から来た一組は、ハルビンで放馬して、入隊式におくれた。これは肩章をもぎとられて、原隊へ追いかえされた。危ないところだった。だがぼくはひとつおぼえた。入隊式の日とか、命令に到着の期日があれば、それにおくれなければ大丈夫なのだ。
公主嶺では、もう軍隊生活の要領はおぼえていたし、候補生ばかりなので、気楽な生活だったが、ひとつだけいやなのは、区隊長《くたいちょう 注3》の蛇のような目つきだった。この区隊長 は幹候出身の中尉で、陸士出に対するコンプレックスからか、異常に厳格で、執念深く、偏執狂的《へんしつきょう 注4》なところがあった。やつの胸には心のかわりに石がつまってるのさ、と、ぼくらはかげ口をきいた。そのかわり指導教官の袴田少尉は、見せかけは厳しいが、やさしい心をもち、兄貴のようで、これがぼくらの救いだった。
後日談だが、この区隊長は終戦後も態度を改めることができず、自分の信念を押しとおし、兵隊たちにうらまれて撲殺されたそうである。ばかげたあわれな末路だが、男として自分の主義に殉じたのかもしれない。
十一月中旬のある日の深夜、区隊長が学外の官舎から馬でかけつけ、内務班《ないむはん 注5》にかけこんできて、起床を命じ、ぼくたち一同に宣言した。レイテで神風特攻隊《かみかぜとっこうたい 注6》が敵艦に体当たりし、轟沈《ごうちん 注7》させた、なんたる壮挙だ、これぞわが軍人の鑑だ、これら軍神《ぐんしん 注8》につづかんとする志願者は申し出よ。わたしは朝まで区隊長室にいる。
みんな蒼い顔でひそひそ話し合った。何をばかな、と思って、ぼくは床にもぐってねてしまった。そのころのぼくは、修養日誌に、せっかくロシア語をやったのだから、どうせ死ぬなら北で死にたい、という意味のことを書いて、区隊長に呼びつけられ、さんざん罵倒されたことがあったが、やっと北にもどって来たのだ。南の島には絶対に行きたくない、まして特攻隊などとんでもない、これがいつわらぬ本音だった。
朝になると、申し出たのはわずか五人であることがわかった。それも色弱や近視などで、受けても合格の見込みのない者たちだった。区隊長は烈火の如く怒った。そして蛇のような目でぼくらをにらみつけ、すぐに本部へ行って、全員志願を主張した。その勢いにおしまくられて、教育隊全員志願がきまった。ただし教官たちは教育という大切な任務があるから除き、志願は候補生全員とするというのである。これが彼らのやり口だ。
たいへんなことになった。まず隊で身体検査、合格者は新京に行った、精密検査、そうなれば機械による検査だから、もうごまかしはきかない。なんとしても隊の検査で、どこか悪いことにして、逃げなければならない。ぼくは考えた。視力が急に落ちるわけがない、聴覚のカルテはない、そこで左耳がよく聞こえないことにした。
聴覚の検査はひどく大ざっぱだ。検査係の衛生下士官が小声で東京とか大阪とか言いながら近づいてくる。ぼくは横目で見て、頃合いを見はからって、小声で復唱した。左がよくないな、どうしたんだといわれて、初年兵のときさんざんぶん殴られて聞こえなくなった、と説明した。下士官は気の毒そうな顔をして、左耳の項に×をつけた。ぼくは人のよさそうな下士官に気がとがめたが、次の区隊が入ってきた。その中に瑠璃垣がいた。すれちがいざまに、ぼくは小声で耳でいけとささやいた。
(つづく)
注1 司令官が不在時 交替で大尉又は古参の中尉が任命され 朝夕の点呼 夜の見回り等を主任務にしていた
注2 中国東北部に嘗て我が国の国策で建国された満州国があった その北部地帯
注3 軍隊の編成で1個中隊は4区隊の編成でなり 中大尉級の幹部が任命された
注4 一つの事に異常に執着し 病的な態度を示す人
注5 古兵(2年以上)と初年兵とで構成された生活単位
注6 1944年10月ヒリピンルソン島で 時の第一航空艦隊司令長官大西中将が 零式戦闘機で一機一艦体当り攻撃を命じ 実行したのが 特攻の始まりであり 当時の米艦隊を震撼させた
注7 艦船を攻撃し 一分以内に沈めること
注8 壮烈な戦死を遂げ 神格化された軍人
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あんみつ姫