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Re: 学徒出陣から復員まで

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あんみつ姫

通常 Re: 学徒出陣から復員まで

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7
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/4 12:08
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
                   工 藤 精一郎(1990年 記)

阿佐谷の中山さん宅に泊まる

 こうして列車は東京駅に着いた。駅で聞いたところ、上野から北へ行く列車は今日はもうないというし、ぼくの従卒は中央線の豊田へ帰るのだが、これも八王子から先の連絡はもうないというので、中山さんのすすめで阿佐谷の中山さん宅に一泊することにした。

従卒《じゅうそつ 注1》に中山さんの荷物を持たせて、中央線の省線電車にのった。東京はもちろん一面の焼野原である。新宿についた。建物は焼けてなく、フォームだけである。ワイシャツの袖をまくり、よれよれのズボンで下駄をつっかけた男が乗りこんできて、ぼくらの前に立った。

 「やぁ、中山君、無事だったか?」と男は中山さんを見て、なつかしそうに言った。
 「やぁ、新庄君、きみも無事だったか、で、どこへ?」
 「八王子だよ、疎開してるんでな。いや、さんざんだよ、宇都宮に疎開したら、そっちも焼かれてしまってさ。焼いてもらうために疎開したようなものさ」
 「それはひどい目にあったな。で、阿佐谷のぼくの家のあたりはどうかね? 家族は茨城県の大宝に疎開してるが、留守番の老夫婦がいるんだよ。今夜は泊ろうと思うんだが」
 「あのあたりは大丈夫のようだよ」

 中山さんが、「フランス文学の新庄嘉章君だよ」と、そっとささやいてくれた。
 ぼくは学院時代に新庄さん訳のアンリ・ドゥ・モンテルランの『癩を病む女たち』を読んでいた。ぼくはまぶしい思いで新庄さんを見上げた。今日はなんという一日だろう!

 僕は夢の中にいる思いだった。その夜は阿佐谷の中山家に一泊した。ぼくはロシア文学研究の道に進むことを決意し、中山さんは適当なしごとがあったら連絡してくれることを約束してくれた。あまり時間にしばられぬ、小さな出版社の編集のようなしごとがいいだろうと言ってくれた。

翌朝、阿佐谷駅で従卒と別れ、大宝の家族のところへ行く中山さんと上野駅に行き、常磐線に乗る中山さんと別れた。ぼくは大きな荷物を二つ抱えて、改札口の行列に並んだ。ぼくのうしろに老母と三十くらいの娘の二人連れがいた。岩手に疎開している子供たちを迎えにゆくという。娘がぼくの荷物をひとつ持ってくれた。有蓋貨車に乗り、行李と荷物を並べて三人の席をつくった。娘は東京に出て来たら寄ってくれと、アドレスを書いてくれた。

 福島駅に着いた。明るいうちは人目につくので、ぼくは駅前の小さな宿屋に入り、暗くなってからこつそり帰った。父も母も、もちろん、喜んだが、いささかうしろめたい気持もあったらしい。近所ではぼくが復員兵第一号だったのだ。いろいろとわずらわしさもあり、義兄の実家が太平洋岸の相馬地方の農家なので、ぼくはそこへ行って、稲刈りをてつだったりしてのんびり暮らし、体力を回復させた。

このころ偶然に一級下の佐藤清四郎君と出会った。彼も実家で骨を休めていた。
                       
中山さんからの葉書が運命を決めた   

 十一月に福島にもどり、中学の級友たちと当時流行の文化運動にかかわったりしてなんとなくぶらぶら暮らしていたが、ぼくの心は東京に向いていた。そして翌年の二月初め、東京への転入制限の直前に、中山さんから、しごとがあるから出て来なさい、という葉書がきた。それがぼくの運命を決定した。

ぼくはすぐにあの老母と娘に手紙を書いた。折り返し返事がきた。相部屋でよければ、いつでもどうぞいらしてください。復員の途中列車内で出会った中山さんと、老母と娘、この人たちの好意によって、ぼくは転入制限《てんにゅうせいげん 注2》直前の東京にすべりこむことができたのである。そしてこの時ぼくは、偶然の出会いというものがその後の人生を決定することがあるものだということを、しみじみと感じたのである。
                                           (おわり)

注1 将校以上者の身の回り整理や雑務の世話をする兵(海軍では従兵と呼んでいた)
注2 敗戦後の人口急増に対応する為 東京都は転入制限令(条令)を制定して 人口の流入を制限した事があった

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あんみつ姫

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