東京の小学生が見た「ニ、ニ六事件」・その1 大正生まれの Y
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東京の小学生が見た「ニ、ニ六事件」・その1 大正生まれの Y (編集者, 2008/5/20 20:43)
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投稿日時 2008/5/20 20:43
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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はじめに
この記録は、大正14年生まれの、Y氏から寄せられたもので、電車通学をしていた小学生時代の記憶をたよりに書いたものです。 なお、ここに登場する父親は丸の内のサラリーマンです。
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1.1936年(昭和11年)2月26日、私が満10歳のとき、東京で大変なことが起きた。
(1) 前日、荻窪のT君(M学園同級生)のお誕生日会があり駅に3時集合で誘われていた。
行く約束をしていたが、お腹が痛かったことと、午後から雪がたくさん降ってきたので、お宅へ電話していかないことにした。すごく寒い日でお茶の間の炬燵に入って庭に音もなく無数に舞う雪を見ていた記憶は今でもある。
なぜ、前日の話をするかというと、彼のお屋敷のまん前に当日射殺された渡辺教育総監のお邸があり、後日、当日早朝の出来事を聞くことになるからである。
(2) 朝起きてみると垣根、庭の樹木、向う三軒の屋根も白一色でもっこりしていた。
見えるものはすべてが雪で覆われ、北ぐにの景色のようだ。雪はすでにあがっていて、昨日より暖かだった。
母が「こんな大雪は阿佐ヶ谷に来てから初めてだ!」と云っていた。平日なので父は会社へ、私は学校へ行かねばならず、父とねえやさんで門の前まで雪掻きをしていたが「こんな凄いことはめったにない」と父が大声を出し、二人で同じことを何度も云っては頷きあっていた。母は私の弁当を作っていた。積雪は家の前で40cm以上あり、私ではくるぶしも埋まってしまうので無理であり、父だけ早めに出勤した。
(3) 約二時間後に父が戻ってきた。父の話によると大通りに出るまでは除雪用長靴(太ももの先まで入る格好の悪いもの)でももぐりそうな深さで確かめるように歩いても靴の上から雪団子が入り込んで困ったが、通りに出ると大勢の人が出てスコップを振り回している所が多く、20cmぐらいの積雪の小道が通りの中に出来て、ゆっくりなら歩けた。
駅に着くと10人以上の客が居て、駅員と盛んに問答していた。駅員の説明では『東京駅にも新宿保線区にも鉄道電話で尋ねたが、鉄道省からの指示で列車の出庫は総て見合わせている。尚保線区には再び省から電話が入り信号は、東京・三鷹間を上下線とも赤信号にせよとのこと。原因は分からぬがポイント(レールの転轍機)故障が各所で起きているのではないかと思う―――といっている』と説明していた。
(4) 客の中には「6時からラジオをつけていたが7時が過ぎても何も云わないので駅に聞けば分かると思い出て来た。杉並の警察署には電話したのか?」と聞き、帽子に金線の入った別の駅員が「駅のラジオも音がしないので、大きな事故が市の中心で起こったのか心配なので、人を出して聞きにやらせている。勿論交換台を通す普通電話も3度電話したが相手が出ないという事で使いを出したのだ。1時間ほど前に出たのでもう10分ほどで戻ると思う。(普通往復約20分の距離)」と云っている折に使いが帰ってきた。そして戻った駅員の云うには。
(5) 「警察署の電話は2本とも鳴りっぱなしだったが誰も取り次がなかった。署の話だと2階に警察電話が別にあって『早朝、中央から(多分警視庁から)電話で至急扱いの指示を受けた。軍関係で異変が起きた模様であるが、軍自身ですら全容を把握していない様子であり未だ伝達できないといっている。従って中央でも情報を収集中であるが、軍は正午にはラジオを通して国民に呼びかけるといっているので、それまでの間各署は所管地域の安全を守るため、地区の巡回を増やすとともに住民に対しては緊急用務以外は外出を控えるよう指導せよとのことである。従って各位は正午の放送があるまで自宅で待機されたい』とのお話でした。更に『尚、これは本署の当直が確認したものでは無く住民からの通報によるものであるが、本日払暁兵隊を満載したトラックが本署前の青梅街道を淀橋方面から荻窪方面へ通過したとの事であった』とのことでした」。駅の待合室の人数は20名を越えていたが、同じ情報を繰り返すだけなので夫々散っていき私(Y氏の父親)も引き返した来た。道の状況は通りの小道はさっさと歩けるようになってきたが、住宅街の各小道は相変わらず凄い状況だ。(注;当時の兵隊は2列または4列に隊を組み、徒歩行進が通常で車両移動の習慣はなかった)