水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記
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水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記 (編集者, 2009/3/9 16:38)
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投稿日時 2009/3/9 16:38
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この記録は「甲飛だより」83号、84号、85号からの転載です。
なお、転載に当たっては
第14期甲種飛行予科練習生
埼玉県甲飛会 事務局長
小 島 啓 三 様 の
のご了承をいただいております。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
水上特攻・肉弾艇「震洋」
体験記① 高部 博(13期)
大艦巨砲主義《注1》に押され、また、太平洋の荒波には不適というために、余り積極的でなかった日本海軍の魚雷艇、それが、昭和17年11月ソロモン海戦が終わった頃から、その必要性が叫ばれるようになった。
ベニヤ板張りのモーターボートに250キロの炸薬を艇首に詰め、敵の揚陸部隊(艦船)目がけて多数で突入しようという震洋艇の計画は、戦局の急迫とともに着々と実行に移され、19年4月から急造された震洋第1号艇は、5月27日に完成した。
そして、これらの搭乗員は海兵出身者《注2》や予備学生出身《注3》の若い尉官が隊長となり、各艇は予科練出身者で全部これを固め、「敵襲ござんなれ」と待ち受けたのは、確かに太平洋戦争の最後を飾るものであった。
「選 択」
昭和20年の2月末に飛練教程を修了した偵察員《注5》が、数百名ほど土浦海軍航空隊に集まってきた。我々13期後期より2カ月早く昭和18年10月に入隊した13期前期の甲飛生《注6》達だった。
彼等は、昭和19年6月に予科練教程を卒業し、「飛行練習生」となって上海、青島等の航空隊で「飛練教程」《注7》に進み、厳しい実地訓練を8カ月も積み、いわゆる「練習生」を完全に卒業してこれから実施部隊で、実用機《注8》の訓練に入ろうとする飛行兵が、突然数百人も土浦空《土浦海軍航空隊》へ帰って来たのである。
厳しい戦闘で飛行機の消耗が激しくなったことは、同時に搭乗員も多く失っているわけである。その補充には年単位の時間が必要なのに、もう実用機に乗れるようにまでなった搭乗員を足踏みさせるとは、と疑問に思うのは当然である。
昭和20年になった頃の航空兵力の実態は、航空戦での消耗に加え、空襲による各地の被害等で飛行機の生産力は極端に低下していて、飛行機の第一線への補充も思うように出来ない状況に陥っていた。
また、燃料の欠乏も甚だしく、航空機用の燃料の不足はどうにも出来ない状態となっていた。
その頃には既に、「特攻攻撃」《注9》 に参加して戦死している先輩搭乗員はかなりの数に上っていたし、我々同期の者も何人かが飛行機以外の特攻兵器で戦死していた。
彼等は昭和19年8月予科練卒業と同時に、「飛行機でない特攻兵器」 に志願して行った者達である。
既に、本土決戦のシナリオが進められており、昭和20年の5月からは全教育機関が、教育の停止《注10》となり、全員が戦闘要員となった。
「予科練」も例外ではなく、全員が本土防衛(陸戦を含み) の中に組み込まれ、いわゆる「一億総特攻」の体制下に置かれることになった。
海軍では、昭和19年から20年にかけて、「飛行予科練習生」を大量採用した。名称は「飛行予科練習生」だったが、特攻兵器要員に向けられた。
昭和20年4月中旬に特攻要員の募集があり、躊躇することなく志願した。
本土空襲は激しくなり沖縄にまで、敵機が及んでいる状況となっては、新しい道をとらなければ今まで予科練で培ってきたものが、全て無駄になってしまうのではないかと、迷う気持ちを一応は整理した。
予科練訓練中に操縦か偵察かに判定する適性検査がある。殆どの者は飛行機の操縦員になることを熱望し、夢に見ていた。
その適性検査に希望どおり合格して、憧れの操縦員としての基礎訓練も受けていたので、自分ではあくまで飛行機の操縦員になれるものと信じていた。だから、飛行機乗りになるんだという、その願いを完全に捨てることに少しの迷いもなかったと言えば嘘になる。
4月下旬のある日、特攻要員を希望する者の中から最終的に選抜する面接が行われた。
面接担当官は「金子分隊士」《注11》と本部士官の2名で、真剣な顔付きで待っていた。
家族状況の確認から始まり、両親が健在で兄があり兄弟が多くて、農家の次男坊となればもう言うことなしと、自分で勝手に決めていた。特攻要員となる意志の確認があり、兵器は「マル四」であると告げられた。
「特殊兵器」と言うものの、それ自体人間を組み込んだ爆弾か魚雷と考えた方が判り易い。従ってその要員には予め死が約束されていたわけである。
「マル四」は別名「震洋」と呼ばれる水上艇で頭部に爆薬を積み、水上で敵の艦船に体当たりし、それを爆破し沈めるために使用する「小型快速艇」位の知識は何となく持っていた。
船体は木造で外板はベニヤ板、エンジンはトヨタの自動車エンジンを転用、1人乗りが全長5・1米、2人乗りはエンジン2基で全長は6・5米、その頭部に250瓩の爆薬を搭載した小型船。その小型船に乗って敵艦船に体当たりし、250瓩の爆薬を爆発させて敵船を撃沈させるというもので、飛行機特攻のような華々しい配置ではない。
「是非お願いします。いずれ死ぬものと覚悟はしております。どうせ死ぬのなら・・・」と、そこまで言ってしまった。「どうせ死ぬのなら」は、まずかったと気が付き、一息ついた時、金子分隊士の顔が一瞬綻びたように見えた。
そこで肩が急に楽になり、自分の気持ちを何とか説明することができたと思った。
その時まだ16歳だった。
「国の為に一命を捧げて尽くしたいから・・・」等と、勇ましい言葉を並べたようだが、実際は「国の為」などという崇高な確固たる信念から言ったような記憶もないし、親や兄弟の為になどと言った覚えも残っていない。
数日後、金子分隊士から特攻要員に決定した旨の話があった時には、何故かほっとした。
若さ故か、「死」というものに対する恐怖感や、人生についての悩みなどは全く持っていなかったので、特攻要員に決まっても殆ど平常と言っていい心境でいたようだ。それを「悟り」と言う人もいるだろうし、「諦め」だと言う人もいるかも知れないが、通常の神経では耐えられない心の葛藤を淡々と乗り越えられたのは、純真な若さと予科練という環境が与えてくれたものが大きかったに違いない。
「出 発」
昭和20年4月22日、特攻要員に選抜された者は、司令部前に集合し、全員で写真を撮った後、思い出多い土浦航空隊を後にした。
特攻要員としての出発だったので見送りの無い目立たない出発だった。勿論行き先は知らされていなかった。
海軍の別れの時の「帽振れ」 には、儀礼の意味のほか特別な感情が込められていて、独特な思いがあることを強く感じたのは、九州の基地で、沖縄へ特攻出撃する魚雷艇を見送った時である。
生還することがないと判っている乗組員達に向けて振っていた帽子が、船が遠ざかるに従って次第に重くなり、耐え切れなくなってきた。
しかし、我々震洋部隊の出撃は、夜間でしかも隠密裡の出撃になる筈だ。誰一人見送る人の無い中の出発となる。だから当然「帽振れ」はない。
最終的に自分の進む方向が「水上特攻」に決定し、任務が具体的に明確になったことで、自分の命をかける結果がどうなるかなどと、悩み迷う必要はなくなり、かなり精神的に余裕も出てきた。
山梨の田舎で農業をしている父は体が丈夫な方でなく、兄は私が予科練に入ってから出征した。姉は東京の軍需工場で働いていて、家には幼い妹と弟が4人もいたため、面会に来てもらうのは無理だと判っていたので、予科練入隊後1回も面会に来てもらったことはなかった。
退隊当日、土浦駅まで見送りに来てくれた同期生と堅い握手を交わし、一般の入場規制をしたホームの専用列車に乗り込み出発を待っていた。間もなく発車になろうという時、突然「高部飛長《注12》は居るか」と呼び出されて、ホームに出て驚いたことに、そこに父と姉が立っていたのである。
列車の出発間近の慌ただしい僅かな時間だったのがよかったのか、案外さっぱりしていたようだ。肉親に会えるのもこれが最後になるのかなどという、感傷が湧いたような記憶もない。
戦後10数年ほど経った頃、何かの折にその時の話が出て、姉よりその折のことを詳しく聞かされ、初めてそうだったのかと思い出したくらいである。
土浦航空隊から「現地出発面会ヲ許可スル・・・」との通知が届いた。航空隊から直接の通知だからと、早速父が東京の姉と連絡を取り2人で土浦まで駆け付けたが、途中手間取り航空隊に着いた時には、我々はもう出発した後だった。
衛兵所《注13》の衛兵が時計を見て「今から急げば何とか間に合うかも知れない」と、隊門前の道を指差し「とにかくあそこで、どんな車でも良いから止めて土浦の駅まで乗せてもらえ」と、教えてくれた。
航空隊からの「現地出発・・・」の通知書を見せると、すぐに乗車券を売ってくれたという。そんな通知書をちらつかせながら、親切なトラックに土浦駅まで乗せてもらい、入場規制しているホームに駆け込み、私の車両を探してもらい何とか辿り着けたとのことだった。
父が私に小遣いをくれるというのを断り、逆に私が持っていた金を出して「もう使い道が無いから」と言って、父に渡したのを姉は記憶しているという。それから間もなく列車は出発した。父親はこれが最後の別れになるかも知れないと思っていたに違いないが、その時の父の表情などは全く思い出せない。
東京駅でかなり時間があるということで靖国神社に参拝した。
東京駅を出発したのは暗くなつてからだった。列車の出発を待っている時、金子分隊士が突然訪ねて来て、「今日香取神宮まで行って来た」と言いながら、香取神宮のお守りを渡してくれた。
その時お守りを貰ったのは、同期の「宮沢恒一、宮坂三夫、原田定雄、宮崎俊雄、上田静夫、赤坂行夫」と私を入れた7名だった。金子分隊士が担当していた100分隊の隊員だった。
その後、特攻訓練が始まってからも時々 「浜マデハ海女モ蓑着ル時雨哉」と聞かされた。
いざ、というその時までは体を、命を、大切にせよ、という教訓である。その時のお守りは、忘れられない記念品の一つとして、今も大切に保管している。
戦後40年ほど経った時に、大学の教授をしておられた金子分隊士の消息が判ったので (編注・鎌倉市在住)、戦友会に出席してもらった。その時、「震洋特攻へ行った者がどうなったかずっと気になっていた。7人のうち君達2人に (宮沢と高部) 会うことができ、また、他の5人も内地の基地で勤務し、戦死者が無かった様子なので安心した。よかった」と、非常に喜んでくれた。
そんな上官の心中など知る由もなく、当時の私達は若さからか、「特攻要員」となることを、かなり素直に受け入れていて、心の中で悩んだりはせず、かなり淡々としていたので、その話を聞き、上官としての苦悩の大きさを知り、反省したものだった。
東京駅から我々の専用列車は貨物線路を走ったり、駅に停車してもホームの無い線路上だったりで、密かな行動を裏付けていた。暗い夜を列車はひたすら西へ西へと走り続けた。
京都で一時停車し、若干の時間があったので許可をもらい、「宮坂」に広島へ電報を打つことを勧め、電報局を探して何とか電報を打つことができた。宛先は呉海軍病院である。「宮坂」も今回土浦へ面会に来て貰えなかった者の一人だったが、温和でも芯の強い彼は面会できなかったことなどおくびにも出さなかった。
いつ頃の事だったか、「宮坂」がある日突然呼び出され司令室へ行くことになった。何千人もいる練習生が直接司令室に行く用件などあるはずはないし、海軍大佐の司令に直接会うなど意外な出来事なので皆が心配していたら、何とそれが面会だった。
「宮坂」 の父親は医官で海軍の将官だったので、司令室での面会となつたわけだ。でもそこは司令室、親子の面会の話などはできず、顔を合わせたのみで早々に引き上げたという。そのことで我々は初めて「宮坂」が海軍中将の息子と知って驚いた。
その時「宮坂」の父親は呉の海軍病院の院長だったので、連絡がつけば広島駅で会えるのではと期待して、広島駅で手分けして探したが、とうとう面会は叶わなかった (戦後元気で再会できたと聞きよかったと思っている)。
どの辺りを走っていた時か、関門トンネルを過ぎてからと記憶しているが、行き先は九州の大村湾に面した「川棚魚雷艇訓練所」と告げられた。
飛行兵の我々にとって、海軍航空隊なら多少の情報はあったが、「魚雷艇訓練所」等の予備知識は全く無かったので、若干戸惑いが生じたが、すぐにそんな感情は消えて、場所など何処であろうと、特別な期待も不安も必要ない心境になっていた。
博多をかなり過ぎていたと思う辺りで、一面に菜の花が咲き揃い黄色に染まった広い丘が目に飛び込んできた。その時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。
これから特攻訓練に行くことさえ忘れ、しばし茫然と眺めていた。土浦航空隊の桜も美しかったが、この時見た菜の花畑から受けた「特別な美しさ」は生涯忘れられないものになつている。
注1:1906年以降1920年代まで 世界の海軍がその主力たる戦艦の設計・構造方針に用いた考え方で 戦艦が海軍力の基幹主力として最重要視され 攻撃の主力たる主砲に巨砲を備えるに至る
注2:海軍兵学校出身者
注3:大学卒業者から志願で 予備学生を採用し 現役兵学校出身者に対する 予備役士官の事
注4:海軍少尉 中尉 大尉等の士官
注5:航空機搭乗員でナビゲーターを担当する者
注6:甲種飛行予科練習生
注7:基礎教程終了者が第二課程として練習機による飛行訓練
注8:実際戦闘に参加する飛行機
注9:特殊攻撃兵器で(人が操縦し敵艦に体当たりする)攻撃する
注10:「戦時教育令」に基ずく非常体制下で 国民学校初等科を除き原則として学校における授業は停止し 各学校単位で国防に従事させた
注11:海軍の部隊編成組織に 分隊があり 大尉級(古参中尉を含む)を分隊長とし 配下に小、中尉級の分隊士が複数配置された
注12:海軍の階級に 下から二等水兵、一等水兵 上等水兵 兵長
があり 担当科目毎に 兵科は兵長 飛行科は飛長 整備科は整長等と称していた
注13:部隊に出入りする人等を 監視 検問する兵のたまり場
スタッフより
この記録は「甲飛だより」83号、84号、85号からの転載です。
なお、転載に当たっては
第14期甲種飛行予科練習生
埼玉県甲飛会 事務局長
小 島 啓 三 様 の
のご了承をいただいております。
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水上特攻・肉弾艇「震洋」
体験記① 高部 博(13期)
大艦巨砲主義《注1》に押され、また、太平洋の荒波には不適というために、余り積極的でなかった日本海軍の魚雷艇、それが、昭和17年11月ソロモン海戦が終わった頃から、その必要性が叫ばれるようになった。
ベニヤ板張りのモーターボートに250キロの炸薬を艇首に詰め、敵の揚陸部隊(艦船)目がけて多数で突入しようという震洋艇の計画は、戦局の急迫とともに着々と実行に移され、19年4月から急造された震洋第1号艇は、5月27日に完成した。
そして、これらの搭乗員は海兵出身者《注2》や予備学生出身《注3》の若い尉官が隊長となり、各艇は予科練出身者で全部これを固め、「敵襲ござんなれ」と待ち受けたのは、確かに太平洋戦争の最後を飾るものであった。
「選 択」
昭和20年の2月末に飛練教程を修了した偵察員《注5》が、数百名ほど土浦海軍航空隊に集まってきた。我々13期後期より2カ月早く昭和18年10月に入隊した13期前期の甲飛生《注6》達だった。
彼等は、昭和19年6月に予科練教程を卒業し、「飛行練習生」となって上海、青島等の航空隊で「飛練教程」《注7》に進み、厳しい実地訓練を8カ月も積み、いわゆる「練習生」を完全に卒業してこれから実施部隊で、実用機《注8》の訓練に入ろうとする飛行兵が、突然数百人も土浦空《土浦海軍航空隊》へ帰って来たのである。
厳しい戦闘で飛行機の消耗が激しくなったことは、同時に搭乗員も多く失っているわけである。その補充には年単位の時間が必要なのに、もう実用機に乗れるようにまでなった搭乗員を足踏みさせるとは、と疑問に思うのは当然である。
昭和20年になった頃の航空兵力の実態は、航空戦での消耗に加え、空襲による各地の被害等で飛行機の生産力は極端に低下していて、飛行機の第一線への補充も思うように出来ない状況に陥っていた。
また、燃料の欠乏も甚だしく、航空機用の燃料の不足はどうにも出来ない状態となっていた。
その頃には既に、「特攻攻撃」《注9》 に参加して戦死している先輩搭乗員はかなりの数に上っていたし、我々同期の者も何人かが飛行機以外の特攻兵器で戦死していた。
彼等は昭和19年8月予科練卒業と同時に、「飛行機でない特攻兵器」 に志願して行った者達である。
既に、本土決戦のシナリオが進められており、昭和20年の5月からは全教育機関が、教育の停止《注10》となり、全員が戦闘要員となった。
「予科練」も例外ではなく、全員が本土防衛(陸戦を含み) の中に組み込まれ、いわゆる「一億総特攻」の体制下に置かれることになった。
海軍では、昭和19年から20年にかけて、「飛行予科練習生」を大量採用した。名称は「飛行予科練習生」だったが、特攻兵器要員に向けられた。
昭和20年4月中旬に特攻要員の募集があり、躊躇することなく志願した。
本土空襲は激しくなり沖縄にまで、敵機が及んでいる状況となっては、新しい道をとらなければ今まで予科練で培ってきたものが、全て無駄になってしまうのではないかと、迷う気持ちを一応は整理した。
予科練訓練中に操縦か偵察かに判定する適性検査がある。殆どの者は飛行機の操縦員になることを熱望し、夢に見ていた。
その適性検査に希望どおり合格して、憧れの操縦員としての基礎訓練も受けていたので、自分ではあくまで飛行機の操縦員になれるものと信じていた。だから、飛行機乗りになるんだという、その願いを完全に捨てることに少しの迷いもなかったと言えば嘘になる。
4月下旬のある日、特攻要員を希望する者の中から最終的に選抜する面接が行われた。
面接担当官は「金子分隊士」《注11》と本部士官の2名で、真剣な顔付きで待っていた。
家族状況の確認から始まり、両親が健在で兄があり兄弟が多くて、農家の次男坊となればもう言うことなしと、自分で勝手に決めていた。特攻要員となる意志の確認があり、兵器は「マル四」であると告げられた。
「特殊兵器」と言うものの、それ自体人間を組み込んだ爆弾か魚雷と考えた方が判り易い。従ってその要員には予め死が約束されていたわけである。
「マル四」は別名「震洋」と呼ばれる水上艇で頭部に爆薬を積み、水上で敵の艦船に体当たりし、それを爆破し沈めるために使用する「小型快速艇」位の知識は何となく持っていた。
船体は木造で外板はベニヤ板、エンジンはトヨタの自動車エンジンを転用、1人乗りが全長5・1米、2人乗りはエンジン2基で全長は6・5米、その頭部に250瓩の爆薬を搭載した小型船。その小型船に乗って敵艦船に体当たりし、250瓩の爆薬を爆発させて敵船を撃沈させるというもので、飛行機特攻のような華々しい配置ではない。
「是非お願いします。いずれ死ぬものと覚悟はしております。どうせ死ぬのなら・・・」と、そこまで言ってしまった。「どうせ死ぬのなら」は、まずかったと気が付き、一息ついた時、金子分隊士の顔が一瞬綻びたように見えた。
そこで肩が急に楽になり、自分の気持ちを何とか説明することができたと思った。
その時まだ16歳だった。
「国の為に一命を捧げて尽くしたいから・・・」等と、勇ましい言葉を並べたようだが、実際は「国の為」などという崇高な確固たる信念から言ったような記憶もないし、親や兄弟の為になどと言った覚えも残っていない。
数日後、金子分隊士から特攻要員に決定した旨の話があった時には、何故かほっとした。
若さ故か、「死」というものに対する恐怖感や、人生についての悩みなどは全く持っていなかったので、特攻要員に決まっても殆ど平常と言っていい心境でいたようだ。それを「悟り」と言う人もいるだろうし、「諦め」だと言う人もいるかも知れないが、通常の神経では耐えられない心の葛藤を淡々と乗り越えられたのは、純真な若さと予科練という環境が与えてくれたものが大きかったに違いない。
「出 発」
昭和20年4月22日、特攻要員に選抜された者は、司令部前に集合し、全員で写真を撮った後、思い出多い土浦航空隊を後にした。
特攻要員としての出発だったので見送りの無い目立たない出発だった。勿論行き先は知らされていなかった。
海軍の別れの時の「帽振れ」 には、儀礼の意味のほか特別な感情が込められていて、独特な思いがあることを強く感じたのは、九州の基地で、沖縄へ特攻出撃する魚雷艇を見送った時である。
生還することがないと判っている乗組員達に向けて振っていた帽子が、船が遠ざかるに従って次第に重くなり、耐え切れなくなってきた。
しかし、我々震洋部隊の出撃は、夜間でしかも隠密裡の出撃になる筈だ。誰一人見送る人の無い中の出発となる。だから当然「帽振れ」はない。
最終的に自分の進む方向が「水上特攻」に決定し、任務が具体的に明確になったことで、自分の命をかける結果がどうなるかなどと、悩み迷う必要はなくなり、かなり精神的に余裕も出てきた。
山梨の田舎で農業をしている父は体が丈夫な方でなく、兄は私が予科練に入ってから出征した。姉は東京の軍需工場で働いていて、家には幼い妹と弟が4人もいたため、面会に来てもらうのは無理だと判っていたので、予科練入隊後1回も面会に来てもらったことはなかった。
退隊当日、土浦駅まで見送りに来てくれた同期生と堅い握手を交わし、一般の入場規制をしたホームの専用列車に乗り込み出発を待っていた。間もなく発車になろうという時、突然「高部飛長《注12》は居るか」と呼び出されて、ホームに出て驚いたことに、そこに父と姉が立っていたのである。
列車の出発間近の慌ただしい僅かな時間だったのがよかったのか、案外さっぱりしていたようだ。肉親に会えるのもこれが最後になるのかなどという、感傷が湧いたような記憶もない。
戦後10数年ほど経った頃、何かの折にその時の話が出て、姉よりその折のことを詳しく聞かされ、初めてそうだったのかと思い出したくらいである。
土浦航空隊から「現地出発面会ヲ許可スル・・・」との通知が届いた。航空隊から直接の通知だからと、早速父が東京の姉と連絡を取り2人で土浦まで駆け付けたが、途中手間取り航空隊に着いた時には、我々はもう出発した後だった。
衛兵所《注13》の衛兵が時計を見て「今から急げば何とか間に合うかも知れない」と、隊門前の道を指差し「とにかくあそこで、どんな車でも良いから止めて土浦の駅まで乗せてもらえ」と、教えてくれた。
航空隊からの「現地出発・・・」の通知書を見せると、すぐに乗車券を売ってくれたという。そんな通知書をちらつかせながら、親切なトラックに土浦駅まで乗せてもらい、入場規制しているホームに駆け込み、私の車両を探してもらい何とか辿り着けたとのことだった。
父が私に小遣いをくれるというのを断り、逆に私が持っていた金を出して「もう使い道が無いから」と言って、父に渡したのを姉は記憶しているという。それから間もなく列車は出発した。父親はこれが最後の別れになるかも知れないと思っていたに違いないが、その時の父の表情などは全く思い出せない。
東京駅でかなり時間があるということで靖国神社に参拝した。
東京駅を出発したのは暗くなつてからだった。列車の出発を待っている時、金子分隊士が突然訪ねて来て、「今日香取神宮まで行って来た」と言いながら、香取神宮のお守りを渡してくれた。
その時お守りを貰ったのは、同期の「宮沢恒一、宮坂三夫、原田定雄、宮崎俊雄、上田静夫、赤坂行夫」と私を入れた7名だった。金子分隊士が担当していた100分隊の隊員だった。
その後、特攻訓練が始まってからも時々 「浜マデハ海女モ蓑着ル時雨哉」と聞かされた。
いざ、というその時までは体を、命を、大切にせよ、という教訓である。その時のお守りは、忘れられない記念品の一つとして、今も大切に保管している。
戦後40年ほど経った時に、大学の教授をしておられた金子分隊士の消息が判ったので (編注・鎌倉市在住)、戦友会に出席してもらった。その時、「震洋特攻へ行った者がどうなったかずっと気になっていた。7人のうち君達2人に (宮沢と高部) 会うことができ、また、他の5人も内地の基地で勤務し、戦死者が無かった様子なので安心した。よかった」と、非常に喜んでくれた。
そんな上官の心中など知る由もなく、当時の私達は若さからか、「特攻要員」となることを、かなり素直に受け入れていて、心の中で悩んだりはせず、かなり淡々としていたので、その話を聞き、上官としての苦悩の大きさを知り、反省したものだった。
東京駅から我々の専用列車は貨物線路を走ったり、駅に停車してもホームの無い線路上だったりで、密かな行動を裏付けていた。暗い夜を列車はひたすら西へ西へと走り続けた。
京都で一時停車し、若干の時間があったので許可をもらい、「宮坂」に広島へ電報を打つことを勧め、電報局を探して何とか電報を打つことができた。宛先は呉海軍病院である。「宮坂」も今回土浦へ面会に来て貰えなかった者の一人だったが、温和でも芯の強い彼は面会できなかったことなどおくびにも出さなかった。
いつ頃の事だったか、「宮坂」がある日突然呼び出され司令室へ行くことになった。何千人もいる練習生が直接司令室に行く用件などあるはずはないし、海軍大佐の司令に直接会うなど意外な出来事なので皆が心配していたら、何とそれが面会だった。
「宮坂」 の父親は医官で海軍の将官だったので、司令室での面会となつたわけだ。でもそこは司令室、親子の面会の話などはできず、顔を合わせたのみで早々に引き上げたという。そのことで我々は初めて「宮坂」が海軍中将の息子と知って驚いた。
その時「宮坂」の父親は呉の海軍病院の院長だったので、連絡がつけば広島駅で会えるのではと期待して、広島駅で手分けして探したが、とうとう面会は叶わなかった (戦後元気で再会できたと聞きよかったと思っている)。
どの辺りを走っていた時か、関門トンネルを過ぎてからと記憶しているが、行き先は九州の大村湾に面した「川棚魚雷艇訓練所」と告げられた。
飛行兵の我々にとって、海軍航空隊なら多少の情報はあったが、「魚雷艇訓練所」等の予備知識は全く無かったので、若干戸惑いが生じたが、すぐにそんな感情は消えて、場所など何処であろうと、特別な期待も不安も必要ない心境になっていた。
博多をかなり過ぎていたと思う辺りで、一面に菜の花が咲き揃い黄色に染まった広い丘が目に飛び込んできた。その時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。
これから特攻訓練に行くことさえ忘れ、しばし茫然と眺めていた。土浦航空隊の桜も美しかったが、この時見た菜の花畑から受けた「特別な美しさ」は生涯忘れられないものになつている。
注1:1906年以降1920年代まで 世界の海軍がその主力たる戦艦の設計・構造方針に用いた考え方で 戦艦が海軍力の基幹主力として最重要視され 攻撃の主力たる主砲に巨砲を備えるに至る
注2:海軍兵学校出身者
注3:大学卒業者から志願で 予備学生を採用し 現役兵学校出身者に対する 予備役士官の事
注4:海軍少尉 中尉 大尉等の士官
注5:航空機搭乗員でナビゲーターを担当する者
注6:甲種飛行予科練習生
注7:基礎教程終了者が第二課程として練習機による飛行訓練
注8:実際戦闘に参加する飛行機
注9:特殊攻撃兵器で(人が操縦し敵艦に体当たりする)攻撃する
注10:「戦時教育令」に基ずく非常体制下で 国民学校初等科を除き原則として学校における授業は停止し 各学校単位で国防に従事させた
注11:海軍の部隊編成組織に 分隊があり 大尉級(古参中尉を含む)を分隊長とし 配下に小、中尉級の分隊士が複数配置された
注12:海軍の階級に 下から二等水兵、一等水兵 上等水兵 兵長
があり 担当科目毎に 兵科は兵長 飛行科は飛長 整備科は整長等と称していた
注13:部隊に出入りする人等を 監視 検問する兵のたまり場