@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記②-2

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記②-2

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/14 8:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  「進 出」

 訓練は終了した。編成も決まり、部隊の名は「第59震洋隊」と言うが、何処に所属するかは知らされない。あとは最後となる地へ向けて出発の命令を待つのみだ。
 「身辺は出来るだけ綺麗にしろ」と言われて成程と納得。2カ月前担いで来た「衣嚢(いのう)」へ洗面用具等を放り込めば、終わってしまう程身の回りの整理は簡単である。兵舎内の清掃を含め瞬く間に終了した。
 手紙を出すことも出来ないし外出もない。誠にさっぱりしたものだった。
 転出先の基地が何処になるかが矢張り気になる。
 明日にも出撃命令が出るかも知れないような最前線基地か、それとも未だそれ程緊迫していない基地か、どちらにしろ結果は同じで、ただ時間の差があるだけだ。そんな事は判っていると言いながらも、何となく早く知りたいところに若さが残っていたようだ。
 関東方面らしいとの噂が出て、九州や関西方面出身者は残念がり、関東、東北方面出身者は喜んだ。
 しかし、もう休暇で家に帰る事や、親に会うなど出来ない事を理解していても、少しでも故郷に近い所が何故か安心感を持たせてくれる。
 表面は、人生を達観したような態度をとっていても、人間らしさと言うか人並みの感情は失われてはいなかった。
 いよいよ出発が決定してから雰囲気は一変した。これから自分達が使命を果たすための具体的な行動に移るわけで、訓練中とは全く違った集団となつていた。
 今までに体得した技能を国の為に如何に発揮するかだ。出撃命令が出たら生還は無い。この祖国を護るために、親兄弟のために、一命を捨てるのだと純粋に心に誓った若者になつていた。
 この頃にはもう死に対しての不安や恐れは完全に乗り越えていた。
 「特攻訓練」を終了した事で高等科の特技章を貰った。
 海軍では、下士官と兵はそれぞれ相当する職務について専門教育を受け、その技倆で、普通科と高等科に分けて「特技章」を与えていた。普通科は一重桜、高等科は八重桜のマークを左腕に付けた。
(編注=昭和17年勅令第611号により改正されたもので、以前は各科毎に異なるマークであった。)
 このマークは言わば優れた技能を持つ者の印で、かなり評価されていた。その八重桜を付けた事で一段と自覚が高まっていた。
 (編注=階級章も統一されて、右腕に付けた。兵種識別は、階級章の中に桜マークの色メタルを付した。兵科-黄色、機関科・工作科-紫色、飛行科-青色、整備科-緑色、主計科-白色、看護科-赤。技術科-蝦(えび)色、軍楽科-藍(あい)色)
 川棚臨時魚雷艇訓練所を出発する予定日の前、佐世保軍港を狙った空襲があったので、行動計画に若干の変更があったが、米を運んできた運搬船に便乗して翌日の早朝佐世保へ。桟橋から線路伝いに歩いて直接ホームヘ上がった。
 佐世保の被害は部分的だったようだが、今まで空襲など直接経験した事が無かったので、空襲の凄まじさを目にして、受けたショックは大きかった。
 戦況が深刻になっている状況を肌で感じて、我々の任務の重要さを再認識した。
 この時、佐世保に実家があった同期の井出清澄兵曹の家族の事を皆で心配したが、無事を確認出来てほっとした。
 佐世保から博多まで一般車輌を利用。博多駅では4時間程待機。専用車輌を増結した貨物列車で深夜に出発した。
 専用車輌は我々部隊員のみ、艇隊長と搭乗員他を含めても60名程、生死を共にする「最後の仲間」達だけの移動で、何となく落ち着いた気分だった。
 途中通過した駅があるかと思うと、何時間も停車する駅もあり、空襲で被害にあった駅や焼け跡の生々しい町を目にしながら、行き先も知らないまま列車に身を任せていた。
 どの辺りだったか記憶に残っていないが、線路上に停車していた時、かなり離れたホームに女子学生の一群を見付けて手旗信号で呼び掛けてみた。あの頃の学校では手旗信号を教えていたようで、すぐに手旗信号で応答してきた。皆で歓声を上げ、他愛ない言葉を交わして停車時間を楽しんだ。
 そんな些細な事だったが今でも覚えているのは、相手が年齢も近い女子学生だったためか、厳しい軍隊生活の中で今まで味わえなかった解放感があったからか、その時第1艇隊長高橋俊少尉(予備学生法科出身)が、何事も無いような態度で居てくれたためか。今思うと、青春時代の思い出としては何とも他愛の無い事だったが、これが16・17歳で死を約束した、特攻隊員の人生の一齣かと考えと、うら悲しい気にもなる。
 大阪を過ぎて早朝大津に到着した。昭和20年7月2日の早朝だったが、「滋賀空」から握り飯の差し入れがあった。弁当を運んで来てくれたのは、滋賀空の14期生だった。隊員の中に顔見知りが居てお互い奇遇を喜んでいた。
 列車は品川止まりだった。夜に入ってはいたが、高橋艇隊長の号令で、50人がそれぞれの衣嚢を担いで線路を横断し、隣のホームヘの移動を強行した。秒単位の行動でアッと言う間に隣のホームに駆け上がり整列、3日間の車中で溜まっていたものを瞬時に発散させた。
 電車を乗り換えお茶の水へ。お茶の水で乗ったのは貨物列車の最後尾に増結した客車だつた。
 千葉方面に向かっているのは確かだが、何処へ行くのかわからない。
 千葉でストップ、車中泊となった。翌朝、目的地へ向けて走り出した。川棚を出発して4日目である。ここまで来れば房総半島だろうと、少し気楽になっていた時、突然空襲警報が出た。列車はトンネルに入り停車したが、我々の乗った増結車輌は何故かトンネルからはみ出していた。
 このトンネルがどの辺りだったのか確かでないが、停車左側の土手の中腹に山百合を見付けた。たった一輪だが、その花の白さが目に染みて、急に手に入れたくなり、夢中で土手をよじ登り、折ってきた。空襲警報中であることや、列車が動き出した時の事など頭に無かった。その後、花の白さに感動して折角手にしながら、「百合の花」をどうしたか思い出せない。
 7月3日16時頃、洲の崎海軍航空隊に到着。そこで、我々の基地の整備が完了するまで、待機する事となった。
 7月10日進出先が初めて示された。
 我々の所属は、「第12突撃隊・加知山派遣隊」となつていたが、移動の途中で、「第18突撃隊」所属に変更された由、但し派遣先基地は変更なしとの事。(編注=第7特攻戦隊第12突撃隊加知山派遣隊は、独立して第18攻撃隊となり第1特攻戦隊に編入された)。
 基地は、房総半島最南端の洲崎灯台より3粁程手前、「波佐間」と言う小漁港の村落にあり、設備は殆ど完成しているという。
 若干の整備作業が必要と言われたが、先任艇隊長も現地をまだ確認していなかったので、「若干の整備作業」がどんなものか、その時、気に掛ける者は誰もいなかった。
 しかし、それが後で我々をかなり苦しめる事になろうとは知る由もなかった。
 7月11日、荷物はトラックで先行し、我々は徒歩で目指す基地へ出発。目的地は此処から10粁程だというので元気に任せて歩き出した。
 砂利道を南へ歩くこと2時間余、真夏の太陽は容赦なく砂埃と一緒になって我々を悩ましてくれた。
 時々右に見える海を見て安心はしていたが、人家もまばらになってきて基地の在りかが少々心配になってきた。部隊本部に借り上げてあるという漁業協同組合の事務所への道を尋ねた。
 小さな村落の中程で右折し、緩い坂道を150米程下がると海が見えた。海辺にある漁業協同組合の事務所はすぐに見つかった。
 搭乗員用の宿舎へ案内してもらう。その宿舎も民家を借り上げた2階建ての一軒家だ。本部から50米程の近さで道を隔てて漁船の船着場がある。基地としての条件は良い方だ。早速事業服に着替え一息入れた。遂に最後となる地に到着した。
 (編注=終戦間際には本土決戦に備えて、太平洋岸外に震洋・蛟龍・海龍・回天等が配備されていた)

横須賀鎮守府所属
 第1特攻戦隊   ●第11突撃隊
  ●第15突撃隊  ●第16突撃隊
  ●第18突撃隊  ●横須賀突撃隊
 第4特攻戦隊   ●第13突撃隊
  ●第19突撃隊  ●八丈島突撃隊
 第7特攻戦隊   ●第12突撃隊
  ●第14突撃隊  ●第17突撃隊
呉鎮守府所属
 第2特攻戦隊   ●光突撃隊
  ●平生突撃隊   ●大神突撃隊
  ●笠戸突撃隊
 第8特攻戦隊    ●第21突撃隊
  ●第23突撃隊   ●第24突撃隊
舞鶴鎮守府所属
  ●舞鶴突撃隊
大阪警備府所属
 第6特攻戦隊   ●第22突撃隊
佐世保鎮守府所属
 第3特攻戦隊   ●川棚突撃隊
  ●第31突撃隊   ●第34突撃隊
 第5特攻戦隊   ●第32突撃隊
  ●第33突撃隊  ●第35突撃隊
鎮海警備府所属
  ●第42突撃隊

 以上の外に済州島、父島、母島、鬼界ケ島、奄美大島、宮古島、石垣島、台湾、馬公、舟山島、海南島、香港及び大亜湾、厦門にも震洋艇部隊が配備されていた。)

  条件検索へ