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水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記(完)-3

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通常 水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記(完)-3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/21 8:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「出撃準備」

 検査を終えて基地に引き揚げたが、艇はなかなか到着しない。8月初旬漸く震洋艇が貨車輸送で館山駅に到着したとの報せが入った。
 真夏の太陽が容赦なく照りつける中、急遽館山駅へ駆け付けた。
 あの隅田川で我々が試運転をした震洋艇が、真っ黒のシートで覆われて無蓋貨車5台に積まれ、引込線に静かに侍っていた。
 他に荷を載せた貨車はない。早く運び出さないと目につく。空爆の対象にならないよう館山航空隊のポンドまで、トラック1台でピストン輸送することになった。トラックに載せるには、貨車をチェンブロックのある所まで移動させなければならない。
 貨車は簡単には動かない。鉄の太いバールで線路と車輪の間を力一杯こじる。なかなかうまく出来ないが、少しでも動き出せば、人力も効いてくる。5人で肩を入れて踏ん張った。
 線路の転轍機でポイントを切り替え、チェンブロックのある線路に押して行く。何時、空襲があるか判らない。気は焦る、昼食は抜き、炎天下喉はからからに、何故か服や顔まで汚れ放題、なんとか事故もなく5隻を運び出した。
 館山航空隊のポンド脇には大型クレーンがあり、トラックからポンド《船溜まり》に降ろすのは順調に進んだ。
 後は艇を基地まで海上輸送する、当然夜間の作業となった。
 夕刻、基地から曳き舟で館山航空隊へ、震洋艇の曳航準備は2時間程で終了し、出発時間調整のため、ポンド脇で待機中、空襲警報が発令され、基地の照明は全て消え、滑走路の誘導灯も消されて真っ暗闇となつた。
 その空襲警報中飛行機が1機着陸して来た。誘導路の方向を間違えたのか、我々が待機していた所へ向けて進んで来た。その飛行機は停り切れずにポンドに落ち込んでしまった。
 「彗星艦爆」だった。真っ暗闇の中の一瞬の出来事だった。貴重な飛行機が1機駄目になったのかと思ったが、搭乗員はずぶ濡れになりながらも直ぐに這い上がって来たのでほっとした。
 その搭乗員は全く慌てることなく、落ち着いた態度で司令部の場所を尋ね、濡れた書類を下げて何事も無かったような態度で歩き出した。
 その後ろ姿を見ながら、あれはきっと我々の大先輩で歴戦の勇者だろうと感心、自分達もどんな事に遭遇してもあのように堂々と落ち着いていられるかと少々不安に。
 空襲警報の解除待ちで震洋艇の曳船出発は夜更けになつた。波佐間の基地へ向けゆっくりした速度で艇を破損しないよう慎重に出発。
 途中、魚の定置網に震洋艇のスクリュー防護金物を引っ掛けたほか、何事も無く基地まで到着した。
 明け方近くなっていたが、待機していたグループと協力し、直ちに艇の引き上げ作業にかかった。
 夜光虫が怪しく光り、海水の動きを美しく幻想的にしてくれる。そんな中静かに作業を進めた。
 艇の引き上げ作業は意外と手間が掛かる。台車を「すべり」に引き出し、水面下1米程の所に潜らせて置く、艇をその台車の上に移動させる、艇と台車の位置が合ったら艇の上から4本のロープで台車を引き上げる、そのロープで台車を艇に固定する。
 手順はこれだけだが、水の中の作業員4名と艇の上の4名の連携が鍵となる。
 台車は1・5トン以上の加重に耐えられるような頑丈なもの、水中でも簡単には持ち上がらない。また台車を艇の所定の位置に確実に固定しないと、運搬中に艇がずれ、転覆する危険もある。
 この作業は訓練ではやっていない。一度出撃すれば二度と帰る事はないからだ。出撃の時は、艇を台車に載せたまま「すべり」から海に押し出す。艇が海に浮かべば台車を付けたまま出発。水深が十分ある所で台車の固定索を手動で切り離し、台車を海中に捨ててしまう。再び帰投する事はないから台車は不要なのだ。
 まだ周囲は薄暗い。手元や水中の台車の様子は、はっきりとは見えない。それでも薄明るくなる頃には5隻の艇は、台車で山側の格納壕に運び込み終えた。
 漸く5隻の震洋艇が確保出来た。
 これまで新設基地に必要な整備作業や、物資の調達に主力を注いでいたので、それらはほぼ目鼻がついていた。
 隊員150名の主食の米や麦の他、非常食、それに主要な艇の燃料もドラム缶数十本(ハイオクタンの航空機用ガソリン)を、館山航空隊から運搬し確保した。
 次の作業は到着した艇を、何時でも出撃出来るようにしておく事である。猛暑の中早速震洋艇の爆装作業に入った。爆装作業開始で隊全体が緊張した空気に包まれた。作業は慎重になる。
 250キロの爆薬を扱う作業である。手違いをすれば爆発を起こしかねない。若し1個でも爆発が起きると、他の250キロ爆薬50個総てが誘爆する。その誘爆で艇の燃料用ガソリン数十本のドラム缶にも引火する。ほかの武器弾薬も巻き込んで大惨事となる。山の横腹に造った12本の格納壕の殆どは潰れ落ち、山は変形し、また付近の村落、住民は壊滅的な被害を受ける事になるだろう。当然我々も爆死する事になる。そんな事故は絶対に起こしてはならない。
 その頃になって、広島に新型の爆弾が落とされたという情報が入った。新型爆弾がどんなものか、被害がどの程度あったのか等は判らない。
 新型爆弾が原子爆弾と知ったのは、戦後暫くしてからだ。また、爆装作業中誘爆が起きて搭乗員50名全員が犠牲になった事故が、四国のある震洋艇基地であった事も知った。
 重い爆薬を扱う爆装作業も、我々が中心だが、素人には出来ない事もあった。
 250キロの爆薬を吊り上げるため、丸太3本を組み合わせそれにチェーンブロックを取り付ける、この仕事は経験のある召集兵がやってくれた。先ず、250キロの爆薬をチェーンブロックで吊り上げる。その下に台車に載せた震洋艇を運び込む、吊り上げてある爆薬の位置を合わせるのが中々うまくいかない。位置が合ったところで船倉内へ爆薬を静かに下ろし、ボルトで船底に固定する。
 起爆装置の取り付けや電気配線は、別の場所で行うため、艇を移動し、次の艇の爆装に入る。
 爆装作業が終わった日の夜中(8月1日)「敵船団接近中」との報で「震洋艇出撃」の命令が届いた。出撃準備が出来ているのは僅か5隻だけ。搭乗員50名の中から5名を指名しなければならない。
 部隊長は横須賀に出張中、高橋先任艇隊長に指名の苦悩がのしかかった。暫くして幸い敵船団来襲は誤報で(編注=伊豆大島見晴所が多量の夜光虫を船団と見聞違えて報告)、「震洋艇出撃用意」が取り消され、高橋艇隊長は安堵の胸を撫で下ろした。
 全員出撃なら一声の「命令」で済む。しかし、若い搭乗員50名の中から5名を指名し、先に死に向かわせるのは限りなく辛い。自分が率先突入するとはいえ苦しかったと、戦友会で会う度に話される。


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