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水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記(完)-2

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通常 水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記(完)-2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/19 8:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  「艇受領」

 予定日程が若干遅れたので、急ぎ震洋艇の試運転に出発した。
 目的地は東京町屋にある造船所、トラックに米1俵、麦1袋、うどん粉1袋、油1升、生鮮野菜類等を積み込み、一路東京へ。
 4名が交替で造船所の社員寮にお世話になることになっていたので、本部付の村上兵曹長が気を使って用意してくれた。当時としては十分と思われる食料品を持ったので、安心してトラックに乗り込んだ。
 途中海軍省に立ち寄った時、空襲警報に遭い、近くにあった防空壕に避難した。その時、油の瓶を割らないように持っていた者が、油瓶を持ったまま防空壕に飛び込んだ。狭い入口で瓶を割り油を失った。もう天婦羅は食べられないと諦めていたが、寮では何回か天婦羅を作ってくれた。
 造船所は隅田川に面した所に在り、「木村工作所」となっていた。
 艇は5隻が出来上がり、検査を待っていた。早速型や内部の点検、各部のチェックを済ませたあと、性能試験、いわゆる試運転にかかった。
 試運転では船体やエンジンの具合は勿論重要だが、速度がどの位出せるかが最も関心のあった点だ。敵船に襲撃をかけた時、チョロチョ口走っていたのでは、目的を達する前に敵の餌食になってしまう。速度は早い程良い。
 隅田川がほぼ直線になっている所の対岸に1粁間隔で指標が2本ずつ立ててある。その1粁間を全速で走り抜け時間を測定する。
 2人で組み、1人が運転、計器など何もないので、ひたすら如何に速度を上げるかに集中する。l人はストップウオッチで2本の指標間を通過する時間を測定し、「時速何ノット」と算出して記録する。
 どの艇も快調に走ってくれた。かなりの時間を掛けて念入りにテストを繰り返したが、全艇欠点はなかった。
 当時の小型艇としては抜群の23から26ノットも出た。新しい艇の素晴らしい性能に満足だった。
 今まで乗っていた艇は、訓練で酷使したもので、しかも燃料はアルコールだった。試運転には実戦時と同じガソリンを使用した。それに、船首内に爆薬に見合う重りも乗せていないので条件はいい。訓練艇に比べ驚く程の走りをしてくれた。快走する艇で今までに感じた事のない爽快さを味わったが、その爽快さが自分達の死につながるのだとは考えずに、試運転に没頭していた。
 艇のテストは10隻程で終了。あとは製造が出来次第、次のメンバーに引き継ぐ事になつた。試験期間は4名で1週間程だつたが、艇が完成するのを待っていたこともあり、時間に余裕があったので、念入りに検査が出来た。試運転期間中は我々搭乗員4名のみ。年齢は皆20歳前だが下士官《注1》なので、一人前の扱いを受け、入湯、外出《注2》も出来、煙草や酒も支給されていた。それで、行動は自主的判断に任されていて、自由に出来る時間が十分にあった。羽を伸ばそうと思えばかなりの行動が出来たわけだが、4名とも東京は未知の世界。町を見物しようと出てみたが、周辺はかなりの焼け野原となっていて驚いた。
 同期生だけの気安さと若干の探求心から、足を伸ばしてみることになつたが、地図の用意もなく、方角さえ判らない。取り敢えず市電が道路を横断している、近くの駅(今の町屋駅前)で来た電車に構わず乗り込んだ。
 「市街電車」 に乗るのは4人共初めてという田舎者揃い、行ける所まで行ってみようと終点まで。終点の周辺は閑散としていて薄暗く、コンクリートの建造物が若干見えるだけ。東京でもこんな寂しい所があるのかと驚き、また同じ電車で引き返した。
 乗る電車を間違えたと見たのか、軍人扱いをしてくれたのか、電車賃は払わないでいいと言う。初めて乗った市電が無賃乗車だった。
 又、ある日、市電の駅近くで行列があったので、何事かと後に付いてみたら、店の人が「兵隊さんこちらへ」と言うので付いて行くと、小屋の裏口から中へ、「国民酒場」という、つまみ無しでビールを一杯ずつ優先的に飲ませてくれた。
 焼け野原の一角で立ち飲みとは言えビールが売られていて驚いた。その時のビールの味は唯々苦かった。勿論幾ら払ったかも忘れてしまった。
 我々の次の検査チームは、転勤が関東で喜んだ14期生で、その中に東京都下出身の木村保治兵曹がいた。
 ある夜、西の空が赤くなつた。木村兵曹は実家の安否が気掛かりになり、一晩がかりで実家までバスの無くなつた道を走った。翌朝には寮まで帰り着くという離れ業をやってのけた。
 又、ある日の夕方、隅田川を越え荒川まで足を伸ばした事があり、帰りに別道を通り遊郭《注3》に迷い込んでしまった。物珍しさを隠しながら歩き回った。不思議にその一角は空襲の被害が及んでいなかった。
 造船所の社員寮で食事に大豆の絞り粕が入ったご飯が出た。我々は麦飯には慣れていたが、大豆の絞り粕は喉を通らない。半分ほど拾い出してしまった。
 賄いの小母さんに、麦はどんなに入れてもいいが、これだけは(大豆油の絞り粕とは知らなかった)勘弁して貰いたいと話したところ、「兵隊さん達まだ若いから言うが一般の人は、皆これを食べているんです。食べられるだけいいと思って我慢しているんです。判って貰いたい」と言う。そう言われると返す言葉がない。仕方なく、我々は今造って貰った船の検査をしているが、実は特攻要員である旨をそれとなく話したところ、小母さんは黙って聞いていたが、そのまま無言で立ち去った。翌日から大豆粕ご飯は出なくなった。
 検査が終わって引き揚げる時、小母さんが、「私の子供位の年齢だね、気をつけて」とだけ言ってくれた。

注1:兵と士官との間の階級で 二等兵曹 一等兵曹 上等兵曹があった
注2:夕食から翌朝食事時までの上陸(外出)が許されていた
注3:遊女屋が集まって一郭をなしていた地域

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