38度線を越えた! 青木 輝
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投稿日時 2010/11/25 8:24
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
本稿は、青木 輝 様 のご了解を得て掲載いたしました。
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戦争体験の労苦を語り継ぐために
『平和の礎』選集
三十八度線を越えた!
静岡県 青 木 輝
「西暦二〇〇〇年までカウントダウン、ついに100日を切りました。皆さん! お元気ですか、さわやかワイド青木輝のハッピーTODAYの青木輝です」と、いつものように私がパーソナリティを務める『SBS静岡放送ラジオ』の番組が始まった。リスナーからのはがきは、一日に何十通と届いた。
私は、時々放送中に、子供の時にソ連に抑留された話をすることがある。その後すぐに反響があって、「実は私も、満州からの引揚者なんですが、子供でも抑留されたのですか、一度詳しく話してください」というはがきが舞い込んで来たことがあった。
「そうか! 子供でソ連へ抑留されたということは珍しいことなんだな」と思った。そういえば、家に遊びに来る若い社員にこの話をすると、皆目を丸くして聞き入っている。「これは、ちゃんと書き物にして残しておき、こんなこともあった、あんなこともあったんだということを、順序立てて伝えることは意義のあることかもしれない。忘れかけている記憶を呼び戻しながら書き留めてみよう」と決心して書き出した。
昭和十(一九三五)年九月七日に、私は満州国の鞍山(アンザン)で生まれた。鞍山は、奉天(ホウテン)(藩陽)と大連(ダイレン)の中間から少し北寄りにある都市で、当時、東洋最大の製鉄所と言われた昭和製鉄所があったことで有名であった。
製鉄所に近いところにあった一部の日本人の住宅には、製鉄のために使用する冷却水のパイプが引かれていて、普通の水道の他にお湯も出るようになっていた。これは当時としては大変に贅沢なことであった。トイレも水洗式であり、我が家には電話もあった。また、私たち子供が三輪車に乗って遊ぶ時でも、家の中の廊下で十分であった。
昔の女性は若くして子供を産み、出産可能な年齢まで子供を作った。私の父は銀行員で、私が生まれた時には既に五十歳を過ぎていた。私の上には四人の子供がいたが、すべて女の子で、五人目でやっと男である私が生まれた。父は花火を上げて祝い、喜んだとのことであった。姉の話によると、私を取り上げた助産婦は私をたらいに入れて、生まれたばかりの体を洗いながら、「この子はおぼっちゃまだから」と言って卵で体を洗っていたという。姉たちは、どうして男の子だと卵で体を洗うのかと不思議でならなかったそうだ。
昭和六年に勃発した満州事変以来、軍備拡張の波に呼応して、「産めよ、殖やせよ!」の風潮があったので、男の子は特に歓迎された時代だったのである。私を取り上げた助産婦も、父母に対して大サービスをしたわけである。それから五年後の昭和十五年には、父が鞍山から汽車で北へ約四時間ほどの、開原(カイゲン)の銀行に支店長として転勤したので、家族も一緒に関原に移り住んだ。
当時満州の鉄道は、新京(シンキョウ)(長春)と大連との間が日本でいうとちょうど東海道本線に相応するもので、南満州鉄道と言われ、世界でも指折りの鉄道で、そこを走っている流線型の特急『あじあ号』は有名であった。『あじあ号』の車両は、全車両エアコン付きだったというから驚く。『あじあ号』の走る区間の沿線の主な都市は、日本人だけによる街をつくり、日本人だけの幼稚園と小学校があった。
私が関原幼稚園に入ったのは昭和十六年で、その年の十二月八日に、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争が始まった。そのころ、家に来た客が、「いよいよやりましたね。これで日本の領土がもっと広くなれば、ますます豊かになるでしょうなぁ」と父と話し合っていたが、私には何の事だか分からなかった。そのころ冬休みで東京の大学から帰省していた近所の家の学生が、「日本は馬鹿ですよ。あんなに大きなアメリカと戦って勝つわけがないでしょうよ。僕は戦争には反対ですよ!」と父母に話していたのを聞いた。その学生さんは、私をとてもかわいがってくれたし、よく遊んでくれていたので大好きだった。ところがそんな話をしていた数日後に、戦闘帽をかぶった人が我が家に来て、「あの学生がどんなことを話していたか」とか、「彼は、赤だから注意するように」などと言って帰って行った。母は、「赤は恐いというけれども、あの学生さんは本当に良い人だったね」と話していた。その後、その学生さんは行方が分からなくなり、我が家にも来ることはなかった。
昭和十七年の四月には小学校二年生になったが、その前年から小学校は国民学校と呼び名が変わっていた。入学してすぐに、「元気で勉強、嬉しいな。国民学校一年生⊥という内容の唱歌を習った。国語の教科書の最初は「アカィ、アカィ、アサヒ、アサヒ、コマイヌサン、アァ、コマイヌサン、ウン」ですぐに覚えて暗唱して両親を喜ばせた。
当時の国民学校にはどこも、奉安殿と言う神社を小さくしたような拝殿があって、朝登校して教室に入る前に、必ずそこで最敬礼をしてからでないと教室に入ることを許されなかった。私の教室は、奉安殿とは逆の方向にあって、拝礼してから教室に行くと三分ほど余計に時間がかかった。
ある日、時間ぎりぎりに登校した時、既に始業ベルが鳴り終わっていて、奉安殿に寄ると絶対に間に合わないと思ったが、必死に走って奉安殿に向かい拝礼してから教室に行った。教室に着いたら、案の定授業が始まっていて、私は遅刻の罰として廊下に立たされた。常月頃先生からは「拝礼をしなかった者は神様が見ていて、きっとばちが当たる」と言われていたので、私は奉安殿に行かずにばちが当たることを思えば、ここで立たされた方がいいやと考えて、一人で満足したこともある。