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38度線を越えた! その7 青木 輝

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通常 38度線を越えた! その7 青木 輝

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/12/1 9:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集
 
 収容所での生活が一年ほど続いた昭和二十一年の秋になって、何の用も成さない家族は日本に帰すという話になった。

 四十組の家族は、ソ連軍の将校と軍服を着た女のドクターに付き添われて、シベリア鉄道を今度は客車に乗せられて東に向かった。車中では、ソ連軍の将校とも打ち解けていた。同じシベリア鉄道でも、来るときの貨物列車に比べると、何と快適な旅であろうか。それでもハバロフスクを経由して終点のウラジオストックに着いたのは四日目で、しかも真夜中だった。電気もついていないところを、ぞろぞろと歩いてポセット湾に着いたときには、皆喉が渇ききっていて、小さな池の水をすくって飲んだ。夜が白々と明けてきたころ、一人の女の子が池から汲んできたコップを見て「キャー!」と奇声を発した。コップの中には、ぼうふらのような虫がいっぱい泳いでいた。皆顔を見合わせたが、後の祭りであった。

 そのうちにトラックが迎えに来て、行き先も分からず乗せられ何時間か揺られているうちに、行き違う人の顔や姿が変わってきた。朝鮮に入ったようだった。夕暮れ近くになって降ろされた所は「朝鮮の東海岸寄りの都市、成興(カンコウ)の駅前であった。付き添ってきたソ連軍の将校と女性ドクターは、すぐに戻ってくると言ってどこかに行ってしまった。しかし何時間経っても戻ってこない。辺りが暗くなってきたころ、日本人援護会の責任者という人が現れて、「皆さんは、ソ連にだまされてここに置き去りにされたんですよ」と言われて、皆は顔を見合わせた。まさかと思ったが、二人はとうとう戻って来なかった。その援護会の人の話によると、「ここは北朝鮮なので、三十八度線を越えてアメリカ軍占領地に入らなければ、日本には帰れない」ということだった。そして日本に帰る手段としては、「やみ船」といって法外なお金を払って漁船を雇い、それでとにかく三十八度線を海から越えるしか方法はないということだった。当時のお金で、一人当たり五百円はかかるとの話であった。「さあ、お金作りだ」と皆一生懸命になった。母や姉たちは、ソ連軍将校の家に行って賄い婦をしたり子守りをしたりして、必死になって働き、お金を作った。

 ある日、Ⅹデー(密航決行の日) が告げられた。その日は翌日であった。
                                     
 当日の未明、準備していた他の引揚者と共にひそかに成興を出発して、港町元山(ゲンザン)に集まった。そこには、やみ契約をした北朝鮮の漁船三隻が待っていた。小さな漁船なので、一隻に五十人ぐらい乗るといっぱいである。日の出前に出港した三隻の密航船は、一路南朝鮮に向かって航行した。元山から三十八度線を越えるには、船で約四時間はかかると聞いていたが、その四時間たったところで、船頭は突然エンジンを止めてしまった。アメリカ軍占領地の様子を見ているのだと言う。しかし、二日経っても三日経っても船を動かそうとしない。食べ物はおろか、飲み水もなくなってしまった。私はもう耐えられなくなっていて、寝るたびにアイスキャンデーの夢を見た。

 船頭は、海岸に人影が見えるので船を着けるわけにはいかないと言う。そして、バケツ一杯の飲み水を五百円で売りつけた。皆欲しがっていたので、なけなしのお金を出して買った。五十人で分けると一人コップ半分にしかならないが、こんなにおいしい水を飲んだのは生まれて初めてだった。五十歳を過ぎていた母は、自分の分も私にくれた。しかし、母はだんだんと衰弱していくようだった。そんな母を見ているうちに、私は自然に涙があふれてきた。そばにいた姉たちが「どうしたの?」と聞くので、「お母さんがかわいそう」と言うと、三人の姉たちも両手で顔を覆いながら声をあげて泣き出した。

 船が元山港を出てから一週間目に、援護会の人が「このままでは我々は死んでしまう。どこでもよいから船を着けてくれ」と言うと、船頭は「アメリカ側にやっと人影が無くなった」と言って、夜中になって浜のような所に船を着けた。私たちは、これで日本に帰れるとばかりに我先に降り立ち、船も猛スピードを出して逃げるようにして去って行った。アメリカ軍の占領地に入ったという安心感で、一週間の船旅の疲れが出て、その場で休んでいた。

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