38度線を越えた! その4 青木 輝
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38度線を越えた! 青木 輝 (編集者, 2010/11/25 8:24)
- 38度線を越えた! その2 青木 輝 (編集者, 2010/11/26 8:17)
- 38度線を越えた! その3 青木 輝 (編集者, 2010/11/27 8:35)
- 38度線を越えた! その4 青木 輝 (編集者, 2010/11/28 9:19)
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- 38度線を越えた! その8 青木 輝 (編集者, 2010/12/2 8:44)
- 38度線を越えた! その9 青木 輝 (編集者, 2010/12/3 8:22)
編集者
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戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集
当時、日本人が多く在住している主な都市には、日本軍の守備隊が駐屯していて、在住邦人も安心して生活できた。開原には騎兵隊が駐屯していて、独身の将校は在住邦人の家に下宿をしていた。私の家には、背が高く物静かな松尾という少尉が投宿していた。夕方になると、少尉の当番兵が馬の手綱を引き、少尉は馬にまたがって帰ってくる。私は、松尾少尉の姿が堂々としていたので憧れていた。三女の永子姉は、そのころ東京の女子大を卒業して家にいたが、松尾少尉と婚約したことは私は長い間知らなかった。
国民学校四年生になったのは、昭和二十年四月であった。日本の戦況が良かったころのラジオニュースは、冒頭に軍艦マーチを流し、それから敵機何機撃墜、敵艦何隻撃沈というニュースが放送されていたが、昭和二十年になると戦況は一段と悪化し、ラジオニュースの冒頭は『海ゆかば』になった。
昭和二十年の八月十五日、私は夏休みの日課であった学校のプールに泳ぎに行こうとすると、母から今日は大事な放送があるから家にいなさいと言われて、出掛けるのをやめた。ラジオの前には近所の人も集まってきて、皆は正座をして聞いた。
それは、天皇陛下の敗戦を知らせる玉音放送であった。難かしい言葉であったので、よくは分からなかったが、誰かが「日本は戦争に負けたようだ。私たちはこれからどうなるのでしょう」と、目を赤くして言っていた。
そのころ父は、支店長をしていた開原の銀行を定年で辞め、以前住んでいた鞍山の小さな銀行の頭取となって、単身で鞍山で生活をしていた。二番目の姉は朝鮮に駐屯している軍人に嫁ぎ、家には夫が台湾に出征中の長姉智鋭子、開原騎兵隊から公主嶺(コウシユレイ)の航空隊に転じた松尾少尉と婚約中の永子姉、十七歳のかおる姉、それに母、末っ子の私の五人がいた。まだ子供である私以外は全部女であった。父や次姉とは、もはや連絡はとれない。そのうちに、各地で中国人による暴動が起きてきた。母は、悶々として毎日を過ごしていた。
そんな日が続いていたある日、松尾少尉が突然に軍服姿で現れた。松尾少尉に「ここは暴動で危ないから公主嶺に来なさい」と言われて、家族は当座必要な衣類だけを詰め込んだリュックサックを背負い、全財産を置き去りにして、長年住み慣れた我が家を後にした。将校の引率のおかげで、何とか汽車に乗れて北に向かった。走ること四時間、私にとっては恐かった思い出の残るあの四平街を通って、公主嶺に着いた。私たちはすぐにその足で軍の官舎に入ったが、官舎は全員が既に避難していて、だれも居なかった。松尾少尉は軍に連絡をとって、夕方までには迎えに来ると言って出て行った。官舎の周辺は静まり返っていて人影もない。中国人からの略奪を恐れ、暗くなっても電気をつけなかったので一層寂しく、恐怖を感じた。私たち一家五人は息を潜めて、松尾少尉の迎えに来るのをじりじりしながら待っていた。そのときである。庭の方で木の枝を刃物で切るような、「ばきっ、ばさっ」という音に気づいた。私は、姉たちの止める手を振りきってカーテンの隙間から外をのぞいて、息をのんだ。
三人のソ連兵が銃を肩に掛け、サーベルのような刀で生け垣を切り倒しながら庭に入ってきた。
「お母さん、恐い!」と言って、私も姉たちも母にしがみつき、ぶるぶると震えていた。荒々しい足音が玄関の方に向かうなり、靴で玄関のドアを蹴って開けたような「どかん」という音がして、三人のソ連兵がどやどやと土足のまま部屋に入ってきた。手にはむき出しの刀を持っている。恐怖に満ちた私たちの顔を見て、ソ連兵もびっくりしたようだった。部屋の中を一通り物色した後、一人のソ連兵が棚に置いてあったカメラを見付けて手に取って眺めていたが、扱い方を知らないのかレンズの中を盛んにのぞいていたが、何も見えないのでポイと放り投げていた。その時、家の前に馬車が止まった。
松尾さんが迎えに来たのだった。三人のソ連兵は、突然日本軍の将校が入ってきたのでびっくりしていたが、松尾さんはわざと優しい顔をして「ニェット、ニェット」と言って手を横に振っていた。敗戦国といっても、まだ軍服を着ている日本軍の将校には、ある種の威圧感があったのだろうか。あるいはソ連兵としても、これ以上、事を荒立てたくないと思ったのか、何やら声高にしゃべりながら出て行った。私たちは、一斉に大きなため息をついた。軍服姿の松尾さんが救世主のように見えた。恐ろしかった話をする暇もなく急いで馬車に乗って、松尾さんが御者となって鞭を振り振り猛スピードで走った。途中で中国人の子供に石を投げられたが、無事に駐屯地の中に入った。そこには既に、四十組ほどの将校の家族が避難していて、私たちもそこに合流した。数日後、その部隊全員が移動することとなったが、私たち家族をどうするかが問題となった。しかし、軍の関係者や家族の代表による折衝によって、ソ連軍側の許可が得られて、行動を共にすることができた。だが、どこに行くのか目的地を知る者は、だれ一人としていなかった。兵隊の隊列との問に挟まれて、家族集団は黙々と歩いた。