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38度線を越えた! その5 青木 輝

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通常 38度線を越えた! その5 青木 輝

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/29 8:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集

 公主嶺の駅には貸物列車が用意されていたが、車両の真ん中のガラガラと開く引き戸のみで、窓はなかった。中は入口を除いて上下二段になっていて、横になるだけで立つことはできなかった。兵隊たちは口々に「もしも、南に向かって走れば日本に帰れるかもしれないが、反対に北だったらソ連かな?」と話し合っていた。そうするうちに、ガチャンといって列車は動き出した。南に向かっている。「おい! 南に向かっているぞ、日本に帰れるぞ!」と誰かが言った。皆の顔が、ぱっと明るくなった。

 しばらく走ると、再び列車はガチャンといって止まった。そしてまた走り出した。不安そうな兵隊の顔をよそに、今度は北へと向かって本格的に走り出した。南に向かっていると考えたのは、路線変更のためだったらしい。
            
 あきらめの気持ちで乗っている私たちの貨物列車は、数日後に満州の北の果て、黒河(コクガ)に着いた。黒河の街中の家々には、多くの弾痕があちこちに残っていて、激戦のあとをしのばせていた。私たちは、すぐにソ連と満州の国境である大河、黒竜江を大きなフェリーで渡ることになったが、こんな大きな船が川を渡るなど信じられなかった。川の向こう岸はソ連領だが、遠くて見えない。一時間以上もかかったろうか、着いた所はソ連のブラゴエペシチェンスクだった。そこから再び貨物列車に乗せられたが、ここからはシベリア鉄道である。満州の汽車よりもひとまわり大きいが、トイレが無いので、貨車の引き戸を一メートルほど開けて、そこに網を張った。おしりを外に向けて、張った網に背中をもたれ掛けて用を足していた。しかし、この動作はスリルを通り越して命懸けであった。中にはカーテンを掛けていたので、無事に用を足しているのかどうか不安で、お互いに声を掛け合っていた。姉が用を足しているときに、ソ連の子供から石を投げられておしりに当たり、あざができたと大騒ぎをしたこともあった。

 シベリア鉄道で西に向かっている私たちは、落葉松林に差し掛かると何日も松林を左側に見て走り、そのうちにバイカル湖に差し掛かると右側に湖を見ながら走っていた。シベリアの広大さに目を見張った。道中では、兵隊さんたちが歌を歌ったり、落語で笑わせたりしていた。しかしその反面、笑えば笑うほどお腹が空いてくるので私は母に、我慢できずに「お腹が空いたよ⊥と言ったが「ここには何も無いんだから、もう少し待ちなさい」と言われた。そのうちにバイカル湖のほとりに列車が止まった。後の車両から伝令がきて「携帯食糧甲」と伝わった。

 軍隊では携帯食糧甲とはご飯のことで、乙といえば乾パンのことであることを知った。皆は「さぁ、飯だ、飯だ」と元気づいてきた。ちゃんと炊事当番がいて、バイカル湖の水を汲み上げてきて、手際良く飯盒炊飯を始めた。しかし、皆に配分されたご飯の量は少なかった。油紙のようなものの上に一握だった。私の前にきた当番の兵隊さんは、私に余分にご飯をくれた。母が「良いんですか?」と言ったら、その兵隊さんは「実は、私にも国にこの子と同じぐらいの息子がいるんですよ。今頃腹をへらしているんじゃないかと思ってね。坊や、いいから食べや」と言った。母は目頭を押さえていた。

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