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38度線を越えた! その3 青木 輝

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通常 38度線を越えた! その3 青木 輝

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/27 8:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集


 国民学校の二年生になり、汽車が好きだった私は日曜日になると、一人で駅に行っては汽車を眺めていたが、だんだんと見るだけでは満足しなくなり、乗ってみたくなってきた。ある日曜日、両親に内緒で駅に行き、改札口のすき間からするりとくぐり抜けて、プラットホームに停車していた客車に飛び乗った。小学二年生が一人だけで乗る汽車の旅は、スリル満点であった。たちまちいたずら無賃乗車の虜になってしまった。それでもあまり長く乗っていると恐いので、次の停車駅で降り、反対側のホームで停車している汽車に乗って開原駅に戻ってきたが、とにかくこの日は大成功であった。

 これに味をしめた私は、両親や姉弟や友達にも言わずに、日曜日になると決まって駅に向かって走
った。今まで何度か成功しているので気が大きくなり、今度は降りる駅を少し延ばしてみようと思っていた。

 ある日曜日、朝早くから家を出て駅に行った。この日はいつもよりきれいな汽車が停車していたので、嬉しくなって客車を一両ずつ歩いて回り、車内をのぞいた。とてもきれいだった。そのうちにいっもの風景、いつも降りる駅が近づいてきた。今日はこの駅では降りないぞと腹を決めていたのだが、乗っている汽車はその駅には停車せずに、スピードを上げて通り過ぎてしまった。そのままスピードを出して、次の駅も、またその次の駅も停車しなかった。急行ということが分からなかったのである。満州は広いだけあって、鉄道の駅と駅との間が長くて、普通列車でも三十分ぐらいは走り続ける。まして急行列車となると一時間以上も止まらないのは当たり前のことである。さすがの私も、だんだんと不安になってきた。ともかく早くどこかに停車してくれることを祈っていた。二時間ぐらいは走ったであろうか、やつと大きな駅に停車した。そこは、開原と新京とのほぼ中間の四平街(シヘイガイ)であった。私は何も考えることなくすぐに飛び降りて、隣のホームに停車している列車に向かって走った。いつものように機関車が関原の方向に向いていることを確かめてから乗り込んだ。ほどなく列車は出発した。これで開原に戻れると思い、ほっとした。おとなしくじっとしていれば開原に着くと安心していた。                            
 しかし、落ち着いてから車内をよく見ると、今乗ってきた客車に比べ、車内は暗くて薄汚れている。しかも乗っている客はほとんどが中国人で、満員だった。中国人は話好きで車内はにぎやかだったが、話している内容は全然分からない。一つだけ空いていた席にそっと座り、しばらくは黙って窓から外を眺めていた。さっきの列車に比べてスピードが出ていないことに気がついた。と同時に車外の風景も違うような気がしてきた。時間が経つにしたがって、その様子がますます違ってくるようだった。だんだんと民家が少なくなってきて、私の家の日本間に飾ってある掛け軸の水墨画のような風景が現れてきた。そのとき私は、これは開原の方向ではなく別の方向に行く汽車に乗ってしまったのだと気がついた。私は停車した駅で降りようと思ったが、そこは無人駅のようで、今降りると水墨画の風景の中にただ一人取り残されることになるので、とても降りる気にはなれなかった。「どうしょう」と思うと悲しくなって自然に涙が頬を伝わってきた。

 前の席に座っていた中国人の年寄りが、心配そうな顔をして話しかけてきたが、言葉が全然分からない。そのうちに、三つばかり先の席にいた体の大きな男の人が私に手招きして、「ショーハイ、ライラ」と言っているようだったので見ると、青っぽい中国服に丸い中国帽子、八の字に生えた口髭、典型的な中国人の金持ちのように見える人だった。彼は私を自分の隣に座らせると、鞄の中から馬の写真や象の写真を出して見せてくれた。そして馬に乗るような格好をして、自分と一緒に来れば馬に乗せてやるということを言っていた。その時、以前母が私に何度も何度も言っていた言葉を思い出した。「日本人街は安全だけど、少し離れると、まだ日本人の子供をさらってサーカスに売ったりするから、一人で遠くに行ってはいけないよ」ということだった。私はその言葉を思い出すと、すぐに逃げようとした。するとその中国人は、私の腕をつかんで恐い顔になった。私は思いきり大きな声を出して泣いた。周りの乗客が、その泣き声にびっくりしてこちらを向いたので、その男は私の腕を放した。私は泣きながら次の客車まで逃げた。その客車は二等車だった。

 私は、日本人がいて気付いてくれないかと思って、周りに聞こえるように大きな声で泣きながら、二等車の中を行ったり来たりした。その時、片言の日本語で「坊や! どうしたの?」と声を掛けてくれた人がいた。その人は背広を着ていて、医者のようだった。私は、何かしら久し振りに日本語を聞いたような気持ちになった。私はその人に、初めて一人で汽車に乗ってしまったが、開原に帰りたいということを告白した。その人は、この汽車は路線が違うから開原には行かないし、一人では危ないからと言って、次に停車した駅で中国人の駅員に訳を話して私を預けてくれた。その駅員は、次に来た四平街行きの汽車の車掌に事情を説明して頼んでくれて、やっとのことで四平街に到着した。四平街駅で日本人の駅員に引き渡された。

 四平街から乗った汽車は、急行『はと』で、その展望車の特に大きなソファーに座らせてもらった。何人かの善意のある人の手を経ているうちに、私がいたずらで乗った汽車の旅が、家族旅行中に両親からはぐれてしまった「おぼっちゃん」になっていたようだった。この車両には、女優さんみたいなきれいな人や、立派な軍人さんなどが座っていた。開原に近づくにしたがって、丁重に扱われ、お菓子の入ったかわいらしい箱をもらった。懐かしい開原駅に着いた。車掌が改札口まで見送ってくれた。

 朝早く家を出てきたのに、満州特有の大きな赤い夕日は、とっくに地平線に沈んでいた。私は幸運にも、無事に両親のもとに戻ることができた。もし支線に乗ってそのまま奥地に行ってしまうか、あの見知らぬ中国人にどこかに連れて行かれていたら、今頃はどうなっていたことだろうか、私の運命は大きく変わっていたのかもしれない。

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