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38度線を越えた! その6 青木 輝

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通常 38度線を越えた! その6 青木 輝

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/30 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集
 
 シベリア鉄道に一週間は乗っていたろうか、私たちはバイカル湖のほとりのイルクーツクで降ろされて、日本軍を収容する捕虜収容所に入れられた。ここには千人ぐらいの日本兵が入れられていた。兵舎はすべて二段式の木造寝台だったが、私たち家族は多少優遇されて、広い部屋に病院のようなベッドが置いてあった。収容所の周りには鉄条網が張り巡らされ、監視哨には自動小銃を構えたソ連兵が、四六時中見張りをしていた。冒険好きな私は、ここでも警戒兵と仲良くなり、監視暗に登らせてもらったりした。収容所の便所がすごかった。捕虜となった兵隊たちが、横に長い穴を掘り縦に板を並べて、むしろで囲っただけである。厳冬には氷点下二十五度以下になり、用を足すとそれがピラミッドのように積み重なってしまい、板と板の間から竹の子のようになって出てくるのだ。兵隊さんは、汲み取りならぬ鶴喋(つるはし)で、かっちん、かっちんと、便でできた塔を削ってトラックに乗せて捨てに行くのだった。

 収容所の食事は、黒パンと燕麦(馬のえさと言っていた)で、最初は酸っぱくて食べられたものではなかったが、何日か食べているうちに慣れてしまった。
 捕虜の兵隊さんは、イルクーツクの飛行場建設のために出て行き、夕方になって収容所に戻って来た。その間、家族は収容所の掃除をしたり、ソ連兵の靴を磨いたりしていた。
 食事の黒パンは、ソ連人の運転する車に日本兵三人が運搬人夫として乗り、毎日街へ取りに行っていた。ある日、私は仲良しの兵隊さんに誘われて、荷台のパンを入れる箱の中に隠れて収容所を出た。

 初めて歩くイルクーツクの街で、ソ連の子供たちは石蹴りのような遊びをしていた。窓越しに見える家の中には、スターリンの肖像画が飾ってあったが、テーブル以外の調度品は何もないようだった。パンがトラックに積み込まれて、帰ることになった。収容所の入口までは何事もなかったが、入口に来ると、ソ連兵の門衛が何かしら恐い顔をしてトラックを入れようとしない。出て行った時よりも一人多いというのだった。私にどこから来たのかと言っているようだったが、私の説明は受け付けないその門衛は、私をつかんでトラックから引きずり降ろした。トラックは中に入り、私は収容所の外に一人取り残された。収容所の周囲には人家がなく、辺りは暗くなって冷たい風が吹いてきた。そのうちに、どこからともなく白い恐そうな犬が三匹、私を取り巻いた。息もできないほど恐ろしい。収容所の鉄条網の扉は堅く閉まっている。声を出すと犬が襲いかかってきそうで、ただ震えているばかりで涙がぽろぽろと流れてきた。

 その時、門衛の詰所を見ると、母が通訳と一緒にぺこぺこ頭を下げているのが見えた。門衛とても、私が収容所を出たのを見過ごした弱みがあったのだろう。すぐに門を開けて、入れと合図をした。私は犬のことも忘れて、母の所に飛んでいって抱きついて、おいおいと泣いた。

 収容所では月に一度、演芸会があった。楽団もあったが、ドラム缶を輪切りにしたドラムとか、鍋のシンバル、それにハーモニカぐらいである。演芸会の最後に、皆が立ち上がって肩を組んで必ず歌う歌があった。「帰るまで涙なんかは出しゃしない、笑って過ごそよ今日一日、イルクーツク星の夜空を流れ来る、春のメロディーは、ト、ドントドントドント流れ来る」であった。戦前に流行った流行歌の替え歌であったが、皆涙を流しながら歌っていた。今考えてみると、戦後ヒットした「異国の丘」 のようなものだ。

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