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38度線を越えた! その8 青木 輝

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通常 38度線を越えた! その8 青木 輝

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/12/2 8:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集
 
 突然に「ダダダダ!」と機関銃のような音が響いた。驚いて辺りを見ると、丘の上から銃を構えたソ連兵が駆け下りてくるではないか。何ということなのか。ここはまだ三十八度線より北だったのだ。船頭がアメリカ側に船を着けるのが怖くなって、私たちをだまして三十八度線より数キロメートルも北に着けてしまったのだ。私たちは、ここでソ連兵に撃たれるかもしれないと震えていると、援護会の代表の人が「皆さん、腕時計を出してください!」と言った。十個ぐらいの腕時計が集まった。長姉は夫からもらった南京虫という高級時計を差し出した。

 代表が集まった時計をソ連兵に渡すと、ソ連兵は銃を置いて自分の左腕にずらっとはめて、得意そうに口笛を吹きながら去って行った。かたずをのんで見守っていた私たちは、腰が抜けてしばらくは動けなかった。でもこのままここにいては危険なので、勇気を奮って、ここを出発して三十八度線を目指すことにした。夜の大行軍が始まったのである。

 母は「私はもう駄目だから、私を置いて先に行ってちょうだい」と言ったが、「何を言っているのよ、お母さん」と姉たちが母の体を支えて歩き出した。私は母の分で二倍になった荷物を担いで、必死になって歩いた。山の中腹は崖道だった。私の前を歩いていた赤ん坊を背負った女の人が、持ちきれなくなった荷物を崖から捨てた。荷物はごろごろと転がり落ちて行った。誰もしゃべる者はいない。皆はただ黙々と歩いた。そのうちにあちらこちらで、耐えきれなくなって荷物を捨て始めた。荷物が崖下に転がり落ちるのが見えた。多くの人が道端に座り込んでいた。しかし、どこからか機関銃の音も聞こえてきて、のんびり休んでいるわけにもいかない。お互いに励まし合って歩き出したが、放心状態だった。

 そんなときだった。前の方から「三十八度線が見えたぞ!」 という声が聞こえてきた。ぐったりと放心状態だった人々が、二斉に立ち上がった。もう速足になっている。「お母さん! 三十八度線だって。もう少しよ」と、姉二人に支えられたもんぺ姿も痛々しい母は、無言でうなずいていた。私には何か恐ろしい物に思えていたが、そこには白いペンキで「38」と書かれたベニヤ板が杭に釘打ちされていて、草の生えている地面には、石灰で消えそうな線が引かれているだけだった。しかし、大人たちは「世紀の瞬間だ」などと言って、「どっこいしょ」と白線をまたいでいた。その一本の細い線が、四年後のあの悲惨な戦争につながっていくことなど、誰も想像しなかった。今度こそ本当に越えたのだ。マラソンの最終ゴールのように、先に越えた人たちが、後から越えて来る人たちを誰ともなく迎えていた。ラインを越えてから再び列を作って歩き始めた。歩いているうちに、白い蒲鉾型の家と、ポールにはためく星条旗とが目に入った。背の高いアメリカ兵に出会った時にはびっくりしたが、手を広げて温かく迎えてくれた。アメリカ製のコンビーフの缶詰を初めて食べ、世の中にこんなおいしい物があったのかと思った。ここは、三十八度線の街、注文津(チュウブンシン)であった。

 港町であるこの一角に引揚者の収容所があり、既に千人ぐらいの人が引揚船を待っていた。私たちが収容所に入って二日目の朝、「万歳、万歳」という歓声が聞こえてきた。私は急いで外に出てみると、海岸に大勢の人が並んで沖の方を見ていた。私もその方角を見て驚いた。大きな日本の軍艦が日の丸の旗を掲げて、威風堂々と入港してきたのだ。敗戦から一年この方、日本軍の話はおろか日の丸を見ることさえなかった。その私たちにとってこの風景は、もう無くなっているかもしれない日本という国が、平和の中にいまだに息づいていたという事実を目の当たりにしたという感激でいっぱいとなった。

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