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日ソ海空戦秘録 菊池金雄 3

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通常 日ソ海空戦秘録 菊池金雄 3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/26 8:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 西船長・小川通信士緊急入院

 船橋で陣頭指揮中の西豊船長(当時六十歳)は激しい空爆を避けるため船橋の下部通路で船員数人と避難していたとき、後部から飛来の弾片で頚部を負傷し「駄目だ 駄目だ」と叫びながら急遽、埠頭近傍の満鉄病院に搬送されるなど、自船被弾が必死となったので、船室で病臥中の小川次席通信士も急遽、小野三席通信士が付き添って同病院に緊急入院させ、安全策をとった。

 彼は門司から羅津に回航途次、喀血したため船務を免除して自室で静養させ、帰国次第交代することになっていた。(発病時、同室の小野通信士が洗面器で喀血を受たり、汚れた衣服を洗う等、甲斐甲斐しく介護したことを最近になって聞き取った)また、当時本船には船医不在であった。

 敵機編隊の波状爆撃は夜間も続いたので、本船の各科長が船長不在後の保船策を協議し、各科長・警戒隊・保船要員以外の乗組員を陸上に退避させ、犠牲者の抑止策を図った。ところが埠頭付近の防空壕に避難した乗組員の証言によると、暁部隊の兵員がいちはやく防空壕に避難していて、空爆に曝されている商船隊に対する緊急避難措置放置と、戦意欠如に唖然たるものがあったという。

 名和陸軍少尉・野口甲板員の証言 午後八時頃の空爆のときサーチライトが敵機を補足。豆粒のような爆弾がパラパラと本船方向に落下してきた。その一発が目前の岸壁倉庫に命中、大音と同時に甲板に火の粉が降りそそぎ、倉庫保管の大豆が火炎に包まれ猛火となり、向日丸の甲板部員が船から懸命に放水して鎮火させた。なお当日の本船警戒隊の戦果は敵機一機撃墜であった。

 須永機関員の証言 機関部員への避難伝達が遅れたため、何処の防空壕も兵隊が満員で断られ、止むを得ず同僚と二人で防空壕より上方の山の中腹で野宿を余儀なくし、眼下の悲惨な埠頭の空爆を望見しながら仮眠。翌朝、海軍兵の呼集をうけ、タラップ(舷梯)揚収寸前の本船に戻った。

 羅津脱出

 一夜、幸い致命的な被弾もなく、無線設備も正常で、十日早朝になって、やっと軍から南鮮への避航指令があり、急遽、田中晴一 一等航海士が入院中の西船長の復船を求め、頸部を応急治療した船長が陣頭指揮をとり、午前六時ころ全員在船を確認のうえ離岸作業を開始するも、船尾側の沈没船が邪魔で難儀したが、老練な西船長は見事な後進操作で離岸に成功。多数の沈没船をかきわけ微速で港外へ向かう。

 須永機関員の証言 その直後・・・直近の船が触雷(船名不詳)・・・本船はその横をスローで過ぎるとき、該船の船員達が手旗信号または大声で「貴船の安全航海を祈る」と涙して手を振り・・・我々も「皆さん無事帰られんことを祈る」と答えた。

 七時半頃やっと港口にさしかかったとき、三機編隊のソ連機が急降下して本船に爆弾を投下。向日丸の反撃を恐れ、すぐ港外に飛び去った。この爆撃現場を見ていた 那和陸軍少尉の証言「着弾地点は本船より四~五十メートル前方に集中したのは、敵機は船速を誤算したからと思う。本船はまだ微速だったのが幸いしたようだった。」

 彼は官立無線校(現電気通信大学)出の予備士官で、暁部隊から通信連絡将校として派遣されていたが、小川次席通士が入院のため弱体した通信科を自ら支援。急迫場面で的確に即応した決断を評価したい。同少尉の後日談・・・若し上官に知れたら懲罰だった、とのこと。

 かくして本船は首尾よく空爆や触雷にも遭わず、濛々たる火炎の羅津港を後にした。港外には味方艦船は見えず、敵潜の魚雷回避のため、之字運動しながら極力接岸コースをとり、ひたすら南鮮へと全速で逃れた。

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