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母との往復書簡 <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/11/5 17:32
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
  
もう60年も前の話である。 私は当時、中学1年修了時、満13年と8ヶ月で陸軍幼年学校《*1》に入隊した。 まさに少年兵である。 陸幼《=陸軍幼年学校》では、出来るだけ頻繁《ひんぱん》にふるさとの両親に手紙を書くように指導された。 私は、陸幼に在籍した4ヶ月と15日の間に、両親宛《あて》だけで14枚も出している。 両親はそのハガキを全《すべ》て大事に保管してくれていた。 従って、今も私の手元に残っている。 母からは5通の封書が来た。 それを私は大事に保管している。 そのうちの一部を、ありのままに、此処《ここ》でご披露《ひろう》したい、と思う。 


家へのハガキ
昭和20年4月25日

父上・母上お元気でありますか? お手紙がないので心配しております。
もう、初夏の気候となりました。 報国神社の境内では「せみ」が、じんじんとやかましく鳴いております。 
昨日は「かんしん寺」から「楠ぴあん」へと行軍をなし、大楠公《*2》の忠誠の偉大《いだい》なるに感心すると共に、又、七生報国《しちしょうほうこく*3》の精神を磨きました。 
今、数学では方程式を習って居りますが、何も判らず大困難をしておりますーーー自習の時など泣きたくなることもあります・・・しかし頑張ります。
この三十日には帰るかもしれませんから、お楽しみに。 ではお体を大切に。 さよなら

大阪陸軍幼年学校 第四十九期生 第六訓育班 第三寝室                   落合英夫

《*1》陸軍幼年学校=陸軍士官学校をめざす子供に予備教育をする学校
《*2》大楠公   =楠正成《くすのきまさしげ》南北朝時代の武将、忠臣として名高い1294-1336)
《*3》七生報国  =楠正成の子、正行《まさつら》が戦死に当たって残した言葉(七度生まれ変わって国に報いよう)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

母からの手紙
宛先 大阪府南河内郡長野町
大阪陸軍幼年学校第四十九期生
   第六訓育班第三寝室
      落合英夫 殿           

五月四日
落合加代子

この間は無事に帰ったことと思います。 あの時お前が京都駅のかいだんをのぼっていくのを見落としたので、まっすぐに行ってしまったのではないかと、私は心配して貨物置き場の裏へまわったりして、プラットホームを見渡しましたが、とうとうすがたを見る事が出来ませんでした。 けれどもきっと無事に帰校したことと信じて居ります。

今度はほんとに立派な姿を見て、私もお父さんも真実から嬉しく、そして軍人の母となった誇りをつくづく感じました。
お前と同じような年頃の学生さんは、学徒《がくと*1》として勉強も休んで働いているのですのに、あなた方は何不自由なく勉強さして戴くなんて、只只《ただただ》もう陛下《天皇》の御稜威《みいつ=ご威光》のしからしむ《=による》おかげです。 何卒《なにとぞ》この御国の御恩を忘れず、お前の本分は 学生としての修学にあるのですから、しっかりやり通して下さいますことを、母はひたすらに御願いいたします。 尚また修学院学校、一中《京都府立第一中学校》の名を上げなくてはなりませんよ。 帰校の途中、お目にかかった青野先生も、ほんとうに嬉しそうでしたね。

明日は男の方の御節句《*2》でもありまして、鷺森神社《さぎのもりじんじゃ》の御祭りです。 床の間《とこのま=和室の正面を一段高くして掛け軸を掛けたり花を生けたりして飾る》に軍刀を飾ってお前の武運を祈りお国の必勝を祈りました。 よく警報《空襲警報・警戒警報》が出ますが、何事にもよく気を付けて、身体は決して害《そこ》ねてはいけませんよ。 この間帰ったときにお前が植えた畠の玉ねぎ、とても大きくなったので、見てもらうつもりでしたのに、わずかの時間でしたから、案内することが出来ませんでしたね。

また、お父さんも私も、お前が数学に困っているよしの話をきいて、ほんとうに心配です。はじめはなんといっても、二年生の方達のようには行きませんのですから、お母さんがいつも申すとおり「聞くは一時の恥聞かざるは末代《まつだい》の恥」という言葉があります通り、何卒《なにとぞ》どしどし先輩の方々にたづねなさいよ。
私も蔭ながら六勝神社にお祈りし、また兄さんのみたまにも御願いしています。 決して決してわからないからといって、嫌気が差してはいけませんよ。 あくまでも奮闘《ふんとう》して兄様の様に頑張ってみてください。 幸いお父さんが来る十三日(日曜日)には大阪方面には御用がありますので、都合をつけてお前の学校へ参ります。 それゆえ自由に外出があっても学校にいて下さい。

そして静かなところでお前にわからないところの数学を教えてやりたいと言ってますから、、たづねておきたい事をしらべておきなさい。
お母さんは当分面会には行かれません。お前の元気な姿を瞼《まぶた》に描《えが》いては私も一生けんめい増産《=農作物の増産》しますよ。
ではこれにて、御機げんよく。   母より

             五月四日
  英夫さんへ


《*1》学徒= 太平洋戦争中、中等学校以上の生徒、学生が学徒動員令により軍需工場や農作業に強制的に従事させられた。
《*2》お節句=端午(たんご)の節句 5月5日は男の子の祝日であった

-----------------------------------------------------------
立志《りっし=志を立てる》して、陸軍幼年学校を受験し、大阪陸軍幼年学校に入隊した、13歳のあどけない少年兵。帰省時、遺影のつ
もりで撮影してもらった。
京都市左京区元田中の有名写真館にて

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/11/8 18:04
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
母との往復書簡 その2です。 ハガキ、手紙とも原文のまま、記載しております。但し、勿論、原文は何れも縦書きです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

家へのハガキ (注 この日はハガキ二枚に続けている。 ちなみにこの時期、ハガキは五銭である)
昭和二十年六月二日

謹啓《きんけい=手紙のはじめの挨拶》
御父上・御母上 御壮健なことと思ひます。 私も入校以来二ヶ月、病というものにかかる事もなく、至極《しごく》元気に毎日を愉快に暮らしております故、御安心下さい。
敵機頻襲《ひんしゅう=たびたび襲う》の今日、京都の防空態勢も、一家の防空態勢《*1》も完璧になった事と思ひ《おもい》ます。
本校に於《お》いても今後の空襲に対して、全校あげて防空作業をなし、又、冬夜袴《ふゆやこ=冬用ズボン》を疎開《そかい=被害を逃れるために安全な場所に移す》させたりして居ります。 又、本校で増産中の農作物は見事に成長して居ります。 秋の大収穫が予想されます。 家の麦ももうすぐ麦刈りだそうですが、みなでどれほど収穫出来ますか。

この間の休養日(二十七日)は、御面会を謝絶《しゃぜつ》致し、誠に相すみません事でありますが、お蔭で戦友と二上山《にじょうざん》に登山し、浩然《こうぜん=精気が満つる》の気を養いました。京都こそ見えませんでしたが、遙《はる》か彼方《かなた》の大阪湾がうっすらと見えました。

今、私達の間では、帰省の事で何やかやと言っておりますが、校長閣下《かっか》の御旨《ぎょし=思し召し》は、一年生だけ帰省出来るそうであります、が戦局の良悪で、どうなるか判りませんから、あてにはしないで下さい。

昨日、B公(注 B29爆撃機《*2》のこと)二・三百機来襲しましたが、京都は大丈夫でありますか。 私達はB公が六機、あざやかに撃墜《げきつい》されるのを見ました。 
本日は体格検査及種痘《しゅとう》・五寸釘(チフス豫防注射)《ごすんくぎ(チフス予防注射)=注射針が太いのでこの名がつけられた》 がありましたが、私は体重は前検査より一.二瓩ふへ《1,2キロ増え》、また胸囲は二.九糎《2,9センチ》、身長も順調にふへ《増え》て居ります。
いよいよ梅雨期に入りました。 父上・母上様どうかくれぐれもお体大切に。
                              敬具《けいぐ=終りのあいさつ》


大阪陸軍幼年学校 第四十九期 第六訓育班 第三寝室 
落合英夫

《*1》 防空態勢=戦争末期になると各家庭で、床下などに防空壕を掘り、焼夷弾落下の時のため
         竹の棒先に荒縄を縛り付けた「火叩き」を用意し、家の外には風呂桶のような
         防火用水にバケツを用意して消火の準備をした。
《*2》 B29 =ボーイング社製の大型長距離爆撃機、日本本土のの空襲に猛威を振るった


大阪陸軍幼年学校 第四十九期 第六訓育班 第三寝室 
落合英夫








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母からの手紙  (わら半紙《=ざら半紙、安価な紙》二枚に 追伸を含めてぎっしりと書いてある。 封筒は手製である。 ちなみにこの時の切手代は十銭である。)
昭和二十年六月十二日

大阪府南河内郡長野町
大阪陸軍幼年学校
第四十九期第六訓育班
落合英夫殿

もう急に夏が訪れた様《よう》です。 昨十日はお父さんが面会に参りましたが、ますます元気な様子を聞き、母もほんとうに嬉しく思っています。 私も一度参りたいのですが、何せ交通が許してくれない《*1》ので、あの日も参れませんでした。 数学の方もよく分かる様になった由、何より嬉しいことです。 何事も研究心が大切ですから、いつも申す様に先輩にはどんどん聞くことです。 そして良い成績を上げて下さい。

農業作業も中々熱心なそうですが、今はどこも自給自足《じきゅうじそく=自分に必要なものは自分で作る》ですから、母も負けずにやっていますよ。 麦も二・三日したら麦刈りします。 
《さて》どの位ありますやら。 麦こがしにしておきましょうね。 今度外にお芋を植えますが去年の事思ひ出します。 お前がずい分深くたがやしてくれましたね。 今年はあの様にこの母がやって見ませう《しょう》。 

それから写真ほんとうになつかしく拝見させていただきました。 あの時に宿屋に一緒の方としては、蔭山様だけ分かりましたが、外の方は一緒には撮れていません様ですね。 皆さまの意気洋々としたお顔、未来の特攻隊《とっこうたい》勇士です。 誠に心強さを覚えました。
注射の後、気を付けてください。 余《あま》り無理せぬように・・・。
《さて》最近は頻々《ひんぴん》として敵機がきます。 十分気を付けて下さいね。 あんな物にむざむざやられはしませんから、母の方のことは安心して下さい。 もう実際、本土も戦場になりましたが、お互いに日本人の誇りを見せてやりませう《しょう》。 篠原の叔母《おば》さんの子供も、しばらく当家にくる様です。 平野の叔母さんからは手紙が来たそうですが、あの叔母さんも余《あま》り淋しい山奥にいったので近頃は郷里がこひしく《こいしく》《な》ったそうです。 清水の孝祐君、今は中学一年生ですから、是非本年は陸幼を受験する様に、お前から進めてあげた手紙を出しておやりなさい。
隣のけんちゃん近頃は修学院校へ通勤しています。 では又、次の便りに致しませう。 くれぐれもからだを気を付けて鍛錬して下さい。
六月十二日
母より
英夫様

今日は昨夜よりしとしと雨降りです。 入梅らしくなりました。 お天気でしたら母達は、今日は農家へ麦かりに行く筈でした。  では さよなら


《*1》交通が許してくれない = 汽車、電車などの切符が手に入らなかった



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/11/9 10:48
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
家へのハガキ その3
毎日の陸幼生活で、特に話題のない時は、「元気です」とだけでも書いて、家宛てにハガキを出すようにと、上官より指導された。 実際そういうことがあっ
た。 以下に7月末から、終戦の日までの3枚のハガキを、原文のまま紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和二十年七月三十日

前略
壮健也《そうけんなり》

戦友皆無事帰校致し候《そうろう》
皆々様の御健康をお祈り致し候

七月三十日
           敬具

(注 陸軍幼年学校では毎日、就寝前に日記を付ける事になっていた。 しかもその日記は、必ず先ず墨を擦《す》り、墨書《ぼくしょ》するのである。 当然私なんかの日記は、従って、金釘調《かなくぎちょう》の連続であった。 が、墨書するということに対して、この時期、抵抗感はなくなっていた。この七月三十日付のハガキは、「壮健也《なり》」をハガキ全面に大きく墨書したものでる。)















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昭和二十年八月四日

拝啓(家庭通信の内容事項をお知らせ下さい)
夏らしき気候と相なりました。 皆々様御健康のことと思ひ《おもい》ます。 
私もあれより元気で愉快にはしてますが、実を言うと未《いま》だあの腹こわしが直らず、今もなほ《なお》継続しており、又この間は私の不注意より左足のひざに釘の突傷を受け、しばし入室(二日)及び練兵休《れんぺいきゅう=訓練を休む》となっている有様で、真に不孝な事ばかりして申分け有りません。 
しかし今はもう足も直り、腹も時々刻々と善進しています。
學校《がっこう》の南瓜《かぼちゃ》もいよいよ収穫期に入り、今迄の収穫より見、七トン位は取れる予定であります。 この間三年生の方が、一つで十瓩《キロ》(三貫)もある南瓜を収穫されたのには、皆驚きました。 家の南瓜もこれに負けぬ様なのを収穫していること思ひます。
本日身体検査あり、私は無念にも又、一.四瓩《キロ》減り入校時より減少という情なき事となりましたーーー。この秋にこそ体位向上、よくよく錬磨《れんま》して必ず立派な成績を治《おさ》める覚悟であります。
では皆々様の御健康を祈ります。

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昭和二十年八月十四日

拝啓
しばし御無沙汰致しました。 もう秋の虫の音を耳にするやうに相成りました。 私もあれから、腹も直り元気に毎日を暮らしています。
《じつ》は毎日の空襲の為、私の楽しみの遊泳、山地訓練もとりやめとなり、十三日には重い荷を背負ひ、この山川清美の地へ疎開してきました。 私達の作った飯をそこらに腰を下して食うこともなかなか愉快でおいしくあります。 又この修学院によく似《に》た地でしばらく暮します。 日本も又、ソ聯《それ
ん=ソビエト社会主義共和国連邦の略》
と戦を開き、正に来るべきものが来、我々の意気は斗牛《とぎゅう=天》をつかんとするものがあります。 
では皆々様の健康を祈ります。

(注 このハガキは八月十四日夜、疎開していた錦川国民学校で書いたものである。が、翌日、八月十五日は早朝より強行軍にて、長野町千代田台の本校に帰り、正午、終戦の詔勅《しょうちょく=天皇が書かれた文書》を拝聴することとなった。 ので遂に投函《とうかん》することなく、復員時、自宅へ持ち帰ったものである。)

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母からの手紙

昭和二十年八月九日
大阪府南河内郡長野町千代田台
大阪陸軍幼年学校 第四十九期第六訓育班
落合英夫 殿

英夫さん まい度おはがき有りがたう  あれからも元気の様子ですが、まだ幾分おなかこわしが、さっぱりしないそうで、こまりますね。 あなたは毎年、夏は夏まけする性質なのですから、一度腹こわしなどすると回復も手間どるのだろうと思ひますが、どうか食物には十分気を付けて、すっかり元通りになるまでは、おなかがすいても減食した方がよいでせう《しょう》。 学校のごはんなど倍以上かんで食べること 尚しばらくの間果物類はやめた方がよいかも知れません。そして直るまでは遠慮なく医務局から薬を頂く様にして、たとへ練兵休となっても早く体をよくした方が得です。 夏から秋にかけては、腸のいたみやすい時ですから、ほんとうに自分の体と思はず《おもわず》、陛下の体と思って大事を取って下さいませ。
釘で傷をしたそうですが、油断は禁物、軍人はあくまでも一寸《ちょっと》の注意もゆるがせにしてはなりません。 母は蔭《かげ》ながらまい日まい日の健全を、神かけて祈っているのです。 そして一人前の将校さんになる日こそ一番の楽しみです。 海洋訓練も有る様、ききましたが腹こはしには水浴はどうでせう《しょう》か、医者によくきいてからにして、自分まかせはつつしんで下さいね。 とにかく此頃は空襲もひんぴんとして有りますので、けがをせぬ様にたのみます。
学校からの通信ぼもまいりまして、早速家庭から返送しておきました。 差《さし》あたり今までの健康状態は甲の部です。 そして性質もけん実にして明朗の方だとの由、結構です。 学課は何と申しても、一年から入ったのですから、此の学期は無理でしたから、国民学校や一中時代の様には行かなかったのは残念ですが、決して悪い方でもなく、中位と思ひますからますます奮励《ふんれい》してください。 きっときっと次の学期では十分取りもどせることと信じています。 一番やはり数学が落ち目でしたから、わからない事は徹底的に人に聞いて、その場限りのことは何より禁物です。 どうしても二年生から入った人には負けますが、けれども努力によって、かならずおいつきますよ。 くれぐれも日頃のお前の負けん気性を出してがんばって下さい。
家の南瓜も収穫期です。 先日一貫匁《かんめ》有るのをとりましたが、家としてははじめてですよ。此年は三十位とれます。 また兄様の墓も立派に出来上がりました。 今年は初盆なので、家の南瓜やらとうもろこしなどを供へています。 
悦子(注 妹のこと)の学校も、空襲がよく有るので一時中止、私宅にて寺子屋《てらこや=江戸時代の手習い所》式に数人集まっては勉強し、先生も訪問してくれます。
大阪の子供は、此度《このたび》長谷川様の二階を借りてうつりました。 家もまた静かになりましたよ。
お父さんも休みなく元気に増産に、はげんでいますから安心して下さい。 お前の目方も減ったそうで残念ですが、決して気を落さず、腸の方さへ直ったらすぐ取りもどせますから、何より早くなほして下さい。 あたためたらよいと思ひますから、夜分のねびえには気を付けて下さい。
では次の元気回復のたよりをまちます。

八月九日
英夫さんへ
母より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(注 以上、その1,その2,その3 全ての母からの手紙を通じて、文面には変体仮名《へんたいがな=現代の字体とは違う崩し字》が多く用いられている。 それらは、ここでは明朝体に変換している。 又、文面では、多くの場合、句点が省略されているが、此処では、読みやすくするために、私が、適当に句点を配置している。 が、文面そのものは、原文のままである。 六十年後の今となって、母の手紙を読み返すとき、当時を偲《しの》び、感慨無量と言う言葉では言い尽くせないほど、感慨無量である。)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/11/10 16:34
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
ほのぼのさん  こんにちは!

1943年生まれの私メ、自分ではソコソコ物を知ってると思って
ましたが「七生報国」って言葉を直ぐに使える1945年の中学生
には、びっくりしました。

元弘の変(武家政権の打倒を目指した戦い《1331年》)で天皇方として戦い
幕府方の軍勢を大いに討ち敗った楠 正成は、その後、一旦は
敗走して再度東上した足利尊氏《あしかがたかうじ=室町幕府初代将軍
となる、1305-1358年
の幕府軍を摂津国湊川(現:神
戸市兵庫区)で迎え討ち、善戦空しく敗れました。

その最期の時に「七生報国」(七度生まれ変って、国に報いん)
を誓って自刃しましたが、その正成の天皇への忠節は、その後長
く、日本人を奮い立たせ、その時代時代の国難を乗り越えさせる
原動力となったと・・私にとっては歴史の世界です。

でも太平洋戦争の頃は中学生が手紙に書けるほど、「七世報国」
は日本人の合言葉だったのでしょうか?
発音は「ななせいほうこく」でしたか・・/(-_-)\ウーン


母上の返信にある「御稜威」などは、恥ずかしながら、調べて
分った次第です(^^ゞ

辞書には「天皇の御威光」とありました。
皇室にまつわる「不可思議かつ強健な力場」「大きな神秘的影
響力のフィールド」を、日本では古来より「御稜威(みいつ、
または、みいづ)」と呼んできた・・・・と。

昭和20年(1945年)を境にして、日本人の心意気は、大きく変
ったのでしょうか(-_-;)

この往復書簡を拝見して、この境界線の前の時代の中学生(13
歳)が、とても大きく感じられました。

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/11/11 11:46
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
あんみつ姫 さま
「母との往復書簡」読んで下さり、有り難う御座いました。
また、楠木正成の故事来歴《こじらいれき=由緒と経過》、歴史
も勉強されたみたいで、その探求心の強さに、感服しております。
七生報国は「ヒチショウホウコク」と読みます。
私達の小学校時代は、この言葉がおおはやり(?)で、例えば
習字の題材などにもよく使われていたものでした。

新撰組《しんせんぐみ=徳川幕府の末期、浪士を集めた幕府方
の警備隊》
もいいですけれど、もっと、日本では、小学校時代から、
「日本の歴史」をしっかり教えて欲しいものだと、常々、私は、思っております。
正成の子、正行(まさつら)は父の意志を継いで、四条畷《しじょう
なわて=大阪府東部》
で戦死するのですが、その四条畷神社では、
59年ぶりに「十一詣り」を復活させます。
これは楠 正行 が、十一才の時に、父正成と別れる際(桜井の別れ)に、
「父亡き後も父の意志を継ぎ、帝(みかど)をお守りせよ。 それが父への孝行」
と諭《さと》され、正行がその誓いをたてた、と言う故事に基づいている行事です。
「男子たるものすべからく十一才で志を立てよ」 と、いうことです。

かの孔子は「男子三十にして立つ」と、言ってますが、
正行は既にして十一才で、立てていたというわけです。 
(これはちょっと飛躍しすぎかな?!?)

何れにしろ、有り難う御座いました。 今後とも宜しく御願いします。
      ほのぼの(PGB01032)でした。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/11/11 13:48
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
ほのぼのさん

引用:
七生報国は「ヒチショウホウコク」と読みます。
私達の小学校時代は、この言葉がおおはやり(?)で、例えば
習字の題材などにもよく使われていたものでした。。

おお、「しちしょうほうこく」でしたか(--#)
お恥ずかしや(;¬_¬)

七回生まれ変わっても日本に生まれ、日本を守ろうという思い…。
日本はこういう思いを持って死んで行った人たちによって守
られて来たのですね。

戦前の日本では、この教えが若い心に染み付くような教育が
できた、された、ということなのでしょうね。

その頃の子供たちの勉学風景というのは、どのようなもの
だったのでしょうか?

私が、この「七生報国」から思い出すのは三島由紀夫です。
自衛隊の市谷駐屯地に「盾《たて》の会」の若者たちと乱入して、バル
コニーで檄《げき=触れ書き》を飛ばしていた三島由紀夫が頭に巻いて
いた鉢巻に、たしか「七生報国」と書かれていましたっけ。
あの割腹《かっぷく=切腹》自殺は、衝撃的でした。1970年の事でした。

それにしても、皇室は神武天皇から平成の今上天皇まで、12
5代の長きに亘《わた》って連綿と続いているのですよね(@_@)

世界のどの国を見ても、このような歴史を持つ王族は居ませ
んね。

引用:
「男子たるものすべからく十一才で志を立てよ」 と、いうことです。

女の子の「十三参り」は実際に経験もしましたが、男の子の
「十一参り」があったとは、また一つ、知識が増えました(~-~;)

失われつつある日本の文化ですね。
四條畷(しじょうなわて)神社では、まだ「十一参り」が行われ
ているのでしょうか?

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/6 20:26
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
「大阪陸軍幼年学校(大幼)第49期第6訓育班第11學班」

大幼49期は6クラス(訓育班)からなり、それぞれのクラスは2學班ずつに分かれていた。
11學班は総員31名、外国語として、フランス語を学習していた。
12學班はロシア語を学習していた。  
語学以外の時間は訓育班は常に行動を共にしていた。 
訓育班60名は、5つの寝室に分かれて起居していた。 
各寝室ごとに、47期からの「模範生徒」が起居を共にしており、
朝な夕な、模範生徒から将校生徒としての躾《しつけ》の指導を受けた。
たった5ヶ月の共同生活だったけれど、現在でも、毎年、同窓会が行われている。
















「級友達による寄せ書き」

「昭和20年1月20日、教育総監より「大阪幼年に採用予定、応否すぐ返」の
電報を受け取った。 京都1中からは、2名の合格であった。 

当時私が在籍していた、1年1組の級友達が、ノートのページ一面に寄せ書きをして、 祝ってくれた。 私にとっては、貴重な思い出の資料である。 
 左下には、ロシア大使を勤めた枝村氏の名前も見える。
 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/29 13:42
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
思い出の記より (2007,05,29)

昔、実際それを見た。 むかし、実際それを体験した。 今の若い人達には、決して出来ない、貴重な体験であった。 
映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」を、観た。 感泣の涙、涙で座が濡れた。 あの頃のあの事を知っていればこその感泣であった。

私が、大阪陸軍幼年学校第49期生であった頃、即ち終戦の年の5月頃だったが、夕方の随意時間(下記記載の別表参照)の折り、陸軍の戦闘機一機が、陸幼上空に飛来し、低空で何度も何度も旋回した。
我々は、皆、戸外に飛び出して、旋回する機に向かって、千切れんばかりに手を振ったのであった。 そしてやがて、機は西の方へと飛び去っていった、のであった。 その人の名前は判らないが、多分、大阪陸幼の出身者で陸士、航空士官学校へと進まれた、若い少尉が中尉の人であろう、そしてその日のうちに、特攻基地へと向かわれたに相違ない、と思った。 
前にも書いたことであるが、日本はその大東亜戦争で英・米・蘭など白人諸国と戦い、そして負けた。 無条件降伏をした。 あの人達の死は、一見、無駄だったように思う人()があるかも知れないが、決してそんなことはないのである。

我が国が、我が国こそが、大東亜戦争を起こしたが故に、その後、それまで白人達に支配され、略取されていた、アジアの諸国の独立を惹起させる動機となったのである。 この史実は不変である。 悠久の大義に生き、そして戦場に散華された人達よ、大いなる誇りを矜持されよ。 合掌。

(別表)

日課時限標準表

5月の例

(午前)6時      起床(起床ラッパ)日朝点呼、 宮城遙拝 勅諭奉読 掃除  兵器点検
    6時40分   寝室検査
    6時50分   朝礼 朝食(週番士官の訓辞がある)
            随意時間
    7時50分   服装検査 学科集合
  8時      教授部第一授業 (1クラス50人での授業である)
    8時50分   休憩
    9時      教授部第2授業 (語学はフランス語を習った)
    9時50分 休憩 運動
    10時05分 教授部第3授業(数学の授業は厳しかった)
  10時55分  休憩
    11時05分 教授部第4授業(生物の授業は楽しかった)
  11時55分  休憩  命令受領
(午後)12時10分  昼食 (*)  診断治療
            休憩
    13時10分 自習
    14時  休憩
14時15分  訓育部授業前段 (体育、教練、剣道 ) 
又は 音楽、工作、自習
    15時5分  休憩
    15時20分 訓育部授業後段(行軍、現地自活訓練 ) 
            又は 音楽、工作、自習
    16時10分 休憩
    16時25分  随意運動 (楽しい自由時間である 入浴)
    17時15分  手入れ休憩 (短剣、軍靴の手入れ、洗濯)
    17時40分  夕食
            休憩 (この時間は大抵 軍歌演習 であった)
18時50分 第一自習
     19時50分  休憩 命令受領
     20時 第2自習
     21時   反省日誌記載 (墨書するのだ)
     21時15分  日夕点呼
     21時45分  消灯 (就寝ラッパ) 就寝 

(*) 食事は47期生1名、48期生2名、49期生3名の計6名で、1テーブルを囲み、49期生が世話役をした。

ちなみに、大阪陸軍幼年学校では、映画にあったような、上官、先輩による鉄拳制裁は全く皆無であった。 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/1 11:17
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思い出の記 (その2)

初詣

今年の元旦、初詣は、遠路奈良の橿原神宮とした。  私にとっても久しぶりだが、妻にとっては、実に67年ぶりと言うことで、自分史的イベントである。 今年は、平成19年、西暦では2007年だが、皇紀にすれば、2667年となる。 
妻が(そして私もだが)初めて橿原神宮を参詣したのは、実に、昭和15年、皇紀2600年の時だった。 その年は、日本国中、国を挙げての祝賀として、建国の第一代天皇、神武天皇を祭る奈良の橿原神宮に、大挙して参拝に出掛けたものだった。 当時小学生だった私も、学校からの「遠足」として、皆で出掛けたのだった。 その後も或いは家族で、出掛けたこともあるのだろうけれども、それらの詳細は私の記憶にはない。

明確な記憶として残っているのは、その後、昭和20年4月3日、神武天皇祭の日に、大阪陸軍幼年学校49期生としての初めての外出であったのだが、当時まだダブダブの第一種軍装を着け、始めての短剣を着装し、隊伍を組み、橿原神宮を参拝した思い出である。 この日、神武天皇祭と言うことで、一般人の人出も多かったが、その人出を左右に分けた砂利道の真ん中を、新品の、だがこれ亦ダブダブの軍靴の靴音高く、真っ直ぐに前を向いて歩いた時の印象は、今でも鮮明である。 この時、参道も境内も清明且つ荘厳であった。 畝傍山を背景として、日章旗が翩翻と翻っていた。

その折りの私の、あどけない少年兵の、体格検査表が残されている。 下記に示される如く、今の世の子供達のそれと比較すると、まさに小学生並みの体格である。

健康状態一覧(第一学年)
      身長(cm)       体重(kg)
    本人     学年平均     本人   学年平均  
4月  141.7    150.2     32.7     41.0
5月  142.1    150.7     33.4    41.5
6月  142.4    150.7    34.8     41.6
7月  142.8    151.2    33.1     41.2
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