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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その14

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通常 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その14

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/11/25 9:30
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
伊豆 下田 安良里《あらり》 その2


 村医住宅は診察室、手術室、薬局、待合室のほか、六、十、七・半、十帖の畳の部屋と六帖の板の間、台所に風呂、便所が二か所、広々としすぎる。家財道具は何もないので、食事は六畳で蜜柑箱の上でとった。どの部屋にも何も置くものはない。
手術場は一番日当りがいいので、床板を張ってもらって診察室にし、薬局は元の診察室に移した。後日ここにレントゲンを置き、元の薬局は女中部屋に使った。父と光、幸、典の四人が下田から移って来て、奥の十帖と七帖半の二間をつかった。ここは病人を収容するための部屋だが、とうとう入院はなしで通した。

 引越しの次の日に早速往診を頼まれ、腹痛が安良里《あらり=西伊豆》の第一号患者だった。
 村には他に医師はいないのでいわゆる全科診療だが、お産と赤んぼとは困る。
 北に一里《4キロメートル》の宇久須《うぐす》、南に一里の田子に古くからの開業医がおられ入院設備もある。もっと南の松崎町には何人もの開業医がいる。村人は随意診て貰いに行っていた。私も内科以外はそうして欲しいと話したが、診療所はよく繁盛した。
 赤んぼは手におえぬが子供はなんとか相手をした。幸い大きな怪我《けが》人はなかったが、ちょっとした怪我などの縫合《ほうごう》、切開はやった。外科の本を見ながら、顎《あご》の脱臼《だっきゅう=骨の関節がはずれる》を整復したこともある。皮膚科も眼科も手におえそうなことはなんとかやってみた。特に眼科は六さん(義兄 信六 眼科医)に、結膜炎にトリパフラビンが効くと教えてもらったのでやってみると、よく治り、評判になったのか遠方からも患者さんがきた。東海岸に東大名誉教授の石原忍先生がおられるので、眼科の名医と間違えられたこともある。世の中は恐ろしいものだと思う。

 患者さんは内科が主で、朝早くから来て玄関を開けるのを待っている。夜中だとて容赦《ようしゃ》しないし、休みの日に寝ている部屋まで入ってこられたこともある。帰国以来の窮乏《きゅうぼう=金や物が著しく不足する》生活から抜け出すにはやり抜かねばならない。父が薬局を手伝ってくださり、三池子は洋裁の看板を出した。初めの一、二年は無我夢中だった。

 収入の目度がついたので、すぐに顕微鏡《けんびきょう》を買った。回虫による腹痛が多いので虫卵確認が必要だし、又虫垂炎《=俗にゆう盲腸炎》は白血球計算をして診断を決め早く外科に送らねばならぬし、一日も早くほしかった。次いでポータブルながらレントゲンを備え、ようやく内科らしい診療が出来るようになった。はっきりした記憶にないが二年後位の早い時期に思い切って購入した。

 追々生活のゆとりが出来てきたので、洋子のためにオルガンを買った。年が開けて二十三年の小学一年生のときではなかったろうか。これは当時の唯一の名残になって八が岳の周光荘においてある。時には誰か弾《ひ》いてくれることもあろう。(コレハ間違イデ三池子ノ話デハ、オルガンヲ買ッタノハ土浦ニ行ッテカラダト言ウ。以下ニモコンナ思イ違イガ沢山アルカモシレナイガ、コノ儘ニ思イ出スママヲ書イテオク。)蓄音機とラジオを買ったのは何時ごろか、沼津に出たときに買ったゲルハルト・フィッシュのレコードはまだ捨ててはいないと思う。

 二十四年夏、皆をおいて、帰国後初めて三池子と二人で旅行にでた。洋、周はオカンチャン(手伝いにきて貰っている土地の人、小田木かんさん)に頼み、ななこは土浦まで連れて行きオバアチャマに預かって頂いた。先祖、母の墓参りをし、二人の姉と弟とに会うためで、金沢、神戸、和歌山と回ってきた。
 金沢の野田山の墓には戦前にも来たことはなく初めてのお参りである。弟の昭の嫁のふみと土田の御両親とに初対面をした。神戸には十七年に上京したときに寄っているので三池子は二度目の事になる。
 和歌山の赤垣内《あかがいと》では、次姉の赤井定一一家に会ったが定一さんとはこの時が最後になった。

 和歌山の帰りに奈良に一泊した。何故奈良にしたのか、朝鮮育ちは日本のことは分からないので、まず古い昔の姿に触れ、戦争で破壊されなかった日本の町に触れてみることから、「日本」を探していこうとした心づもりがあった為と思う。
 帰国当初からなんとも周囲に違和感がある。引揚者と呼ばれ、住み着いてきた日本人=内地人とは違う異邦人《=異国人》だった。ヒキアゲシャは無一物の身ではあったが、戸惑うことはあっても、プライドは捨てないで通おしてきたと思っている。

 二十五年、大阪の内科学会に戦後初めて参加した。洋子、周而を連れて行き、神戸で厄介になった。行きに沼津で特急に乗り、食堂車で昼の定食を食べさせるために、かなりな順番待ちをしたのを覚えている。
 二十六年四月、東京で戦後二回目の医学総会に出席した。この時初めて城大の同窓会があり、続いて城七会(医学部第七回卒業)の第一回総会を銀座で開いた。宿をどうしたか覚えていないが、生活にかなりなゆとりが出来ていたのだろう。

 二十三年四月に洋子、二十六年四月に周而が小学校入学。二十八年三喜誕生。二十八年に私も安良里を去って土浦に移ったが、その前までに妹たちは次々に村を出ていった。
一番初めに典子が東京に出て、郁さん(私の従兄弟)の所に世話になりタイプ学校に入学、幸子は二科の延命寺に手伝いに、光子は静岡盲学校に入学した。

 父はゆとりができて来ると共に、東京、桐生、静岡などに出かけるようになり、謡《うたい》のお弟子さんが増えてきた。戦前からの東京の佐野巌先生のところに、自分も謡の稽古《けいこ》に行くようになって、ようやく張りのある生活に戻られた。

 静岡のお弟子さんたちが奔走《ほんそう=駆け回って》されて、住宅難の時に静岡の県営住宅を借りて下さったので、幸子と引っ越して行った。ここが根拠になって光子は盲学校卒業後、敷地内に家を建ててマッサージを開業し、浜寺に面倒をみて貰っていた子供三人を引き取った。幸子は盲学校に就職して後日静岡の増田と結婚。典子はタイプ学校卒業後岡日興証券KKに就職し、父幸と三人で暮らし、後日、焼津の柴崎と結婚した。
 二人の結婚式はどちらも父が取り仕切ってくださり、私たち二人は安良里から式に出席した。また七十七の祝いを興津《こうず》の水口屋でしたときも、父は一人で一切を運び、神戸の姉夫婦、和歌山の姉と子供らも出てきた。三喜はまだ生まれていなく、周而は土浦に行っていたので、洋、ななの二人を連れて安良里から出ていった。この後、姉二人は興津から安良里まで足を延ばしてくださった。
  
 下田での暮らしは悪夢となって去り、幸せな日が帰ってきた。
私は、ゆっくり休む間の無い明け暮れを初めは夢中で働きつめていた。段々経済的なゆとりは出来てきて内科学、結核病学会に入り、学会には毎年行けるようになり、医学雑誌も毎月とっているが、村でただ一人の医師、語ル人ナキ寂シサと医学の進歩に取り残されそうな苛立《いらだち》ちとが年と共につのって来る。また、子供らが学校に通うようになり、ここの中学校に入れるのは先々が心配になる。

 洋子は小学校五年になったとき父の所に預け、静岡の学校に転校させた。私自身も都市にでることを二十六、七年ごろから考えるようになっていた。静岡の鐘紡工場の医務の話があったので、大阪本社に行ってみたが病院ではないので止めにした。岩井先生から神奈川の農協病院の話があり、院長と農協役員とに会いに行ったが気が進まず断った。水戸の先にある病院の誘いは個人病院なので断った。
 山本のおじいさんが、霞が浦《=茨城県》国立病院の伊藤院長に会ったとき、私が伊豆を出たいと言うことを話したことがあったようだ。二十八年の秋に副院長の伊東さんから誘いがきたので土浦に出ていき院長に会った。もとの城大第二内科教授で私を知っておられた。話は内科医が辞めるのですぐに来て欲しいこと、待遇は内科医員、報酬は今の三、四分の一位になることだった。勉強をしにいきたいので責任者になるのはこちらから断るつもりだし、収入が減るのも承知の上なので赴任する事にすぐ決めた。精神科の伊東さん、外科の妹尾さんは城大の先輩で城大では助教授をしていた。内科に私の後輩がおり、皮膚科も城大の助手だったという。各科が揃っており、旧知の人がいるので色々勉強出来るだろうと思った。

安良里に帰る途中、岩井先生を訪ね了解と推薦とをお願いした。

                          以上

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編集者 (代理投稿)

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