@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

朝鮮生まれの引揚者の雑記・その13

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その13

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/11/25 8:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
伊豆 下田 安良里 その1

           昭和二十二年《1947年》~二十八年

 二十一年十二月末佐世保に着き船内で足止めを受けて二週間目、年が明けて上陸、桟橋を下り、「日本の土」を踏みしめて収容所に入った。
 初めは引揚船、栄豊丸の狭い船室から甲板に出ては、緑の濃い島々を眺め、ここが日本なのだと思いながらのじれったい毎日だった。一週間たって兵隊たちと分けられて別な船に乗り替え、この船で又一週間を過ごした。今度のアメリカの船は船倉《せんそう》が広く、天井も高く明るく、気持ちも和らいだ。私たちは医務室で診療を始めたので幾らか張りのある日々を送ることが出来た。正月には医務室の者は船長の招待を受け、久しくなかったご馳走にあずかった。
 洋子の手を引いて、ここが日本なのだよと言いながら、日本の土を踏みしめた。上陸して更に一週間、隣の寮に入っている台湾からの引揚者がきれいな服装で、物も沢山持って明るくしていたのが、乞食《こじき》のような朝鮮組には非常な驚きだった。

 父は疎開の用意が出来たところを東京の大空襲にあい、伊豆に行って暮らしていることは分かっていたので、沼津までの汽車の切符をもらい、南風崎《はえのさき=佐世保市》駅から引揚列車に乗った。初めの間はよかったが、途中からどんどん乗り込んでくる人で身動きもできないようになった。引揚者だけのゆっくりした道中などの甘い考えはふっとばされた思いをしたほかに、途中の記憶はない。三池子は下関で雲丹《うに》を買った覚えがあると言っている。
  
 沼津に太郎彦君(三池子の弟)が迎えに来てくれていた。山本一家は皆無事に帰国し、土浦《=茨城県》の引揚者寮にいると言う。太郎彦君は城大在学中、学徒出陣《がくとしゅつじん=太平洋戦争下学生の徴兵猶予を停止し軍に入隊・出生させた》で海軍航空隊に入り台湾から復員し、丁度仁科《にしな=静岡県》にきていた。
 長谷川一家は父と妹幸子とが仁科に居り、末妹典子は金沢の昭のところへ行っていた。
 弟昭は和歌山の学校を辞めて金沢に移り結婚したという。長姉総子は、神戸で度々空襲に焼け出されながらも三人とも無事で、甲南病院の中に住んでいる。次姉保子一家は、北鮮平安北道《ピョンアンプット》安州から闇船で京城《ソウル》に出て、四人の子供も皆無事に連れて帰り、赤井の本籍地和歌山に住んでいる。妹の光子一家は、広島で泉蔵君が亡くなり、その後に原爆をうけた。子供三人無事で泉蔵君の家、浜寺に移ったあと、光子は浜辺で拾ってきた焚《た》き物の爆発で両眼を失明したと言う。子供らを浜寺に預け、自分は神戸で六さん(姉総子の亭主、眼科医)に面倒を見て貰っている。仁科は、伊山伯父様は亡くなられ、レイ伯母様がおられ、父は寺の離れをお借りしている。東京の家財のほとんどは送ることの出来ぬまま空襲で焼いてしまったので、売り喰いの材料もなく暮らしていた。

 私たち四人は一月の末仁科に着いたが、この「家」にゆっくり骨を休める余裕はない。朝鮮を出るとき日本円を一人千円ずつ持って帰られたのだが、慌ただしい出発で現金をつくる暇はなかった。荷物はリュックに詰めたものだけ、帰国後の伊豆では朝鮮以上になけなしの売り喰いになる。
 一日も早く収入の道を掴《つか》まねばならない。高周波の工場が東京北品川にあるので上京して千歳烏山《ちとせからすやま=東京世田谷区》の会社の寮に泊まり、元院長の高田さんや一緒に帰国した者たちと会社に交渉したが何も得るものはなかった。城津《ソンジン》では二万円余りの退職金の証書を渡されたが(その頃の月給は四百円位だった)、会社の資産は凍結された由で退職金は出ない。会社に就職のあてもない。
 大学の内科教授の所に行った時には、田舎の食べ物の有るところにいるようにと言われた。戦後元の陸海軍病院が国立病院になり城大の教授は帰国後諸所で院長になっておられ、多数の城大関係者が就職していた。私の帰国したときはもう入り込む余地はなく、訪ねて行った久里浜《=神奈川県横須賀市》国立病院にも五人いた。

 クラスの丹羽が横須賀に、宮田が逗子《ずし》に引揚げているので会いに行ったが仕事の宛は無い。丹羽はフィリッピンから復員し東京の病院勤務、宮田は平壌《ピョンヤン》から脱出し引揚者寮の一室で開業をしていた。

 土浦にも行った。山本一家は大房の引揚者寮の中の桃源寮の一部屋に住んで、
 おじいさんはここから東京に通って警視庁で外人相手の通訳の仕事をしておられた。このお仕事は都知事安井さんの世話ときいた。非番の日にはお茶の水にある大学予備校でも働いておられた。ここの引揚者寮にも開業医がいた。
 無一文で開業の宛はなく、自力で就職する宛もない。山本のおじいさんが骨折ってくださり、松崎町《=静岡県伊豆》の佐藤弾さんの紹介で下田町の河井病院に就職することが出来た。ここは外科と耳鼻科とをご夫婦でやっておられ、私のために内科の診察室を新たに設けてくださった。弾さんはおじいさんの従兄で、院長ご夫婦のお父様と親しくしておられた。色々と無理な事があったろう、どなたにも大変な御思を受けている。

 下田には私一人が先に行き母屋の一部屋を当てて下さった。何時ごろだったかはっきりしないが二月の末だったと思う、火鉢に火がいれてあった。間もなく病院に近い了仙寺横の貸家を借りてくださったので妻子四人の暮しになった、六、三、二畳の家だった。

 父と幸子とはそのまま仁科にいて貰うつもりだったが、腎臓を悪くした典子が金沢から戻ってきて三人が下田に引越してきた。このあたりのいきさつは分からない。そのうち神戸からオオクン(長姉)が衰弱した光子の手を引いて連れてきた。このあたりのいきさつも分からない。
 どこも困りきっていたときなので、しわ寄せは全部長男の身に掛かってきたのだろう。

 一番苦労したのは三池子だ。狭い家に八人。舅《しゅうと》、小姑《こじゅうとめ》のそれも盲《めしい》と病人の二人がいる。収入は病院からの俸給だが、開いて間もない内科には患者さんは何人もない。切り売りする物はなく、配給の米などは麦に代え、金に替えた。五歳と三歳の子供を抱えて死に物狂いの毎日だったろう。七月には ななこが生まれた。

 典子の手術は河井先生のおかげで、幸いに医師会の講演で下田に見えられた千葉大学の中山教授(河井先生の同期)に執刀《しっとう》して戴くことが出来た。河井先生は手術、入院の費用も請求してくださらず、「地獄で仏に会う」とは正にこの事である。父が弾さんからお借りしてきたお礼のお金を教授にだしたが、受け取ろうとはなさらず、私にこれの分は河井病院のために働いてくれと言われた。中山恒明教授は当時日本の外科の第一人者と言われている方だった。

 典子は順調に快復して、後に河井先生のお父様のお世話で下田税務署に勤める事が出来た。三池子が頑張ってくれて光子も元気になり、ななこも栄養失調にもならず肥立《ひだつ=日がたつ》ってくれた。この間の苦労について三池子は何も言わない、どんなに辛かったことかと思う。

 内科の患者さんが段々増えてきていた頃、九月に突然河井先生から西伊豆に村医の空いた所がでたので行かないかと言われた。有難いお話だが、私のために内科を開いてくださり、ようやく患者さんが増えてきているときに出て行くのは申し訳けないことと思った。それは構わないし行く方が良いと言われるのでご厚意に甘えることにした。当時郡医師会の副会長をしておられ、後任の推薦に有力だったのだろう。
         
 加茂郡安艮里(アラリ)村は伊豆西海岸にある千人余りの漁村、土地の有力者の婿《むこ》さんが復員して開業していたのが急逝《きゅうせい=急に死去する》されたのだと言う。村有の村医住宅があって無料で貸してくれ、経営は自営で収入は全部自分のものになる。電話も村もちだったが後になって自分もちにしてくれといわれた。
 診療所には前からの薬品が置いてあるので、これを買い取ることにして薬屋に値段を付けて貰った。支払いはすぐにではないので全くの無出費、借金無しに診療所を持つことが出来た。落ち着いた後に、父に「安艮里診療所」の表札を書いて頂き玄関に出した。
 行くと決まると、すぐに赴任した。典子は仕事があるので父たちと下田に残り、家族五人が船で安艮里に行った。港に着いたとき、村のおかみさんたちが大勢ショィコを着けて迎えにきてくれていた。私たちの引越し荷物は布団の他は両手に持ったものだけ、村の人たちは何と思ったことだろうか。


--
編集者 (代理投稿)

  条件検索へ