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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その11

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通常 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その11

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/11/24 8:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 私の引き上げ

 皆を送り出した後はわが家は親子四人だけになった。帰国を認められなかったのは工場の技術者と医師の八十六人と其の家族、併せて三百人位で、高周波病院の職員は外科の安藤医長の一家四人と、ほかに元院長の産婦人科医と歯科医の二人がいた。この二人はやはり抑留を指名されて元の城津道立病院に勤めていた。家族をさきに帰しておいて、そのごに元道立病院院長らと闇船での脱出を企てたが失敗して単身で残されている。

 最後の闇船が出る前に、これで抑留日本人は殆《ほとん》どいなくなるのだから我々の役目は済んだ。出来れば一緒に帰ろうと思い、安藤君と二人で工場長に交渉に行った。もとの工場長室にはモスクワ帰りだと聞く背の高い男がいて、通訳を介しての談判だった。日本語を知らぬ筈はあるまいが、これは体面なのだろうと思った。

 二人の帰国希望申し出には頭から「ニエット」(NO!)。こちらは日本人がいるから自分で残ったつもりなのだが、そんな事話したら大変な事になるだろう。日本にいる親妹達が消息不明なのが心配なこと、七十歳を越している父は家を空襲で焼かれて、田舎に移ったあとどうなっているか安否が不明でいる。京城《ソウル》にいた妻の両親弟妹達の消息も全く分からず毎日心配している。何とか帰らして欲しいと、こちらは唯懇願するしかないが、何を言っても向こうも答えはニエットしかない。最後には、自分達は残ることにするが妻子は帰らせて欲しいと言ったがこれも「ニエット」。家族を帰らせ身軽になると脱出をするかも知れぬとあからさまに言う。
 
 帰らせてくれぬとはっきり分った後は腹をくくって暮すしかない。最後の闇船を送ったときには大きな感慨はなかった。何時帰られるのかは全く分らない。一番初めに協力を求められたとき、国交が開かれるようになれば一年に一と月間位の休暇を出すと言われたのを思い出す。

 結果からみれば家族を先に帰らせなくて良かった。父母たちの心配を二三か月なが引かせはしたが、どちらの親にしても三人が身を寄せる事はとても出来るような状態ではなかった。

 我々北朝鮮にいた日本人を、労働力の無い婦女子を含めて抑留したまま、何故すぐに帰国させなかったのか、記録を調べたが分らない。ソ連の日本、アメリカとの交渉の人質だったのではなかろうか。抑留邦人の帰国の交渉は政府間の話合いではなくて、日本人の共産主義者(党員?)松村義士男氏等が奔走してくれた成果だと聞いている。アメリカがソ連に申し入れをしたが取りあわれなかったという。

 共産党と言えば、平壌(今のピョンヤン)に工業技術者総連盟ができて、日本人部会の部長になった常塚秀次君は、私の小学校、中学校からの友人で、京都帝大をでているが高校在学中に思想問題で停学処分を受けたことがあった。元山《ウォンサン》にきて、私が収容所で迎えの船を待っている時に会いにきた。北に残ってくれぬかという要請だった。勿論断ったが、ここまで来ながら残留の要請で船に乗せて貰えずに工場に連れ戻された技術者がかなりいたと聞いた。
 常塚自身は二十三年日本人が全員帰国するときに、反ソ行為の罪で逮捕され他の幹部十五名と共に帰国出来なかったし、城津《ソンジン》で日本人世話会の中心であり、工場復興に最も協力した岡野正典技師長も同じ罪でシベリアに連れて行かれた。帰国後常塚とは行き違って逢はずしまいになったが、岡野さんとは三十五年に会うことが出来た。ソ連とはツクヅク恐ろしい国である。

 帰国の予想は全く分らぬので冬を過ごす食糧の用意は済ましていた。二十一年《1946年》十一月十五日(私の誕生日)休みの日だったので安藤家と一緒に昼の散歩がてら朝鮮ソバを食べに出ていた、暖かい日だった。店を出て間もなく向こうから、帰られますよ!と言いながら駆けてきた人に会った。大喜びで家に帰り帰国の仕度に掛かろうとした時、数人の技術者と私たち医師二人は別だと言われた。あがいても、どうしようもない事なので帰国を諦《あきら》めていた。

 みなの出発当日の十七日の朝、貴方がた二人は帰ってもよい、との知らせがきた。慌ただしい出発である。リュックはかねて用意していたが、持って行かれない品物を現金に替える時間はない。(一人一千円までは日本に持ち帰られたのだがこの時には四千円に満たない額しか手持ちはなかった)。

 正式の引揚げだから双浦の駅まで運んでくれたが、あとは自分の力で運ばねばならない。子供二人(三歳八ヶ月と一歳十一ヶ月)にも自分の物はずっしりと背負わせた。背中と両手とに持てる物を大急ぎで運んだ。昼過ぎにはもう駅に行かねばならない。
貨物車に乗り込むのに一人一人厳重に名簿と照合していた。乗ったのは夕方で出発は真夜中になった。(この間に名簿外の軍人三名はなんとかして乗せることが出来たが、途中の駅で捜索を受け、隠すのに大変だった)。
 
 私たちの出たあとに十人余りの技術者が残されたが、この人たちも間もなく帰国を認められて元山《ウォンサン》の収容所にいる間に一緒になれた。

 セメントが残っているほこりっぽい貨物車にどうにか横になり、夜になって出発したが汽車は石炭の火力が弱いとかで双浦と城津《ソンジン》間のトンネルのある坂をなかなか登れない。四キロあまりなのに城津駅には朝になって着いた。この調子で途中も止まっている時の方が長いような走り方。その度に鼻薬《はなぐすり=小額のワイロ》が必要だったと言う。

 三日がかりで元山《ウォンサン》の収容所のある文坪駅に着いた。ここからは荷物は自分で運ばねばならない。布団《ふとん》包はどうにも持てないので、布団は二枚だけにし、他は皮を剥《はが》し布だけにして、綿は希望する人にあげた。寒い収容所で重宝された。

 収容所は工場の社宅だが城津《ソンジン》のとは大違いで、窓も畳も荒らされたあとの、風が吹き通しのあばら家だった。何とかつくろって毎日、何時来るか分らぬ船を待った。後ろの丘に登ると海が見える。船が見エルカーアと声をかけながら皆がよく登っていた。城津の者と同じように、闇船で帰ることの出来なかった人たちが各地から三千人くらい集まっている。

 水道はなく、掘り抜き井戸《=地下深く掘って湧きださせる井戸》の周りはかちかちに氷が張りつめている。食糧は小豆と葡萄糖《ぶどうとう》、塩鮭が配給されるだけなので、持ってきた食糧の他は収容所の柵の外に食糧を売りに来るオモニ(お母さん=朝鮮人の小母さん)から買うか、物々交換で購めねばならない。
 燃料も配給がないので各自が集めねばならない。一と月余りの間に空き家になっている大きな建物が二つ壊された。私たちはそのおこぼれを分けて貰って暖をとり炊事をした。

 私たちはここでも医療室を開いたが、ロスケの責任者は女医の軍医中佐だった。発熱者を発疹チフスではないかとしつこく聞く。そうだと大変なことだが伝染病の発生がなかったのは、本当に幸いだった。明日にでも船が来るかも知れぬのに、間違って伝染病だと頑張られると帰国は一層遅れることになる。

 一と月過ぎて、ようたく待望の船が来た。乗る前に広場に並ばされ、代表がソ連軍人に向かって感謝の挨拶を読み始めた。ロスケはすぐ止めさせて、代表を反対の日本人の方に向かせて日本人に聞かせるようにして読み上げさせた。これがソ連式なのだ。

 引き上げ船、栄豊丸には十二月十九日に乗り込んだ。この貨物船は一般邦人《ほうじん=特に外国にいる日本人を指す》に当てられていたのだが、ソ連から帰国の兵隊も乗って予定の倍の人数になったようだ。船底から甲板のすぐ下まで十段にも床が作られ、坐ると頭がつく位の高さだった。六ノットの船は、三日三晩かかって佐世保についた。私たちは甲板のすぐ下の場所だったので、一夜が明けて暖かくなると、天井に張りつめた氷が解けて雨に降られる目にあった。

 同船した兵隊は、ソ連から最初に帰還してきた者たちで病人が多く、甲板には下痢便がたれ流されていた。何人かは航海中に亡くなって水葬にされた。また天然痘《てんねんとう=法定伝染病》もでて、佐世保入港後一般人は別の船に移されて二週間、正月は船の中だった。
 陸に上がって更に一週間とめられた。一緒の頃上陸した台湾からの引揚者が、隣の宿舎にいた。ぱりっとした服装に装身具をつけ、整理された荷物を持っていて、みすぼらしい朝鮮組とは対照的であった。

 城津《ソンジン》を出て二か月かかって、一月末、ようやく家族四人は父が疎開している伊豆に着いた。
                         
 以上 引揚げ終り

 昭和63《1988年》.3.30

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編集者 (代理投稿)

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