朝鮮生まれの引揚者の雑記・その12
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朝鮮生まれの引揚者の雑記 <一部英訳あり> (編集者, 2006/9/24 21:47)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その1 (編集者, 2006/9/25 8:52)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その2 (編集者, 2006/9/25 8:54)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その3 (編集者, 2006/9/25 9:07)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その4 (編集者, 2006/10/18 8:18)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その5 (編集者, 2006/10/18 8:23)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その6 (編集者, 2006/10/19 19:27)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その7 (編集者, 2006/10/19 19:55)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その8 (編集者, 2006/10/22 20:47)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その9 (編集者, 2006/10/23 7:42)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その10 (編集者, 2006/10/23 7:56)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その11 (編集者, 2006/11/24 8:00)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その12 (編集者, 2006/11/24 8:09)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その13 (編集者, 2006/11/25 8:57)
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その14 (編集者, 2006/11/25 9:30)
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Re: 朝鮮生まれの引揚者の雑記 (HI0815, 2006/12/26 8:58)
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編集者
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投稿数: 4298

同僚医師の選んだ道
高周波病院医局は内科三、小児科、歯科各二、産婦人科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻科各一、薬剤師二の構成で、産婦人科医長が院長、小児科医長が副院長、内科の一人と歯科とは朝鮮人だった。内科の一人は敗戦直前に応召したので、八月十五日以後の内地人医師は十人で小児科の一人は女医さんだった。
内科医長の私は昭和十三年、外科医長は十四年、まだ工場内医務室の時からの古参者で、他の八人は十六年病院開設前後にきた人たちである。工場は十二年の創業なので、私が赴任した頃からの従業員には草創期《そうそうき=くさわけ》に一つ釜の飯を喰った同志感の繫《つな》がりがあった。
日本が負け工場の仕事の様子は変わったようだが、病院は電気、水道等の係と同じように仕事を続けた。内科には赤痢の入院患者もいた。しかし二十三日にロスケがきてからは医療のことなどは論外の混乱状態になり、八月の末に病院は解散、高周波病院は消滅した。
解散後の私のことは、すでに記した。
抑留邦人が十数人の残留者を除き二十一年十一月に城津《ソンジン》を引き揚げるときは、婦、歯、外、内科の四人の医師が残っていた。婦、歯の二人は脱出を失敗して残されていたので、最後まで自発的に残留をしたのは外、内の二人である。
ドイツ語で内科、外科の二つをグロース(大)ファッファ(科)という。日本では古くから内科は本道と呼ばれていた。私たち二人は別に申し合わせた事はないが、混乱のときにもずっと仕事を続けていた。
私としては医の本道の矜持《きょうじ=自負》であり、全く想像もしていなかった未曾有《みぞう=いまだかってない》の状況に当たって対処すべき「医師のあり方」は、一つしかないと迷うことはなかった。
他の六人が取ったいき方に、私には容認出来ない事があったが、ここではこれ以上記すのを止める。
以上の文だけでも ここに入れ印刷しようと思ったがそれも止めにした。
追記
記念誌を印刷するときに、(イズレ書クコトニナロウ)を消さずにしまい、「同僚医師の選んだ道」は表題だけになった。高周波病院の所で高田さんのことを載せただけで、断りを書いた。
以下の記載は自家の記念誌の末尾につけて置くものとして残す。事情を知っている安藤、本庄君の二人には送っても良いだろう。
1
敗戦直後まだ鉄道が動いていて、北からの朝鮮人が多数南におりているとき、いち早く同僚の外科医員がいなくなった。予備役軍医大尉で大学は私の後輩になる。戦地の経験から敗戦がどんなものか知っているのだろう。ロスケの来る前にまだ小さな子供と細君を連れての決断だった。京城《ソウル》に行けたものと思っていたが、ずっと後になって知った話しでは三十八度線を抜けられずに北朝鮮で冬を越し、自分も発疹チフスにかかり、大変な苦労をしたと言う。
2
病院社宅から立ち退きを言はれ、引越しをして間もない十月の朝、二軒さきの家にいる看護婦養成所の生徒が「目をさましたら家の人たちが居なくなっている」と言ってきた。
耳鼻科と皮膚科の二家族が引越し先で同居していて、これと歯科医員の家族とが親戚の会社の技術系課長一家と計画した闇船で脱出に成功した。身寄りの無い子供らを職員が預かって面倒を見る事にしていたのだが、生徒らは置き去りにされた。この一行は無事南鮮に着き、京城《ソウル》出て年内に内地に還えった。帰国後一人は細君を亡くした。また一人は早く亡くなり会わずに仕舞った。
3
ロスケの乱暴、狼藉《ろうぜき》が始まると、百人余りの者は、人民委員会から朝鮮復興に協力を求められた。病院の医師では小児科医二人は外されていた。
一人は女医さん。ロスケにとっては、医師も看護婦も若い女として狙《ねら》う対象に変わりはない。独身で両親と同居していたが、ひたすら身を潜《ひそ》めていて、年が明けて無事帰国した。東京で私の一年上の先輩で立正会の友人と結婚し、その後も何回か会っている。
も一人の小児科医は副院長、工場の幹部の家族と朝鮮人の工員の家族との診察態度の違いが気に入らぬので私は嫌いだった。私たちには慇懃《いんぎん=丁寧》であり、細君も社宅では内助の功に励んでいる感じだった。私は副院長就任はその人に非ずと反対したが、敗戦の非常の時に院長を助けることはなく、北から逃避中の患者さんからは不満の声を聞いた。ロスケが来てからは、病人を診ることはしなくなり、年が明けて一般の者と一緒に闇船で帰国した。
帰国後は東北の港街に精神病院を経営していたようだ。三十四年頃に全国の医師名簿を調べたとき、経歴に城津《そんじん》高周波工場付属病院長とあった。この人らしい「故意の誤植だな」とおかしくなった。城津の仲間でこだわりのない細君たちが訪ねていき、一番羽振りが良くて大いに歓待されたと話してくれたが、私は近くに観光に行ったときも声をかけなかった。歯科医長の葬儀のときに初めて会ったが話はしなかった。
5
歯科医長と高田さんについては先に記した。
高周波病院医局は内科三、小児科、歯科各二、産婦人科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻科各一、薬剤師二の構成で、産婦人科医長が院長、小児科医長が副院長、内科の一人と歯科とは朝鮮人だった。内科の一人は敗戦直前に応召したので、八月十五日以後の内地人医師は十人で小児科の一人は女医さんだった。
内科医長の私は昭和十三年、外科医長は十四年、まだ工場内医務室の時からの古参者で、他の八人は十六年病院開設前後にきた人たちである。工場は十二年の創業なので、私が赴任した頃からの従業員には草創期《そうそうき=くさわけ》に一つ釜の飯を喰った同志感の繫《つな》がりがあった。
日本が負け工場の仕事の様子は変わったようだが、病院は電気、水道等の係と同じように仕事を続けた。内科には赤痢の入院患者もいた。しかし二十三日にロスケがきてからは医療のことなどは論外の混乱状態になり、八月の末に病院は解散、高周波病院は消滅した。
解散後の私のことは、すでに記した。
抑留邦人が十数人の残留者を除き二十一年十一月に城津《ソンジン》を引き揚げるときは、婦、歯、外、内科の四人の医師が残っていた。婦、歯の二人は脱出を失敗して残されていたので、最後まで自発的に残留をしたのは外、内の二人である。
ドイツ語で内科、外科の二つをグロース(大)ファッファ(科)という。日本では古くから内科は本道と呼ばれていた。私たち二人は別に申し合わせた事はないが、混乱のときにもずっと仕事を続けていた。
私としては医の本道の矜持《きょうじ=自負》であり、全く想像もしていなかった未曾有《みぞう=いまだかってない》の状況に当たって対処すべき「医師のあり方」は、一つしかないと迷うことはなかった。
他の六人が取ったいき方に、私には容認出来ない事があったが、ここではこれ以上記すのを止める。
以上の文だけでも ここに入れ印刷しようと思ったがそれも止めにした。
追記
記念誌を印刷するときに、(イズレ書クコトニナロウ)を消さずにしまい、「同僚医師の選んだ道」は表題だけになった。高周波病院の所で高田さんのことを載せただけで、断りを書いた。
以下の記載は自家の記念誌の末尾につけて置くものとして残す。事情を知っている安藤、本庄君の二人には送っても良いだろう。
1
敗戦直後まだ鉄道が動いていて、北からの朝鮮人が多数南におりているとき、いち早く同僚の外科医員がいなくなった。予備役軍医大尉で大学は私の後輩になる。戦地の経験から敗戦がどんなものか知っているのだろう。ロスケの来る前にまだ小さな子供と細君を連れての決断だった。京城《ソウル》に行けたものと思っていたが、ずっと後になって知った話しでは三十八度線を抜けられずに北朝鮮で冬を越し、自分も発疹チフスにかかり、大変な苦労をしたと言う。
2
病院社宅から立ち退きを言はれ、引越しをして間もない十月の朝、二軒さきの家にいる看護婦養成所の生徒が「目をさましたら家の人たちが居なくなっている」と言ってきた。
耳鼻科と皮膚科の二家族が引越し先で同居していて、これと歯科医員の家族とが親戚の会社の技術系課長一家と計画した闇船で脱出に成功した。身寄りの無い子供らを職員が預かって面倒を見る事にしていたのだが、生徒らは置き去りにされた。この一行は無事南鮮に着き、京城《ソウル》出て年内に内地に還えった。帰国後一人は細君を亡くした。また一人は早く亡くなり会わずに仕舞った。
3
ロスケの乱暴、狼藉《ろうぜき》が始まると、百人余りの者は、人民委員会から朝鮮復興に協力を求められた。病院の医師では小児科医二人は外されていた。
一人は女医さん。ロスケにとっては、医師も看護婦も若い女として狙《ねら》う対象に変わりはない。独身で両親と同居していたが、ひたすら身を潜《ひそ》めていて、年が明けて無事帰国した。東京で私の一年上の先輩で立正会の友人と結婚し、その後も何回か会っている。
も一人の小児科医は副院長、工場の幹部の家族と朝鮮人の工員の家族との診察態度の違いが気に入らぬので私は嫌いだった。私たちには慇懃《いんぎん=丁寧》であり、細君も社宅では内助の功に励んでいる感じだった。私は副院長就任はその人に非ずと反対したが、敗戦の非常の時に院長を助けることはなく、北から逃避中の患者さんからは不満の声を聞いた。ロスケが来てからは、病人を診ることはしなくなり、年が明けて一般の者と一緒に闇船で帰国した。
帰国後は東北の港街に精神病院を経営していたようだ。三十四年頃に全国の医師名簿を調べたとき、経歴に城津《そんじん》高周波工場付属病院長とあった。この人らしい「故意の誤植だな」とおかしくなった。城津の仲間でこだわりのない細君たちが訪ねていき、一番羽振りが良くて大いに歓待されたと話してくれたが、私は近くに観光に行ったときも声をかけなかった。歯科医長の葬儀のときに初めて会ったが話はしなかった。
5
歯科医長と高田さんについては先に記した。
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編集者 (代理投稿)