平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.3051]
名誉の戦死
投稿者:Pan
投稿日:2016/09/08(Thu) 14:08
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みなさん、こんにちは。
正確な年は覚えていませんが、小学生の時です。
太平洋戦争が始まって、未だ勢いに乗っていた頃です。
祖父の妹の叔母は男の子2人が相次いで徴兵にあい、たっ
た一人で残されました。
その次男の方が伝書鳩を飼うのが好きで、時々遊びに行っ
てはハトの運動のために放つのを見るのを楽しみにしていま
したので「ハトのおばちゃん」と呼んでいました。
その兄の方が、ビルマ戦線だったかと思うのですが戦死し
ました。
私達親戚家族が当時の京都駅に迎えに行ったときは専用の
「英霊室」と言うのがあって、白木の箱はそこに祀られてい
ました。
市電に乗って叔母の家の近くで下りたとき、目を奪われま
いた。
市電の停車場から叔母の家まで、近くの小学校の全校生徒
達が並んで迎えに来てくれていたのです。
その列の間を私達は静々と歩きました。
そんなことは一回限りでした。
その弟も1年程後には戦死しましたが、白木の箱を受け取
りに来るようにと通達があり、私の父が叔母の代理で受け取
りに行きました。
父が週に一回ほどご機嫌伺いに立ち寄っていましたが、あ
る時行ったら、炬燵にもたれて亊切れていました。
その時にはハトが全部小屋の中で飢え死にしていました。
戦後すぐ、父がその叔父の遺骨の箱を開けました。
私も横から覗いていましたが、陶器製の骨壺の中には、そ
の叔父の名前を書いた薄い板が1枚入っていました。
***** Pan *****
[No.3050]
神様の伴走者
投稿者:男爵
投稿日:2016/09/06(Tue) 18:29
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神様の伴走者
マンガの神様と言われた手塚治虫にも
伴奏し苦労を共にした編集者たちがいた。
13人の"手塚番" そして手塚死後の手塚プロダクション社長と最初のアシスタントも
https://www.shogakukan.co.jp/books/09388149
昭和天皇の死
それを追うかのように手塚治虫の死
そして
美空ひばりが死んだとき
私の昭和が終わりました。
[No.3049]
Re: 土地のいわれ
投稿者:男爵
投稿日:2016/09/06(Tue) 06:58
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寒梅さん、唐辛子紋次郎さん、皆さん こんにちは
> 気の利いたお話ではないのですけれどキャサリン台風では罹災してしまいまして
> 荒川 熊谷土手の決壊。疎開しておりました父方の実家も床上40センチ水の押寄
> せる速さを実感しました。大きな箕田耕地は巨大な湖と化し井戸もお手洗いも
> 一緒くた 赤痢が出まして消毒・・。
>
> 荒川の決壊場所を見に行きました。
荒川の洪水 写真が載っています。
http://www.supercom.ecweb.jp/magazine/23/hakubutukann4.pdf
かつては隅田川が荒川の本流で,現在の荒川のほうは,治水のため人工的に作られた川(昔は荒川放水路と呼んでいました)なのです。
私は
荒川知水資料館ではなく、もっと浅草に近い隅田川のほとりの資料館で
荒川や隅田川の洪水の写真を見たことがあります。
洪水の悲劇の歴史を繰り返して、堤防やダムがつくられていったのです。(川を分流する工法も)
カスリン台風やアイオン台風の被害のあとに
北上川五大ダム計画がたてられ、つぎつぎにダムがつくられました。
[No.3048]
Re: 土地のいわれ
投稿者:唐辛子紋次郎
投稿日:2016/09/05(Mon) 21:01
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寒梅さん、こんばんは。
あっしにはよく分かりませんが、ご実家は長野県の小谷(オタリ)村でしょうか。だとすると、この辺りは地形上、大雨の際に大量の水が噴出するので、『ヤフーの知恵袋』ではタリという音が、地名に残っているのではないかと書いていますね。
つまり、昔からよく水害に悩まされたのでこの、オタリという地名が付いたのでは、ないでしょうか。(最初のオは、かざりというか、あまり意味のない言葉と思います。)
あっしも若い頃はよく、水害に遭ったので、床上、床下の怖さは、多少は知っている心算です。
[No.3047]
Re: 土地のいわれ
投稿者:寒梅
投稿日:2016/09/05(Mon) 15:53
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皆さんこんにちは
紋次郎さんのお話はウイットに富んでいて
>こんどはハロー・キティー☆になって、世界中に出て行きましたね。
拍手。
気の利いたお話ではないのですけれどキャサリン台風では罹災してしまいまして
荒川 熊谷土手の決壊。疎開しておりました父方の実家も床上40センチ水の押寄
せる速さを実感しました。大きな箕田耕地は巨大な湖と化し井戸もお手洗いも
一緒くた 赤痢が出まして消毒・・。
荒川の決壊場所を見に行きました。
小谷村糠田 このあたりのお家では天井に船がくくりつけてあったそうです
昔の地名はそれゆえの示唆があるのですね。
寒梅
[No.3046]
Re: 台風の名前
投稿者:唐辛子紋次郎
投稿日:2016/09/05(Mon) 10:33
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みなさん、こんにちは。
戦後はいろいろアメリカ婦人の名をベンキョーさせられましたね。カスリン、アイオン、キティ、デラ、へスター、ジュディ、ジェーン、キジア、ルース、ダイナ等々。
戦後の台風で一番エライのはやはり、キティーじゃあないでしょうかね。なにしろ、里見とんや福田恒存の文学作品を生みだしたんですからね。
キティーはアメリカ婦人の名だというので、第一号台風のキャサリンと同じことなんでしょうね。同じ日本に2,3年の間に2回もやって来たとおもったら、こんどはハロー・キティー☆になって、世界中に出て行きましたね。
今は台風にアジア名と云うのがあり、12号はウィパー。女の名でつぎの13号は男で、フランシスコだそうですね。
ほかでは、風神や雷神なんていうのはわかるけれど、プリン、マンゴスティンなんてのは、なにか可笑しい。だいたい、そんなヤワな紋じゃないと思いますがね。
イソギンチャクも場違いなら、なまずなんてのも、ひょっとしたら勘違いではないでしょうかね。日本だったら、なまずの担当エリアは、昔から地震と決まっています紋ね。(^_-)-☆
☆もちろん、子ネコちゃんの意味もありますが。
[No.3045]
Re: 台風の名前
投稿者:男爵
投稿日:2016/09/05(Mon) 05:31
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マーチャン、 Panさん、 みなさん おはようございます。
> > 戦争直後は日本でも外人さんの女性の名前がついていました。
> > 「キティ台風」なんていうのもありましたね。
> 覚えていますよ。キャサリン颱風なんてのも。
カスリン台風(キャサリン台風)、アイオン台風で記録的な被害を受けた。
> > 米軍の担当者が「奥さんが荒れ狂う姿」を思い出して名付けた、という話も聞きました。
たとえば ジャイコ台風、アッコ台風
聞くところでは、いまではアメリカも
男女交互に台風の名前をつけるとか。
[No.3044]
Re: 紙芝居
投稿者:KEN
投稿日:2016/09/05(Mon) 04:47
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めぐみさん Panさん、まやさん お早う御座います。
>
> 紙芝居が回って来ましたね。 親が反対だったのかどうか知りませんが、あまり見た記
> 憶がありません。
>
> りますので、毎日のお小遣いは貰っていたようです(一日2銭だったかな?
> キャラメルやグリコが一箱5銭、夏みかん一個が買えたころの話です。)
>
小学4年生の頃まで、京都伏見に住んでいた頃です、近くに広場(ひろっぱ)に
毎日決まった時刻に拍子木をならして来ました、1銭玉を握りしめた見に行きました。
小遣いは毎日1銭か2銭でした、駄菓子屋が2軒ありまして、あてもんが1銭、ドングリが3個で1銭ETCでした。
縁日(御香宮、ごこんさん)には10銭玉貰い、境内の屋台店、サーカスを1日中見て回ったのが楽しい記憶です。 KEN
[No.3043]
Re: 練炭・豆炭
投稿者:まや
投稿日:2016/09/05(Mon) 00:07
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Panさん、こんばんは!
> 練炭は明治時代からあったようですね。しかもあの形は日本の発明とか。
>
> 私の子供の時からあって、家庭内の主要な熱源でした。
> 暖房だけでは無く、御飯炊きにも使っていたような気がします。
>
> 最近でも冬の屋外レジャーなどで使われているようで、今や耳に入って
> くるのは、自動車の中で練炭を使って一酸化中毒になった話しだけです。
>
> 寒冷期の養蚕業では大型の練炭を使ってました。
私は福岡県の田川市出身、父は三井田川で働いていましたし、職員には石
炭などの配給があり、冬の暖房は石炭ストーブを使用、風呂も石炭で沸かし、
料理も無煙炭(炭化が進んで煤煙を出さずに燃焼して高い火力を出す石炭の
一種)を使っていました。
炭鉱に勤務していない人の家庭には配給がありませんが、練炭や豆炭があ
りましたから、そういうのを使っていたので、とても身近に思います。いつ
か、もっと便利なプロパンガスに代わってしまったようですが・・・
まや
[No.3042]
Re: 紙芝居
投稿者:まや
投稿日:2016/09/04(Sun) 23:09
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Panさん、めぐみさん & みなさん、今晩は!
> 紙芝居が回って来ましたね。 親が反対だったのかどうか知りませんが、あまり見た記
> 憶がありません。
>
> あれは飴を買わないと見られない暗黙のルールだったのかな?
紙芝居をよく見たのは小学校の4年生ごろでしたから、昭和16年くらいです。
私のイナカに回ってくる紙芝居屋さんは二人いて、一人はバイオリンを片手に
ナレーションを入れていましたので、人気がありました。戦前のことですね。
(この方も来なくなって、召集令状で出征なさったという噂がありました。)
この紙芝居の小父さんのことを記憶しているのですから、毎日小遣いを遣え
たのだと思いますが月額で貰っていたかどうか記憶していません。でも、夏に
は夏みかんを買って特性のドリンクを作ったり、かき氷を食べていた記憶があ
りますので、毎日のお小遣いは貰っていたようです(一日2銭だったかな?
キャラメルやグリコが一箱5銭、夏みかん一個が買えたころの話です。)
田舎の農業用水で泳いだり小石拾いをして遊んだ話や、小川でゴヒナ(ニナ
とも言う)を拾い集めてきて茹でておやつにしたことなど・・・これは以前に
も話題にしたことがありますので・・・。
まや
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