平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.3267]
Re: 昭和レトロな茶碗
投稿者:男爵
投稿日:2017/05/03(Wed) 15:09
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画像サイズ: 816×612 (81kB)> 話を広げるために
> 海外旅行での写真をお見せします。
韓国では
金属製の食器が多いのですが
それでも陶磁器で食べたこともあります。
記憶していないで
改めて見てみたら陶磁器だった。
もしかしたらプラスチック製品?
[No.3266]
Re: 昭和レトロな茶碗
投稿者:男爵
投稿日:2017/05/03(Wed) 15:07
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画像サイズ: 600×411 (38kB)夏子さん こんにちは
> ふと、昔のことを思い出したのですが、私が子供の頃、まだ戦後に近い頃でしょうが、
> 味噌汁も、陶磁器の茶碗で頂いていました・・・ような記憶があります(^^ゞ
亡き父は、一人だけ、汁物には陶磁器の茶碗を使っていましたね。
話を広げるために
海外旅行での写真をお見せします。
香港での食事。
当然ながらスープも、陶磁器で。
[No.3265]
昭和レトロな茶碗
投稿者:夏子
投稿日:2017/05/03(Wed) 11:34
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ふと、昔のことを思い出したのですが、私が子供の頃、まだ戦後に近い頃でしょうが、
味噌汁も、陶磁器の茶碗で頂いていました・・・ような記憶があります(^^ゞ
今は、木製のお椀が主流でしょうが、木製に似せたプラスチック製のお椀もあります。
戦前のことは知りませんが、陶磁器汁椀というのは、まさに昭和レトロという感じ。
ネットで検索すると、これがなかなか出て来ない。
やっと見つけました(^o^)/
http://kumapage.blog.fc2.com/blog-entry-2241.html
うん、確かにこんな感じでした。ご飯茶碗とは、明らかに違っています。地味と言うか、
せいぜい2色使いで、柄らしい柄はなかったな。
もう一つ、見つけました。
http://news.kurano-naka.com/?eid=787316
こういうのもあった気がしますが、うちのは無地の2色使いだった気がします。
皆さんのお宅でも、こういう汁茶碗を使っていらしたことはありませんか?
上の2色使いのほうの茶碗、オークションで2個セット2千円で出品されていました。
他のレトロな飯茶碗に比べて、高い値付けですが、なかなか見つからなかったくらい
だから稀少価値があるのかもしれません。
庶民の器だったと思います。
夏子
[No.3264]
出でよ、平成の言葉
投稿者:夏子
投稿日:2017/05/01(Mon) 16:29
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昭和の思い出というわけではなく、敢えて言えば、昭和までの話ですね。
昔は、今の太平洋側とか日本海側という呼び方を、表日本・裏日本と言っていましたね。
「裏日本」育ちの私、当時は別に取り立てて差別とは思いませんでしたが、確かに
今では、差別的表現と思いますね。
「裏」という言葉には、差別の意味はないと言われていますが、差別的に使われる
ことも多いです。
裏の顔とか、裏稼業とか、裏表のある人とか、裏口入学とか・・・・
そういう、ごく一般的に使われてきた差別語とも言える表現で、未だに残っている
言葉がたくさんあります。
表日本・裏日本のように、別の表現に置き換えられてきた言葉もありますが、
他に代わる言葉が探せないのか、それとも大したことがない表現と思うのか、結構
ありますね。
山陽・山陰などもその一例かも。山陰という言葉のイメージのせいか、山陰は雨が
多くてジメジメしていると思われがちです。冬は確かに、山陽側より寒々と陰鬱な
こともありますが・・・と言うように、「陰」はいい意味には使われない(^^ゞ
「陽気な人」は褒め言葉、「陰気な人」はその反対の意味しかないですね。
「陽子ちゃん」はいても「陰子ちゃん」なんて聞いたことがない(^^ゞ
そのせいかも知れませんが、山陰の企業で「北陽」というのもあります。
『東西南北』には、昔も今も、優劣のイメージはありませんから。
性別にかかわる言葉では、現在では絶対に差別的、と思える表現が多いと思われませんか?
私が学校に通っていた昭和の頃は「父兄会」とか「父兄」というのはごく普通に
使われていました。当時から「保護者」「保護者会」もあったんですけどねぇ。
「女・子供」という侮蔑的表現も、まだ頑張っているなぁ(^^ゞ
「女賢しゅうして牛を売りそこなう」は、だいぶ衰えてきていると思うが・・・
「主人」「奥さん」「家内」「嫁」・・・これらも嫌う人は多いけれど、ではどう
表現すればいいの?? 意識の進んだ地域では「お宅の夫さん」というらしいけど。
「夫」そのものは、かなり使われだしていますが、「夫さん」はまだまだ。
我が家の近所では、「未亡人」が増えていますが、「私は未亡人だから」と言ったら、
近所の人(女性)に叱られました(^^ゞ 確かに、文字を見ると差別的ですよね。
けど、それなら何と言えばいいの?? これも現代にふさわしい言葉はまだないような。
夏子
[No.3263]
Re: 父の日の丸
投稿者:男爵
投稿日:2017/04/25(Tue) 19:01
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さんらく亭さん、 Panさん、みなさん こんばんは。
> > 国防婦人会の人達が千人針を集めておられたのと同時期でしたね。
> > さすがに千人針には一度も参加した事はありません。
> 千人針ありましたね。隣組で回ってきて母親が刺していました。
九段下の「昭和館」に入って
当時のものを色々見たことがあります。
http://www.showakan.go.jp/floor/6f7f/index.html
○召集令状
○千人針
虎の絵姿を糸玉まで結ぶ それができるのは寅年生まれの女性。
五銭硬貨 四銭(死線)を越える
十銭硬貨 九銭(苦戦)をまぬかれる
などが縫い付けられていた。
日の丸の寄せ書きもありましたね。
竹製ランドセル
陶器製アイロンや湯たんぽ
紙のヘルメット
同じような展示が、埼玉県平和資料館にもあります。
http://www.saitama-peacemuseum.jp/publics/index/8/
しかし、ごく一部を除いて、撮影禁止になっているのが残念なことです。
[No.3262]
Re: 父の日の丸
投稿者:さんらく亭
投稿日:2017/04/25(Tue) 18:12
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Panさん、みなさん こんにちは
> 国防婦人会の人達が千人針を集めておられたのと同時期でしたね。
> さすがに千人針には一度も参加した事はありません。
千人針ありましたね。隣組で回ってきて母親が刺していました。
> 私より七歳年上の叔父は軍需工場に勤務していましたが、その旗は準備
> していました。
叔父(父の弟)4人とも中国大陸と佛印へ出征したので慰問袋をつくって中にいろいろ詰め込んだのを覚えています。手紙のほか、菓子(グリコが多かった)、正露丸、梅干などが喜ばれたようです。こういう記憶も我々の世代で消えていきます
さんらく亭@甲子園
[No.3261]
Re: 父の日の丸
投稿者:Pan
投稿日:2017/04/23(Sun) 22:36
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さんらく亭さん、みなさん こんにちは
> この日の丸は大切に持ち帰ったようですが秘かに隠してたので家族の誰も知りませんでした。死後かなり経ってから偶然に発見したものです。庶民の昭和史の一端を物語る記念の品として保管したいと思っています。
この写真を見てはっとしました。
国防婦人会の人達が千人針を集めておられたのと同時期でしたね。
さすがに千人針には一度も参加した事はありません。
当時は未だ中学生でしたが拙い文字で署名をしたことが何回かあります。
私より七歳年上の叔父は軍需工場に勤務していましたが、その旗は準備
していました。
敗戦の数日後、この叔父に会っ時、「戦争に行かなくて良かったね」と
言ったら、本気で怒られことを覚えています。
なぜ覚えているかというと、その後数年経って、その叔父も覚えていた
のでしょうね、敗戦とっさの時には本気でそう思ったけれど、少し経った
ら行かなくて良かったとしみじみ思うようになったと謝ってくれました。
彼はもう90歳を越しているとと思いますが、多分その旗は今も持って
いると思います。
***** Pan *****
[No.3260]
Re: 父の日の丸
投稿者:さんらく亭
投稿日:2017/04/23(Sun) 12:03
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男爵さん、こんにちは
> 無事に帰られて良かったですね。
有難うございます。
捕虜収容所で残虐行為がなかったか調べられたが、捕虜に対する扱いは紳士的だったことを米兵自身が証明してくれたので助かったそうです。上司の収容所長も法廷で無罪になったと聞いています。
> 父親が戦死して、母子家庭となった人たちが身の回りにたくさんいます。
> その人たちの中から、靖国神社肯定論があります。
私の身内にも日露戦争以来、今次大戦までの戦没者遺族が何人か居ます。
遺族にとって靖国は再会と慰霊の場であって「論」の場ではありません。
静かに参拝したいところです。
さんらく亭@甲子園
[No.3259]
Re: 父の日の丸
投稿者:男爵
投稿日:2017/04/22(Sat) 19:41
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さんらく亭さん、 みなさん こんにちは
> 亡父(明治32〜昭和62)に終戦間際の昭和20年3月に召集令状が来て応召するとき、職場や知己の人達から武運長久を祈って寄書きされた日の丸です。......右隅に「応召 昭和20年3月25日」とあります。
> 当時亡父は神戸市内で46才の会社員。「俺みたいな年寄りに赤紙が来るとは日本ももうアカンな」と呟いたそうな。......後で知ったことですが行く先は外地ではなく、青森県弘前にある捕虜収容所の副所長としてでした。汽船会社で貿易や海上保険の仕事で英語が多少はできるというのが理由だったと聞きました。
無事に帰られて良かったですね。
父親が戦死して、母子家庭となった人たちが身の回りにたくさんいます。
その人たちの中から、靖国神社肯定論があります。
[No.3258]
父の日の丸
投稿者:さんらく亭
投稿日:2017/04/19(Wed) 17:16
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