平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.2675]
Re: 三助
投稿者:寒梅
投稿日:2015/11/26(Thu) 17:15
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マサちゃん、夏子さんこんにちは。
>
> > 僕が子供の頃、銭湯に行くと「ポン ポーン」という大きな音がしたものです。
> > 三助という職業の人が、洗い場で垢すりや按摩をサービスしていました。
> > 「ポン ポーン」というのは、肩に手ぬぐいをかけてうまく叩くと、この大きな音が出た
> > ように記憶しています。
>
> 三助という職業があったことは知っていましたが、あれは昔・・・時代劇とかの頃の
> ことかと思っていました(^^ゞ
そう三助さんおりましたね、戦後は見かけなくなりましたけれど、
当地では20年ほど前ビルに建て変わった銭湯で三助さんを置きましたが成り立たない
ようで間もなく廃止されました、そして廃業になりました。歩いて10分圏内で6軒ほど
の銭湯が廃業です。良い社交場ですのにね。
私達の子育ての頃は「おばさん」がいらして 母親の洗い終わる頃合に赤ちゃんの
衣類を脱がせてくれて 出るときを待っていてバスタオルで受けてくれていました。
若い母親にはとっても良い相談相手になってくれてました。
寒梅
[No.2674]
Re: 原節子 9月に旅立っていた
投稿者:寒梅
投稿日:2015/11/26(Thu) 16:48
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男爵さん、こんにちは。
先日11月に入ってYouTubeで偶然原節子さんにめぐりあいました、で「青い山
脈」そして「麦秋」をみることができました。
原節子さんどうしていらっしゃるかなぁとWikipediaで検索してみたのですよ、
「永遠の処女」といわれています等など 本当に憧れの女優さんでした。
ニュースはありませんでしたけれど、そのときはもう亡くなられていたのですね。
「めし」を観たころは自分も若かったなぁと思いかえしています、も一度みたい
ですね。
男爵さんお知らせありがとうございました。
寒梅
[No.2673]
原節子 9月に旅立っていた
投稿者:男爵
投稿日:2015/11/26(Thu) 15:18
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昭和の大スター、元女優の原節子(本名・会田 昌江)さんが9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去したことが25日分かった。95歳。横浜市出身。1963年(昭38)の映画出演を最後に表舞台には出ず、その後の生活はほとんど知られていなかった。
5歳「東京物語」「晩春」
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6182090
ひとつの時代が終わった感じ。
[No.2672]
Re: 三助
投稿者:夏子
投稿日:2015/11/26(Thu) 09:38
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マサちゃん、こんにちは。
> 僕が子供の頃、銭湯に行くと「ポン ポーン」という大きな音がしたものです。
> 三助という職業の人が、洗い場で垢すりや按摩をサービスしていました。
> 「ポン ポーン」というのは、肩に手ぬぐいをかけてうまく叩くと、この大きな音が出た
> ように記憶しています。
三助という職業があったことは知っていましたが、あれは昔・・・時代劇とかの頃の
ことかと思っていました(^^ゞ
もっとも、私は銭湯に行ったこと自体が、今までにたった1回しかないので、知らない
のかも分かりませんが。温泉も、せいぜい10回止まり。 知り合いと裸の付き合いを
することは恥ずかしくって・・・(^^ゞ
> 三助は男の職業ですが、女湯の方からも時々は、この「ポン ポーン」と音がしていまし
> ていました。
> 銭湯が好きで今でも時々行きますが、何時の頃からか三助は見かけなくなりました。
マサちゃんは、都会のお育ちなんですかね? 私は、周囲の人からも、一度も三助さんが
いた、という話を聞いたことがありません。田舎にはない職業だったのかも。
夏子
[No.2671]
三助
投稿者:マサちゃん
投稿日:2015/11/25(Wed) 07:02
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僕が子供の頃、銭湯に行くと「ポン ポーン」という大きな音がしたものです。
三助という職業の人が、洗い場で垢すりや按摩をサービスしていました。
「ポン ポーン」というのは、肩に手ぬぐいをかけてうまく叩くと、この大きな音が出た
ように記憶しています。
三助は男の職業ですが、女湯の方からも時々は、この「ポン ポーン」と音がしていまし
ていました。
銭湯が好きで今でも時々行きますが、何時の頃からか三助は見かけなくなりました。
[No.2670]
Re: メロウ伝承館に「「描き残したい昭和(新見 睦)」から」を
投稿者:tenbosch
投稿日:2015/11/23(Mon) 14:38
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マーチャン、こんにちは。
> 子孫に残せるように「メロウ伝承館」に転載することをお願いしましたところ
>
> 快諾を得ましたので、今日から少しずつ掲載してまいります。
絵がとても素晴らしいですね、見てるだけで私も当時を思い起こしました。
私が、カメラを初めて手にしたのが、昭和30年の夏だったと思います。
マミヤの35ミリ カメラで約15,000円程でした。
この様な絵を見てると懐かしく、気持も若返りそうです。
TENBOSCH
[No.2669]
Re: メロウ伝承館に「「描き残したい昭和(新見 睦)」から」を
投稿者:マーチャン
投稿日:2015/11/22(Sun) 14:17
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夏子さん みなさ
> 今回の絵も、画中にちょっとした説明などが書かれていて、やはり、後世に残したい、
> という強い気持ちが表われているのは同じだと思いました。
そうなのです。
ケータイやスマホの普及で「一億層カメラマン」になってしまった今とは違い
高度成長期にになって家庭用のカメラが普及するまで、写真というものは
主として「記念撮影」だったのですね。
だから、家庭内の普段の生活を写真にするというのは一般的ではなかったのです。
メロウ伝承館にも「家庭用ミシン」「洗濯板」「スリコギ」などの写真はあります。
でも、それらをどういう環境でどのように使ったのかを後世の人達に理解してもらうのは難しい。
「絵}があると、随分助けになります。
[No.2668]
Re: 日光写真→青写真
投稿者:男爵
投稿日:2015/11/21(Sat) 15:54
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Panさん
> 子供の頃「日光写真」と言うので遊んだことを思い出しました。
> 専用の印画紙にネガ・フイルムを重ねて、暫く直射日光に当てておくのです。
日光写真のネガ・フイルム、といっても、ぺらぺらのセロファンみたいな
薄い紙でしたが
それを少し持っていて、父が近所の子供たちに与えていました。
父は駄菓子屋ではなく、学校の教師でした。
父の遺品の中から、それを見つけたことがあります。
四国の大学の先生にあげたら「懐かしい」と言われました。
KOZARUさん
>社会人になって(昭和30年代前半)職場では「青焼きの図面」が残っていました。同じ原理のように記憶しています。
思い出して
当時の図面や計算書や大学時代のプリントなど
調べてみました。
私の場合 昭和40年代から0年代まで
研究論文や報告書や講義の資料などのコピーとして
この青焼きはポピュラーでした。
講義資料の青焼きコピーの原紙をつくるのが大変だったと思います。
特殊な機械が必要?
学会の論文を投稿するときも、査読者三人のために
それぞれコピーしなくてはならず、その上自分の保管用にもコピーしたので
学会の論文の原稿用紙は薄い紙でした。
この薄い原稿用紙に書いて、青焼きの機械でコピーしたのです。
いまのようなコピー機が普通になったのは
その後だと思います。
[No.2667]
Re: 日光写真→青写真
投稿者:まや
投稿日:2015/11/21(Sat) 12:48
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Panさん、KOZARUさん & みなさん こんにちは!
> > 私も同じもので遊んだ記憶があります。
> > 社会人になって(昭和30年代前半)職場では「青焼きの図面」が残っていました。同じ原理のように記憶しています。
> > 当時のコピー図面は時間がたつと色あせるので一部の重要なものは青焼にと指示を受けた記憶があります。
>
Panさんが書いておられる日光写真にはかすかに記憶があります。
戦前の子供の頃の記憶です。写真のネガで遊んでいましたが、本当の印画紙は高価
でしたから、あまり遊べませんでした。
そして戦後のブループリント。これは製図関連でよく使われていたように記憶して
います。それで、私にはあまり関係のない仕事と割り切っていました。ただ、いろん
なことに計画とか計画書というような意味で「青写真」という言葉が使われていたよ
うに思います。
まや
[No.2666]
Re: メロウ伝承館に「「描き残したい昭和(新見 睦)」から」を
投稿者:夏子
投稿日:2015/11/21(Sat) 11:46
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マーチャン、みなさん、こんにちは。
> 子孫に残せるように「メロウ伝承館」に転載することをお願いしましたところ
>
> 快諾を得ましたので、今日から少しずつ掲載してまいります。
>
> ぜひぜひ、ご覧くださいませ。
拝見してきました。
素晴らしいものですね。メロウの皆さんにもお気に召すと思います。
絵がお上手で、だからこのようなことを始められたのでしょうが、
よく記憶しておられるなぁ、と感心しました。
どこか、素朴画のような雰囲気がありますね。
比較するのが適当かどうか分かりませんが、何年か前(10年以上前)、広島で
被爆者の記憶による当時の状況を描いた絵を募集して、かなり集まりましたが、
写真とはまた違う迫力がありました。
今回の絵も、画中にちょっとした説明などが書かれていて、やはり、後世に残したい、
という強い気持ちが表われているのは同じだと思いました。
夏子
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