特攻インタビュー(第3回)
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投稿日時 2012/2/9 8:40
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会
特攻ライブラリー取材スタッフ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「編注・当協会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員により「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当協会事務局(担当大澤)までご連絡下さい。」
◇ ◇ ◇
江名武彦氏軍歴(略歴)
飛行科予備学生第14期 海軍少尉
百里原航空隊 九七式艦上攻撃機偵察士
神風特別攻撃隊第三正気隊 鹿児島
県黒鳥付近海上に不時着
◇ ◇ ◇
○特攻ライブラリー取材スタッフ (五十音順)
及川 昌彦 世話人
神崎 夢現 進行・構成
倉形 桃代 記録
堤橋 律子 世話人
須貝 智行 写真撮影
高橋 暢 映像撮影
長尾 栄治 インタビュアー
◇ ◇ ◇
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆学徒出陣
--------江名さんの軍歴は、大学生に対する徴兵猶予停止による学徒出陣から始まると思うのですが、徴兵猶予の解除・停止令は突然の出来事でしたか?
江名‥昭和18年10月21日に、明治神宮外苑競技場で文部省主催の出陣学徒壮行会が行われました。その時に出陣学徒を代表して東大文学部の江橋慎四さんが答辞を読みました。全文は覚えていませんけど「時なる哉、学徒出陣の勅命、公布される」「我等、もとより生還を期せず」。徴兵猶予停止で出陣した学徒は、やはり自分は生きて帰れるかどうか……そういう問題については真剣に悩んで軍隊に入りました。
私も生きて帰れるかどうか厳しい戦局で、学徒としての覚悟を持って入隊しました。「我等、もとより生還を期せず」というのは、学徒の強い覚悟を述べた言葉です。
--------当時、正確な情報は国民に伝わっていなかったと言われますが、戦局が良くないということは認識されていたのでしょうか?
江名‥そうですね。各戦場における負け戦の報道というものはありませんでしたが、実際は昭和17年6月のミッドウェイ作戦以降、連戦連敗なんです。
それまでに進出した南太平洋の島々が次から次へとアメリカに奪還されて、だんだんと日本本土に攻め上がってくるという状況の中で、戦局の厳しさというものを、やっぱり国民はみんな感じていたと思います。私も日本の危急存亡だと感じました。
学徒出陣はニュース映画で有名ですが、その後、入隊するまでのことはあまり知られていません。壮行会から入隊までのことを教えて頂けますでしょうか。
江名‥これは個人的な話になりますけど、私は両親の許しを得まして京都・奈良・伊勢とまわり、日本文化を肌で感じて自分の気持ちを整理いたしました。
--------最初に徴兵検査を受けて、陸軍か海軍かを選ぶのでしょうか?
江名‥昭和18年10月の……3日でしたでしょうか、学徒出陣の正式な公報が出ましたのは。それから10月下旬に、各本籍地で徴兵検査があり、学徒兵がだいたい10万名出陣しました。海軍がそのうち1万5000名くらいじゃないかと思います。陸軍が8万5000名くらい。それを各地徴兵検査で徴兵官が振り分けるわけですね。
私は岐阜県出身ですから、美濃太田で兵隊検査を受け、その時に陸軍か海軍かと聞かれたので、私は海軍志望と答えて志望通りになりました。他の地方の兵隊検査では、それぞれ志望を言っても必ずしも志望通りにはいかなかったようです。8・5人を陸軍、l・5人を海軍に振り分けるわけですから。私は中学生から必須の「教練」という科目にあった三八式歩兵銃を担ぐ陸軍式の訓練が苦手でして、それで海軍を志望しましたら志望どおり海軍に行けたということです。
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆海軍飛行科予備学生
--------志望通り海軍に入られた印象はどうでしたでしょうか? 予想していた通りか、それとも予想と全然違った感じでしたか?
江名‥我々の一期先輩の第13期飛行専修予備学生というのは、昭和18年10月1日に海軍に入っているんです。だいたい5000名です。 その人たちは、すぐに予備士官になりました。我々は12月10日に海軍へ入っております。第13期と第14期は2カ月くらいの違いしかないんです。片っ方(13期)は志願兵で、我々(14期)は徴兵です。我々徴兵組は、陸軍とのバランスもあったと思いますが、水兵教育をする海兵団へ最初入ったわけです。私は本籍が岐阜県ですから、呉鎮守府の大竹海兵団に入りまして、一番下の位の二等水兵を2カ月間やりました。兵隊の教育を受けたわけですね。ですので、初めはどうして前期の者がいきなり士官待遇で、我々が水兵なのかと不平を言いましたけどね。その水兵の生活を2カ月間やったことは、後々、私はいい経験だったと思いました。
--------水兵から、すぐに予備士官になられたのですか?
江名‥ええ。陸軍も海軍もそうですけども、非常にパイロットが不足していたんですね。もう昭和18年になりましたら、開戦以来のパイロットはほとんど戦死して、早急にパイロットの養成が必要だということで。海兵団ですぐに予備学生の試験がありましたが、大半は飛行科に持っていくという海軍の方針があり、目の悪い者以外は、ほとんどが飛行科に選ばれました。もっとも予備士官の試験に受からなかった人も一部おりましたが。そこで先ほどの第13期が5000名、私たち第14期3000名がパイロットとして飛行科予備学生になったわけです。
--------飛行科予備学生になられて、海兵団から航空隊へ移動されたのでしょうか?
江名‥昭和19年1月31日に海兵団卒業。2月1日に茨城県の土浦海軍航空隊へ入隊。予科練で有名な航空隊です。そこで今度は厳しい士官教育を受けたわけです。
--------土浦航空隊では、具体的にどんな教育を受けられたのでしょうか?
江名‥まず士官としての「躾」ですね。本職の海兵は3年がかりで士官教育をするわけですが、私たちは2月から5月までの、わずか4カ月で士官に叩き上げられました。非常に厳しい士官教育でした。と同時に飛行科としてのベーシックな勉強、発動機、通信、飛行機に関する諸々の座学をそこでみっちり叩き込まれました。
--------まだ、操縦や偵察などに振り分けられていなかったのですね。
江名‥そうです。振り分けは卒業のときでした。飛行科予備学生で、操縦と偵察ともう一つ要務という地上勤務がありました。従来は飛行科の士官が要務の仕事をしていましたけど、それが対応しきれなくなり、海軍で新しく専門職として飛行要務という部門を作って、我々、飛行科予備学生の中の約1000名の者が地上勤務の飛行要務に回りました。飛行要務は鹿児島海軍航空隊で訓練を受けていました。また、土浦を昭和19年5月に卒業するときに少数が要務へ行きました。後は操縦と偵察に分かれて6月からそれぞれ次の任地に行きました。
--------自分の希望の専門職は叶えられるのでしょうか?
江名‥一応、希望も出しますけれど操縦技術に通するか、あるいは通信・航法・偵察に適するか、適性を卒業段階で振り分けられます。非常に面白いことに、土浦では易者による鑑定がありました。易者が操縦か偵察か、その判別にかなり関与していました。山本五十六元帥が始めたらしいんですが、実際に我々も易者のところで面接受けましたからね(笑)。何か動物的な勘で判るらしいんですね、どちらが適するかと(笑)。
--------江名さんは、希望はどちらでしたか?
江名‥操縦でした。はい、やはり憧れですね、パイロットは。
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆実施部隊への配属(1)
--------昭和20年3月、いよいよ実施部隊に配属されます。そのときのお話を聞かせて頂きたいと思います。
江名‥結局、フィリピンを失い、いよいよこの次は台湾か沖縄か、いずれ本土決戦ということになるということです。もうマリアナ沖海戦から台湾沖航空戦で、新鋭機ならびにベテラン・パイロットのほとんどが消耗してしまいました。昭和19年6月、アメリカがサイパンに進攻してきまして占領すると、日本本土まで3000kmくらいです。B-29が一度で楽に往復して日本本土まで爆撃できる圏内です。
このままでは日本が危機的な状況に陥るということで、それを防ぐべくマリアナ沖海戦という大きな海軍の作戦があり、そこで日本側が壊滅的な打撃を受けてしまいました。もう記憶は正確じゃないんですが、日本の海軍航空隊が373機ほど敵機動部隊へ出撃、そのうち350機くらいが撃墜されました。一方、アメリカ軍の飛行機は19機しか撃墜されていません。日本の航空隊はほとんど全滅ですね。日本軍側は航空母艦3隻を沈められました。それを当時、アメリカの兵隊は「マリアナ沖海戦の七面鳥狩り」と言ったそうです。七面鳥は非常に鈍重な鳥ですから、もう下手な鉄砲でも当たるという状態でして、それほど日本軍機が撃ち落されてしまったわけですね。
アメリカは非常に優れた最先端の電探(レーダー)技術を持っていまして、砲弾にもVT信管という電探が入ったものがありました。飛行機に命中しなくても機体に接近しただけで砲弾が炸裂します。日本軍機はその新兵器によって七面鳥のように撃ち落とされたのです。日本はアメリカにそんな強力な兵器があることを終戦まで知りませんでした。それ以後、アメリカ軍に押しまくられて、私たちの大井海軍航空隊でも、そこから新たに赴任した百里原海軍航空隊でもそうでしたが、老朽機ばかりで稼働可能な実用機が少なくなってしまいました。
私の行った百里原海軍航空隊は練習航空隊なんですが、急遽、昭和20年3月に実戦部隊に入れられました。それが十航艦です。内地にあったのは、西日本には字垣纏中将で有名な五航艦、東日本には三航艦がありました。それに十航艦が加わり、沖縄航空戦を戦うことになったのです。
--------百里原に到着してからは、九七艦攻(九七式艦上攻撃機)での訓練でしょうか?
江名‥はい。百里原空は艦攻隊と艦爆隊の2部隊がありまして、艦爆は2人乗り、艦攻は3人乗りです。それぞれ、艦爆、艦攻の隊に配属されたわけです。
--------それまで艦爆か艦攻か分からないのでしょうか?
江名‥全然わかりません。
--------百里原で初めて実用機に乗られたわけですけれども、初飛行のときの話をお聞かせ下さい。何回か飛行訓練はされたのでしょうか?
江名‥私が特攻指名を受けたのが、昭和20年4月10日です。実際の特攻出撃まで約1カ月ありましたが猛訓練をしました。九七艦攻は老朽機とはいえ実戦機ですから、練習機に比べると速力が速く、勝手が違っていて慣れるのに苦労しました。
--------3人乗りということで他に2人の搭乗員、当時「ペア」と称していた方達も百里原赴任直後に決まったのでしょうか?
江名‥ペアは4月10日、特攻編成になった際に決まりました。
--------それまでは日替わり交替みたいな感じでしょうか?
江名‥そうです。主に下士官が操縦席に着きまして、私が偵察席でいろいろ訓練をしました。当時、偵察員を訓練するための操縦員を「馬車引き」と呼んでいました (笑)。
--------希望していた操縦ではなく、偵察に回されたのですね?
江名‥はい。私が行った偵察の航空隊が静岡県の大井ですね、大井海軍航空隊。静岡県牧之原市にありました。今また新しい飛行場ができていますね。偵察の航空隊は徳島にもありました。
その2つの練習航空隊が、我々、第14期生が偵察教育を受けた航空隊です。私は大井海軍航空隊で、昭和19年6月から昭和20年3月まで教育を受けたわけです。
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆実施部隊への配属(2)
--------偵察の訓練というと、具体的にはどのような内容なのでしょうか?
江名‥機上での偵察員の必修課目は、まずナヴイゲーターとしての航法、次に爆撃・射撃、それから通信。通信は非常に大きなウエイトを占めていました。次に電探、それに気象・天測。そういったものを機上作業練習機「白菊」に乗りまして訓練を受けるわけです。
--------航法にしろ、天測にしろ、一つ一つがものすごく難しいと思うのですが、簡単に習得できるものなのですか?
江名‥いや、私もなかなかね、苦労しました(笑)。操縦員もそうだと思うんですけど、地上で自分がやれると思った能力がですね、空中では半分くらいの力しか発揮できないんですね。文字通り「上がっちゃう」んです(笑)。地上で操縦作業ができましても、空中ではその能力をなかなか発揮できないんですね。非常に失敗ばっかりで、なかなか大変でございました。
--------昭和19年となると、燃料事情も相当悪くなっていたと思うのですが、そういう飛行訓練は頻繁に出来たのですか?
江名‥まさに、その間題でございますけどね。致命的だったのは昭和19年10月の台湾沖航空戦からフィリピンにアメリカ軍が上陸してからですね。南方からの重要軍事物資が途絶えてしまいました。そこでもうね、本土の陸海軍の航空隊の燃料、それから海軍の艦艇の燃料が非常に不足して参りましてね。実戦部隊に優先的にガソリンを供給しまして、練習航空隊はかなり量的に制限を受けまして十分な訓練は受けることができませんでした。
操縦員も偵察貝もそうですけど、まず一人前の搭乗員になるには300時間程度の訓練を受けないと不十分だと言われていたんです。けれど、私共が実戦部隊に行く昭和20年の3月で100時間も乗ってないんですよ。ですから、本当に何て言いますか、新米の未熟なパイロットですね。もちろん、機材も不足していました。一番の問題は燃料ですけど、十分な訓練を受けることができませんでした。
--------やはり、そういうのはご自分としても悔しいですか?
江名‥そうですね。教育部隊に入ったのに飛行作業をしないで、その時は座学か何かするわけですけどね。座学だけでは連度が上がりませんから、やはり、もどかしく思いましたね。
--------特別攻撃隊、特攻のことは練習航空隊にいる間に、既にご存じだったのですか?
江名‥特攻の話はですね、私が大井航空隊で訓練を受けている時に、我々の一期先輩の13期生が実施部隊に転出しておりますから。その人達は台湾沖航空戦やフィリピンの作戦にも参加しております。で、私達はまだ訓練中でございましたので、大井航空隊で不足した燃料の中で、訓練を続けていたということでございますね。
--------大井航空隊にいらっしゃった時は、特攻というのはまだ、それ程身近なものではなかったということですか?
江名‥身近なものではありませんでしたけど、昭和19年の10月25日でございますか、関大尉が予科練の甲10期生を列機として引き連れて、神風特別攻撃隊の第一号として出撃しました。それが大々的に報道された時には、我々もその覚悟を要請されましたですね。
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆余暇にアメリカ映画を観る(1)
--------ちょっと話は変わるんですが、厳しい教育を受けていた頃でも休日とかがあったと思うのですが、何か楽しみというものはありましたか?
江名‥海軍では英国式のネービー教育を受けました。敵国と言いながら、海軍が持っている外国の映画、横須賀にあったものを担当の者が持って来て、それを大井空で上映するということで、敵国アメリカの映画を我々は余暇に鑑賞して楽しみました。
--------どんな映画だったか覚えています?タイトルとか。
江名‥タイトルはですね「コンドル」とかですね、あと何でしたかな……「歴史は夜作られる」はやりましたかね
・・・ちょっとその辺の記憶が定かでありませんが。「風と共に去りぬ」を見せろってだいぶ言いました(笑)。それは実現されませんでしたけどね。フィルムが横須賀にあったことは間違いなかったようですよ。確か、昭和14年位のアメリカ映画ですね。
--------かたや「鬼畜米英」と言いながら、アメリカ映画を観て楽しむというのは、ちょっと不思議な感じがします。
江名‥いや、我々は「鬼畜米英」というような憎しみの感覚はあまり持っていませんでした。どちらかというと、その頃の学生の多くは西洋文化に憧れて勉強しておりましたでしょ。ですから、そういう文化面ではアメリカとかヨーロッパに対してね、非常に親近感を持っていました。まあ一般の市民は、ニミッツ、マッカーサーの写真を踏みつけたということがあったようですけど、そういう憎しみは、我々は持っていませんでした。日本人として、戦争の相手国であるアメリカには勝たなくてはならないという認識でした。クレイジーな憎しみは持っておりませんでした。
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆余暇にアメリカ映画を観る(2)
--------九七艦攻の場合、3人搭乗されますが、特攻で出撃するのなら全員ではなく、2人か1人が乗って出撃してもいいのではないかと思うことがあるのですが、江名さんは、どうお考えですか?
江名‥昭和20年4月10日に、私たちの「正気隊」が編成されました。全部で6機18名ですけど、その中に同期生が6名いたんですよ。それに13期が1人、これは隊長ですけどね。同期生が6名もいたので心強かったし、私の場合はそれで救われましたね。その時、仲間同士の会話でね、後席に乗る電信員のことを話しました。彼らは17歳、18歳なんですよ。予科練の甲の13期、乙の18期ですね。いちばん若いんです。飛行時間は我々と同じ位です。本当に可愛らしい少年なんですよ。どうして海軍は、この子達を殺さなきやいけないのか。電信員を連れて行かなくてもいいじゃないかと語り合いました。
でも、艦攻の電信員の役割というのはとても重要なんです。九九艦爆でも後席の電信員が乗ってない機があるんですけど、九七艦攻は出撃の時、3人乗るんです。それはね、自分の機の最期を電信で基地に知らせるためなんです。自分の戦果は自分の機が打電するんです。もう、護衛戦闘機がつかないんですよ。それ程、日本軍は追い詰められてもう負け戦なんですね。だから、電信員が乗ってる飛行機だけは、自分の飛行機の、自分の戦果を送れるわけです。だけど、九九艦爆の特攻機になりますとね、大半が隊長機だけに電信員が乗って、列機の2機は操縦員だけで電信員が乗っていないんです。その方を評価する人もいるんですね。もう必要ないんじゃないかと。
ただね、電信員っていうのは、九九艦爆の場合、ナヴィゲーターも兼ねているんですね。だから、隊長機が落とされると目的地に行けなくなる。九九艦爆の場合、後席の搭乗員はナヴイゲーターと通信、両方やる訳ですよ。艦攻の場合は、真ん中の者がナヴイゲーター、後席が電信です。だから、自分の飛行機が敵機に襲撃されたら襲撃されたという電報を打ちますし、突入する時は、何の艦に突入すると電信を打ちます。実際に、そのとおりの戦果が上がったかどうかは別として、最期の電信が基地に入るわけですね。だから、3人乗せるということは、それだけの戦果を伝えることができるというメリットがあるわけですね。戦闘機には最初から電信員なんかいないでしょ。だから、その飛行機の戦果が判りませんし、九九艦爆の場合でも、隊長機が落とされちゃいますと、もう、隊長機以外は電信を打てないわけです。だから、可哀想と思いましたけど、やっぱり電信員が来るということは、それだけのメリットがあるということです。それに機銃も電信員が撃ちますからね。七・七mmの機銃で応戦しますから。
--------操縦員、偵察員、電信員の中でいちばん偉いというか、機長はどなたがなるのですか?
江名‥それはね、ペア編成の時に最先任の者が機長になるんです。ですから、私より先任の者が操縦すれば、操縦が指揮官になります。ただ、ナヴイゲーターは私ですからね。その場合でも私が色々指示する訳ですけども、機長というのは最先任の者がなります。
それで、面白いんですよ。我々、2000名いますでしょ、14期予備学生が。全員ナンバーが付いているんです。成績のナンバーですね。どうやって付けたか知りませんけどね。1番でも上の者は機長なんです。海兵でもその先任順がありますから、先任の者がやはり海軍省とか軍令部に行きまして、そうでない者が実戦部隊に行くという傾向がありました。成績の良い者が必ずしも優秀だったかどうかは、戦後、軍令部とか海軍省がいろいろ批判されていますけどね。海兵のハンモック・ナンバーが海軍を滅ぼしたと極論する者もいます。でも実際、成績の優秀なのが、みんな大本営に行っていますからね。海軍は、そういう先任を決めるルールがありました。
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆余暇にアメリカ映画を観る(3)
--------部下になったのは予科練出身の方たちですが、江名さんは予備学生出身ということで、その違いを感じられたことはありますか?
江名‥潔いですよ、予科練の人達は!中学3、4年生で海軍に入ってきます。
あるいは昔の高等小学校から入ってきてますでしょ。酷いしごきに耐えて軍人精神が入っておりました。私達はね、こんな若いみそらで可哀想だと思っていましたけど、逆に私の方が気を緩めてると「分隊士、頑張りましょうー」と、背中を押される位でした。勇ましいんです。潔いです。我々は「娑婆っ気」がありますからね。やっぱり未練は沢山ありました。彼らは青春を味わっていないんですよ。青春を味わった人間と味わわない人間は潔さが違うと思いました。
--------そういう純粋さに押されて、勇気づけられたことも?
江名‥そうです、そうなんですよ(笑)。私なんかやっぱり特攻を指名された時、顔が引き攣っておりました。
--------江名さんの階級なんですが、航空隊では士官として扱われたのですか?
江名‥そうですね。予備士官っていうのは海兵の候補生の下なんです。それで兵隊から上がってきた兵曹長の上。そういうステイタスです。まあ、士官としての待遇は受けている訳です。
--------当時の戦記に、兵隊から叩き上げの下士官や士官達に虐められたというか、厳しく当たられたと書かれたものがありますが?
江名‥そういう方は「特務士官」と言います。特務士官にひがまれた、ということですか?
--------そうです。
江名‥それよりもね、やはり海兵の人達に虐められたですね。江田島で3年かかって猛訓練を受けた本職から見て、たった3カ月ですぐに士官になるわけでしょ。ですからね、海軍精神が入ってないと、かなり徹底的に痛め付けられましたね。私はあまりね、そういう恨み辛みはないんですけど、13期、14期予備学生の中には今でも海兵を「嫌だー」っていう男がおります。
--------出撃して敵艦を発見したら、空母なら空母と見定める必要があると思うのですが、敵艦を発見する訓練は、特別にされたのですか?
江名‥それはね、今だったらちょっとお笑いでございますけどね。艦の模型を作りまして、それで遠くから見させましてね、戦艦だとかね、空母とか駆逐艦とかを当てるわけですよ。その点は粗末な訓練です(笑)。私は敵艦まで行き着かなかったから分かりませんけど、ピケットラインってあるんです。
沖縄周辺に駆逐艦がピケットラインを張ってですね、戦艦や空母がいる所に寄せ付けないように、そこで食い止めるために駆逐艦を配置しているんです。それを見て「戦艦発見」というような電信が打たれることもあったようです。初めて実際の艦を見て、駆逐艦が戦艦に見えたり、巡洋艦に見えるっていうのは、私は当然だと思います。
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆神風特別攻撃隊「正気隊」編成(1)
--------大井から百里原に移る時は、もう特攻は決まっていたわけですか?
江名‥ええ。もう特攻作戦でしか戦果を上げる事が難しいという判断が大本営にもありました。大井から我々50名が百里原海軍航空隊に昭和20年3月17日に赴任したんですけど、百里原を出る時にはもう特攻要員だということを我々も告げられておりましたし、百里原に赴任しましたら、百里空の司令から「お前達は特攻要員で来たんだぞ」と宣告されましたんでね。それなりの覚悟をさせられましたですね。
--------赴任されるまで、特に悩んだとか動揺したということはなかったですか?
江名‥そうですね……。
--------同期の方と一緒に、そのことについて話したとか?
江名‥選ばれた者はね、誇りっていうものがあるんですね。それで、選ばれたくないという気持ちもある訳ですよね。しかし、もう選ばれたということで、やはりそれは自分で割り切ると、内心の苦悩を選ばれた誇りで克服しました。選ばれなかった者は我々は後から行きますと。
--------全員が特攻基地に送られた訳でなくて、まだ残った方もいらっしゃったのですね。
江名‥ええ。第一陣は3割くらい出た訳ですかね。
--------江名さんは、第一陣。
江名‥はい。それで、二陣・三陣とどんどん出て行きました。第1次特攻要員に洩れた14期生も、1カ月後にはほとんどの者が各地の特攻基地に転出していきました。
--------江名さんが特攻基地に行ったのは昭和20年の何月でしたか?
江名‥私は4月20日に百里原から串良へ参りました。
--------自分が出撃する番になると、気持ちも変わったりするものですか?
江名‥気持ちが変わるっていいますかね。もちろん、個人で色々違うでしょうが。4月10日に飛行作業から飛行場へ戻ってくると、指揮所っていう所がありまして、そこへ必ず指揮官がいますから、行く時も戻ってきた時も報告するわけです。そこにボード、黒板があるんです。その日の飛行作業の順番なんかが書いてありまして、飛行作業が終わりますと、そこへ行って自分で消すんです、飛行作業が終わった後に。
そのボードに第3次の特攻隊の編成表が書いてあったんですよ。それで私の戦友に「君の名前が載っているぞ、おめでとう」って言われました。私は、血の気の引く思いがしましたね。やはり本能的なものがね、その瞬間に出てくるんですね。生に対する本能を抑えるのが……人によって色々あると思いますけど、私は苦労しました。
--------特攻隊への指名というのは、突然のような形で発表されるんですか?
江名‥ええ、私たち九七艦攻「正気隊」の場合はそうでした。
--------そのボードに一緒に出撃するペアの名前もあるわけですね?
江名‥そうです。それでペアが初めて組まれました。翌日から特攻訓練を始めるわけです。
--------特攻隊で出撃するペアというのは特別と言ったら変ですけども、顔合わせした時にはやはり、どんな人なんだろうと。
江名‥そうですね(笑)。普通の実施部隊でしたらそういうペアは、かなり長期間一緒に乗ってるわけですね。だから人間関係ができるわけです。我々は短時間で人間関係を作らなければいけませんから、意思疎通を急ぎました。
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海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆神風特別攻撃隊「正気隊」編成(2)
--------指名されてから出撃するまでは、1週間とか訓練期間が決められていたのですか?
江名‥いや、それは、鹿児島にある字垣長官の五航艦に進出するまでです。宇垣さんのところで、いつ出せって命令が出るんですね。そんなに期間は長くないです。私の場合は、4月10日に指名されて、百里原から串良に行く4月20日までの10日間でした。
--------特攻の訓練というと、具体的にどんなことをするのですか?
江名‥それまでの通常訓練とさほど違わないんですけどね。航法は海上に出ましてね、自分でコースを決めてそのコースの中を飛んで、自分の航法の腕前を磨きます。例えば私の場合、水戸の大洗を基点にして、三角形に太平洋に出て帰ってくるわけですけれどね。なかなかドンピシャと大洗に着けないんです、チャート通りには。そうすると、操縦員がニヤツと笑って「だいぶ外れましたな」なんて言われちゃいましてね(笑)。
また、爆弾を抱えて体当たりするわけですから、突っ込む訓練です。それから夜間出撃もありますから夜間の訓練です。これは非常に危険な飛行訓練です。全くやったことのない訓練でした。とにかく、その間は優先的に特攻機にガソリンをくれますからね。激しい猛訓練をさせられました。
--------爆弾を積んで突っ込むのですか。
江名‥ええ、艦攻特攻の場合、800kgの爆弾を積みます。爆弾を積んで訓練はしませんでした。800kgの爆弾は出撃する時、初めて積みました。
--------それまでは、錘みたいなダミーを?
江名‥何もつけません。つけないでやりました。
--------百里原空では特攻指令が続いて、戦友が次々と特攻基地に出撃したのですか?
江名‥私は4月10日に指名されたんですが、九七艦攻の第3次特攻なんです。それまでに1次、2次があったわけです。私達が百里原空に赴任して、1週間足らずで1次、それから4月の始めに2次、それで10日に3次ですね。3次で九七艦攻の五航艦作戦というか、沖縄作戦は終わりました。だから私達の3次が最後なんです、百里原空では。私の同期生2名が赴任して1週間足らずで1次に指名されました。その2人は4月12日に特攻戦死しました。
--------見送るものも辛いものでしたか?
江名‥そうですね。第1次の酒巻一夫君、川野博章君……。大井で私と同じ班だった川野君は明大のマンドリン部で音楽が好きでした。またアメリカ映画も詳しい男でした。彼は4月12日に串良から出撃して特攻戦死したんですけど。百里原から進発の日、彼は非常に朗らかな陽気な男で、自分の悲壮感っていうものを全然外に表さないで機上の人になりました。
昭和7年のアメリカ映画に「ラ・モーナ」という歌があるんです。「ラ・モーナ~」 って始まる曲なんですけどね。その時、彼はその歌を口ずさみながら機上の人になりました。内心はやはり悩んでたはずなんですけどね。そういった心の中の葛藤を全然見せないで飛び立った彼のことが、今までも心に残っています。