特攻インタビュー(第5回)
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投稿日時 2012/4/9 7:58
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会特攻ライブラリー取材スタッフ
「編注・当会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員による「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当会事務局(担当大澤)までご連絡下さい。」
◇ ◇ ◇
皆本義博氏軍歴 (略歴)
陸軍士官学校第五七期 陸軍中尉
海上挺進第三戦隊第三中隊長
四式肉迫攻撃艇 (秘匿名称・連絡艇
㊤マルレ)装備(約30隻)
沖縄・渡嘉敷島配備
○ 特攻ライブラリー取材スタッフ (五十音順)
及川 昌彦 世話人
神崎 夢現 進行
倉形 桃代 記録
堤橋 律子 世話人
須貝 智行 写真撮影
高橋 暢 映像撮影
長尾 栄治 インタビュアー・構成
編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆身体検査であやうく陸士入校取り消しに
--------ご出身は熊本で、済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)から陸軍士官学校に進まれたのですね。
皆本‥全国の中学校の中で、鹿児島一中、熊本・済々黌、福岡・修猷館、東京・府立四中が陸軍士官学校と海軍兵学校に進む名門校でした。済々黌からは陸士56期、57期に一番多く入りました。陸士に行ったのが35名。海軍兵学校と海軍機関学校が9名。東大にも10名行っています。済々黌には名物先生もいました。数学の坂本昇という先生は、教壇に上がって教科書を開く前に一席ぶつわけです。熊本弁で「よかか!」と。「よそん者は、一所懸命勉強してるよ。負けんようにやれー」と必ず一言、檄を飛ばしてから授業を始めました。
--------当時の学校制度は予科と本科という区別がありましたが、陸士も、まず、陸軍予科士官学校に入校して、その後、陸軍士官学校に進むという形だったのですね。
皆本‥はい。士官学校は昭和12年に神奈川県座間に移っていて、市ヶ谷は予科士官学校だけになっていました。予科士官学校も昭和16年9月に埼玉の朝霞に移転しますから、我々の57期が市ヶ谷に入校した最後の期となりました。
入校は4月1日ですが、入校直前に身体検査を受けなくてはなりません。昭和16年3月28日、市ヶ谷に着きましたが、私を含め10名が身体検査に引っかかりました。私以外の9名はガックリしながら市ヶ谷を去って行きました。あいうえお順か何かで私は一番最後でした。忘れもしません。私の身体検査で鈴木軍医少佐が頭をかしげました。私は海軍兵学校や陸士56期の試験を受けましたが、胸に異常があって不合格だったので、今度も駄目かと。高等学校の受験の手続きもしてないし、こら参ったなと思いました。しかも、郷里の村を出る時、駅で、万歳三唱で送ってもらいましたからね。
そしたら、鈴木軍医少佐が私を指差して「これで最後か」、衛生曹長が「最後です」。鈴木軍医少佐はホッとしたんでしょうね。小さな声で「君の出身はどこだ?」と聞いてきたんです。私は「熊本です」と答えました。「中学は?」と聞くので「済々黌」と答えたら、小さな声で「済々黌からは大勢、入校して頑張っているな。君もひとつ頑張れ!」と肩を叩いて、もう一回ゼスチャーで聴診器を当てました。
そういうこともあって、予科士官学校在学中は保護生徒でした。保護生徒というのは長距離行軍とかが免除されて、他の生徒が到着した頃にトラックで運ぶという、そういう状態でした。
--------その年の12月に日米開戦になるのですが、その時のことを何か覚えていらっしゃいますか?
皆本‥もう、予科士官学校は市ヶ谷から朝霞に引っ越していました。今は、陸上自衛隊の広報センターなどがある朝霞駐屯地になっています。
12月8日のことですが、昭和16年10月の末、富士の演習場で野営演習をやって朝霞に帰ってきました。どこで、どうやって知ったかは忘れましたが、戦争が始まったのを開いて、皆で、とにかく万歳を叫ぼうということになりました。あの頃はテレビなんかもないし、戦争が始まるということは、士官候補生の我々には全く情報はありませんでした。まあ、アメリカとの戦争が始まるかどうかなど考えてもいませんでしたね。それほどの広い情報とか知識を持っていなかったものですから。
--------その後、陸軍士官学校に進まれますが、その時には兵種が決まっているのですか?
皆本‥予科士官学校は兵種なしです。皆、共通です。予科士官学校を卒業しますと、兵科……兵種と言いますかね、それが分かれて、それぞれの部隊に配属されます。私は熊本の工兵連隊長・山田工兵大佐をよく知っていたから、じゃあ、工兵連隊に行こうということで、金沢の師団工兵連隊に配属されました。だから、私は工兵です。英語で言いますとエンジニアです。配属された原隊で半年ほど隊附をつとめて、座間の陸軍士官学校に入校しました。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆工兵から船舶兵に
--------昭和19年4月に陸軍士官学校を卒業されるわけですが、すぐ「マルレ(◯のなかに「レ」の字)」に?
皆本‥ちょうどですね、昭和18年9月に船舶兵という新しい兵種が生まれたんです。それまで陸軍の船舶関係は、工兵科の中にある船舶関係の連隊とかが担当していました。それが、船舶兵科種が創設されたことで分かれたわけです。
--------それで、皆本さんは工兵から船舶兵に兵科を変更したわけですね。
皆本‥船舶を希望したわけじゃないですがね。卒業が近づいた時、陸軍工兵大佐が来て、いろいろ訓示して「質問はあるか?」と言う。私は黙って「早く去れ!」と思っていましたら、同期生で、後にフィリピンで戦死した氷室というのが「皆本が質問します!」と突然言ったんです。仕方ないから「大佐殿、質問しますが、我が工兵と輜重兵だけは、皇族殿下がお一人もおいでにならない。品が悪いから、この兵種には来られないんですか?」と言ったら、工兵大佐は明快な返事を避けて「卒業は近まっておる。つまらんことを考えんで勉強せい!」と言いました。
それが影響したかどうか知りませんが、私は工兵をクビになって、新しい船舶兵に任命されました。船舶兵は新しい兵種ですから、同期生の戦車兵と工兵が船舶兵に移りました。戦車兵はなぜかというと、戦車兵科はたくさんいましたが、戦車の製造が間に合わないわけです。だから戦車兵と工兵から兵種変更して、確か60名が船舶兵になりましたが、そのうちの過半数以上、40名くらいは戦車からでした。残りが工兵からですが、船舶兵になりましたら何と言っても本家は工兵の方です。工兵では船関係を少しやっていましたから。
--------陸軍船舶兵は「暁部隊」という通称でも知られています。最初に配属されたのは?
皆本‥広島県宇品の船舶司令部附になりました。当時、大本営陸軍部で陸軍船舶特殊攻撃の考えを提起した人がいて、船舶司令官・鈴木宗作中将閣下を始めとする船舶司令部と大本営が、その検討に入っていました。兵器行政本部と第十陸軍技術研究所では、肉迫攻撃艇の開発を手がけていました。それと、陸軍船舶兵特別幹部候補生という制度が昭和19年4月に新設されました。これは、昔の旧制中学を出た15歳から19歳という若い志願者を幹部候補生にするというものです。陸士出の幹部候補生は見習士官から少尉になりますが、こちらは卒業後、伍長に任命する。卒業しますと下士官に任用するという制度を決定しております。
ただ、既存の部隊が全くない。これからどうするかという時期ですからね。船舶司令部で私を含め18名が選ばれ、研究班が作られました。長が斉藤義雄少佐。18名の中に同期生が3名いて、あとは大学を出たり、旧制中学を出た幹部候補生出身者たちでした。
昭和19年7月16日、この18名が広島県広島湾の大力クマ島という……昔の名前は弁天島でしたが……そこを根拠地としました。その島は、もともと大変なお金持ちの方が別荘を作っておりましたところで、陸軍が買い受けたか、借り受けたか知りませんが、そこに泊り込んで、「どうしたらいいか」、「舟艇の試作艇ができた」、「どういう攻撃をしたら良いか」ということを、いろいろ皆で協議しました。時々、西浦節三船舶参謀なんか来られて一緒に協議して検討したわけです。
--------試作艇の攻撃方法などを、いろいろ模索したということですか?
皆本‥はい。斉藤少佐が海上挺進攻撃研究姓の隊長で、副隊長が私と同じ沖縄・渡嘉敷島に展開した海上挺進第三戦隊の戦隊長・赤松嘉次大尉(後に少佐)です。斉藤少佐は工兵科出身、赤松大尉は戦車兵科出身でした。赤松さんは既に亡くなっておりますが、赤松さんが編成する時に、私の同期が18名の中に3名いましたから、「皆本、貴様、俺のところに来い」ということで、海上挺進第三戦隊の第三中隊長になりました。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆四式肉迫攻撃艇(秘匿名称・連絡艇 マルレ)(1)
--------その試作艇、「マルレ」を最初に見た時の印象はどうでした?
皆本‥まあ何ですね。手漕ぎの舟じゃなくて自動車エンジンを積んでいました。動力は自動車エンジンでした。昭和19年7月11日、千葉県岩井付近の海上で海軍の水上特攻……これは「マルヨン」……丸の中に数字の四と書きます。「マル四艇」。実際の名称は「震洋」です。その震洋艇と陸軍の試作艇の比較試験をやりましたが、何と言っても、やはり船に関しては陸軍の技術本部より海軍さんの方が専門ですから。で、比較検討しましたが、当時の資料を見ますと、ほとんど必要な要件を陸軍の試作艇も完全に充足しておる。言い換えますと「これでよろしい」ということで決定しました。それで「甲一号艇」としました。ただ、そういった兵器は公にしたらまずいものですから、秘匿の名称で「マルレ」とカタカナでつけました。「マルレ」といいますのは、連絡艇(れんらくてい)の頭文字をとって「マルレ」というふうに決めました。
それから、どういう攻撃態勢をとるか、あるいはどういう編成をやるかという検討は我々18名が中心で、船舶司令部の指導を受けながらやりました。舟艇は重量1・5t、全長5・6mくらいの艇ですが、問題は搭載する兵器をどうするかということでした。船舶司令部と第一技術研究所でやりまして、我々、実働部隊も18名が参加して、試作艇に爆雷を積んで実際に爆雷投下もしました。陸軍が使っていた高崎丸という古い船がありまして、実戦的な攻撃方法を試しました。それで、100kgの爆雷では駄目だと。特に、相手が商船や貨物船じゃなくて駆逐艦とか巡洋艦とかになりますと、かなり装甲が厚いものですから。いろいろやった結果、250kg以上あればOKということで私らも実際に試して、それに決まりました。
あとは、どうやって攻撃するかですが、海軍さんの方は舟艇の先の方に爆薬を積んでいるので、艇首が当たれば水柱を上げて爆発します。陸軍の方は艇尾に爆雷を懸架する方式だったので、艇首からそのまま突っ込んでぶつかっても、艇尾にある爆雷と敵艦の距離が5m以上離れて、爆雷を落としても効果が低いんです。じゃあ一番良い方法は、ということで、まず、敵艦に対して前進して、ぶつかりそうになる直前に左ハンドルか右ハンドルをきって艇尾を敵艦に向け、ぶつける時に爆雷を落とす。手で引いて落下させるか、手で引けない場合は自動的に落ちて、それが落ちますと至近距離で爆発します。水圧も測って、これなら駆逐艦ぐらいはいけると、こういう結論を出してやっとりました。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆四式肉迫攻撃艇(秘匿名称・連絡艇 マルレ)(2)
--------艇尾をふって当てると言っても、操縦は難しかったでしょう?
皆本‥訓練の時は大体、停まっている船とか楽な物ばかりでした。動いている船はなかなかですね。
--------動力は自動車のエンジンということですが、整備上の問題点はありましたか?
皆本‥陸軍にも機械関係、エンジン関係に詳しいのが、かなりおりましたがね。困ったのは、使う自動車がフォードあり、シボレーありでしょ。それから日産とトヨタもあった。いよいよ戦地に展開したら、整備兵が一時間も前からいろいろやって「まだ終わりません」と言うんです。「貴様、何やってるんだ!」と怒鳴ったら、「どうも合いません」と。つまり、インチ・ゲージとミリ・ゲージのネジが一緒になっているんですね。ちょっと見た目では同じですが、ミリ・ゲージのネジがインチ・ゲージにはまらないんです。それが非常に苦労しました。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆ 昭和天皇への報告(1)
--------「マルレ」は海軍の「震洋」と違い、特攻兵器として開発されたわけではないので、体当たりはしないのが前提だったと聞きますが?
皆本‥海軍は、最初からぶつけるということでやっておりましたね。陸海軍の水上特攻の成果を見ますとね、陸軍は数が多かったせいか、特にフィリピンの戦場なんか、陸軍の方が成果は大きかったと思います。
それで、いよいよ「マルレ」の整備が終わりましたから、大本営陸軍部は天皇陛下に報告申し上げなくちゃいかん、ということで、我々が艇に乗りまして。それに、船舶司令部で高速艇にカメラを乗せて(笑)。我々はミスがないように緊張して、さきほど言ったように操縦しました。それで、陛下にお見せしたら陛下からご質問がありました。「乗っている将校・下士官は生きて帰れるか?」と。どうお答えするか苦慮したようですが「はい!何とか生存の可能性あります!」ということで逃げておりますね。やっぱり、陛下は非常に温かいお気持ちでやられていると思いました。
ちょっと話は変わりますが、私、平成17年9月14日から2日間、アメリカのテキサス州フレデリックスハーグで行われた「太平洋戦争・沖縄シンポジウム」に参加しました。日本代表としてパネリストの23名の中に入り、飛行機賃や宿泊料は全部アメリカ側が負担してくれました。フレデリックスハーグはニミッツ元帥生誕の地です。そのシンポジウムで非常に感銘したのが、アメリカの退役海軍大佐が話した二つのことでした。一つは、日本の航空特攻は素晴らしい人が乗って勇猛果敢に戦った。しかし、それを統括した最高統帥の方には必ずしも同意できない点があるということでした。いろいろ聞きますと、あの頃のアメリカ海軍の艦載機は、第一線に出ている日本の戦闘機より出力が大きいんです。エンジンの馬力が強力だから速度が出る。日本は速度がちょっとのろい、中には特攻なんかで、やや古い飛行機に爆装して出撃させますね。もともと出力が弱くて、旋回性能はほとんどない。敵の艦上戦闘機に遭遇すると退避できないから、特攻隊員はとにかく勇猛果敢に征かれた。海軍大佐が私に言いましたことが、非常に印象に残っています。
もう一つは、彼はフィリピン戦や沖縄戦に参加していたようですが、航空特攻が来ても苦にしなかったと言うんです。まあ、そうでしょうね。あれだけの対空火器を持っているし、艦載機が飛べば、そりやもう全然能力が違います。ただ、私の手を握って言ったのは、「水中・水上特攻というのは成果があまり明らかになっていないが、精神的な効果が偉大なものだったよ」と。「私(退役海軍大佐) が巡洋艦艦長をやった時に、水中・水上特攻が来た時にはナーバスになって、任務に耐えない兵隊がかなり出た」ということを言われました。これ、ありのままを 『特別攻撃隊全史』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編)という本に入れております。ちょっと脇にそれました。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆昭和天皇への報告(2)
--------では、話を戻して……「マルレ」の開発や編成は順調に進んだのですか?
皆本‥それはもう。とにかく順調になるように大本営陸軍部も全力を挙げていましたから。それから私も船舶関係をやっておりますからね、はい。
--------準備が終わって、いよいよ部隊編成、そして沖縄へ移動と?
皆本‥天皇陛下にもご報告申し上げて、それから大本営陸軍部も見に来まして。それで、昭和19年9月1日から中旬までに第一戦隊から第十戦隊を編成しました。それで、今度は10月の上旬から下旬にかけまして、第十一戦隊から第三十戦隊までの編成を完結しました。動員をしながら、沖縄とフィリピンに部隊を展開させました。台湾と沖縄県石垣島に展開した部隊もいましたが、これは戦闘がなく、そこにいただけでした。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆陸軍海上挺進戦隊(1)
--------皆本さんは、どちらの部隊に配属されたのですか?
皆本‥私は第三戦隊です。第一・第二・第三戦隊が一番早く編成されました。一個戦隊の舟艇は100隻。隊員は戦隊長以下104名でした。舟艇は一人乗りが原則でしたが、戦隊長艇と中隊長艇は指揮の関係で二人乗りでした。ですから、戦隊長1名、中隊長3名の分、舟艇よりも人数が多いわけです。
私らの第三戦隊が動員完結したのは昭和19年9月3日でしたかね。字品で船団を組んで、3隻の船に乗って沖縄に移動することになりました。沖縄戦が始まる前でしたが、当時でも冷静に考えれば、この戦争は先が見えたという感じでした。特攻隊の船団は長崎の西を廻って熊本の天草湾に入り、それから鹿児島湾に入るというように遠回りをする。燃料も余計に必要だし、海軍の艦長に「何で豊後水道を通らないんですか?」と問いたら、「海軍の艦艇以外は豊後水道の通行を禁止している。なぜかと言うと、10数隻のアメリカ潜水艦がそこに待機しておって、貨物船なんか片っ端に沈められるから、輸送船の方は迂回するんだ」と言うんです。
宇品を出ます時に、私は「宝来丸」という3800tの貨物船の輸送指揮官代理を命ぜられました。それで門司に着いたら、軍から、我々の船にドラム缶入りのガソリンを積めと言ってきました。そしたら、船長が頑として聞かないんです。第一船舶輸送司令部が門司にありましたから、とにかく参謀に来てもらって説得させようと思ったら、予科士官学校の時の区隊長だった谷口太郎少佐がおられ、「おい皆本。君は今度、沖縄に展開するんだな。ご苦労だ。頑張ってくれ」と言われました。それで、これこれしかじかと事情を話しましたら、「よし、俺が行く」と言って船長に会ってくれました。ところが、船長が、船舶参謀の谷口少佐の命令を聞かないんですよ。門司出港の時が近づくのに、積むべきガソリンも積めない。なぜかと言うと、魚雷を喰った場合にガソリン積んどったら、もう一面……何といいますかね、火が洋上に広がって1人も生存できないということなんですね。
困り果てていましたら、門司の近くの沖伸士の親方が4、5人連れて来ました。そして、私と船長のやりとりを聞いた沖仲仕の親方が、船長の胸ぐらをつかんで「船長、何だ! 戦やってんだ! 馬鹿野郎、貴様下りろ、俺が積む!」と言ってくれて。その気迫は嬉しかったですね。涙が出ました。そして、部下に「早く積め! 船団の出発時問に間に合わせなければ駄目だ。いいか!」と。私が「親方、ありがとうございます」と言ったら、「おい!中隊長さん、死ぬなよ!」と言ってくれました。それから出港しました。何と言いますかね、もう、淡々とした状況じゃなくなっていましたね。実際、私の乗った船も奄美大島の側で、アメリカの潜水艦の攻撃を受けましたが、水雷艇「真鶴」の適切な対処で被害を受けることなく行きました。途中で沈んだ戦隊もかなりあります。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆陸軍海上挺進戦隊(2)
--------反対した船長は一緒に乗り込んだのですか?
皆本‥はい。そりゃまあ、船長が乗らんと他の者では出来ませんからね(笑)。私も冗談で、「俺が船長だったら考えは同じだな」と言いました(笑)。他の船にガソリンを全部、積めなくて、私の乗っている船が比較的、船室が空いていたから命令が来たんですね。
門司からは、海軍の水雷艇とか駆逐艦の護衛で船団を組んで移動しました。そして天草に着きました。天草湾なら潜水艦が入ってこないので、その晩、「酒1杯ずつ呑んで宜しい。外で軍歌でも歌え。月を見ろ。安心して月を見られるのはこれが最後かもしれん。よく見とけ」と。
鹿児島に着いたら「皆本少尉宛」ということで、船舶司令部から電報が来ていました。字品を出発する前に、マルレ艇を船台に積んだんです。そしたら船長が「中隊長、このままで出港すると、洋上に出て揺れて舟艇が船台から落ちて壊れる。マニラロープで縛らにゃいかん」と言う。船長に「マニラロープがあるか?」と間いたら「ない」と言うので、私は信号を出させて内火艇を呼びました。どこに行けばいいか解りませんでしたが、ともかく陸に上がったら、襟に何かの印をつけている広島女子専門学校のお嬢さんに会いました。「隊長さん、何ですか」と聞くから、「マニラロープが欲しい」と言ったら、彼女がかけあってロープを調達して船に積みました。ところがロープを船に運んだら、もう出港でしょう。うちの小隊長が、中隊長に「(湾内に残す)舟艇をどうしますか?」と言うんです。「波止場までやる暇はない。とにかく切り離しておけば、湾外には出ないよ」と言って (笑)。それで船舶司令部から、「あの舟艇はどうした?」と質問がありまして、私は戟隊長に「戦地に行くのに、そんなことを掛け合っている暇はない」と言ったら、「よし、そのとおりだ」と(笑)。
--------その頃になると、移動するだけで命懸けですね。
皆本‥そうです。もう何ですね、スムーズにはいかないです。
話は変わりますが、私は戦後、陸自衛隊幹部学校で3年間、沖縄方面作戦の講義をやりました。幹部学校というのは昔の陸軍大学校です。私が教育したのは、防衛大学校1期とか2期、3期の選ばれてきた連中です。私が幹部学校の教官として着任したら、竹下正彦校長が呼んでいるというから会いましたら、竹下校長が「君は沖縄の生き残りだから、君が沖縄方面作戦をやれ」と言うんです。私は「校長閣下、ちょっと待ってください。自分が戦った戦場のことを講義すると美化するから」と言いましたら、「美化せんでやれ。沖縄戦は一番苦労した最後の戦、国土戦である。素晴らしい統率が陸海軍、県知事や校長にもあったから、それをやってくれ」ということでやりました。考えてみたら、18名で大力クマにこもってやった時に、指導に来た西浦節三中佐は陸士34期で、竹下正彦校長と同期ですから (笑)。その話があって、「皆本も生きて帰って来たから付き合え」、「用があっても無くてもいいから、午前10時と午後2時には校長室に来い」と言われました(笑)。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆渡嘉敷島に上陸
--------鹿児島から渡嘉敷島へは直接移動したのですか?
皆本‥沖縄本島に、ちょっと立ち寄りました。那覇の港に入って、夜中に慶良問に着いたんでしたかね。我々が慶良問に到着するちょっと前に、海上挺進基地大隊が着いていました。我々、海上挺進戦隊104名の特攻隊を支援する部隊です。この基地大隊は隊長以下、約900名おりました。これが一足先に着いて、いろいろ段取りしておりました。
--------基地に到着すると、最初にどんな仕事をされたのですか?
皆本‥管理業務は基地大隊がやりますが、宿舎がないから村民の方の家に分宿しまして分かれておりました。ニッパハウスと言いますか。宿舎ができるまではそこにおりました。で、村民の方々と正対の儀礼を済まして、さっそく訓練に入ったわけです。
--------皆本さん達を迎えた村民の方々は、どんな感じでしたか?
皆本‥非常に温かく、喜んでいただきました。後で、写真もお見せしますが、本当に良くしていただきました。いまだに文通しています。大江健三郎が、渡嘉敷で315名が集団自決したのは軍の命令があったからだという本を出しましたね。それを見た曽野綾子さんが「とんでもないー」と2年がかりでモンペをはいて島に行って、ずっと聞いてこられて出版された本が『ある神話の背景-沖縄・渡嘉敷島の集団自決』(PHP文庫他)です。曽野先生もおっしゃっているように、自分の郷里以上に沖縄の人には親切に支えていただきました。はい。
--------海上挺進第三戦隊が渡嘉敷島に到着されたのは昭和19年8月?
皆本‥9月ですね。9月3日に動員完結して宇品を出ることになりましたから、9月27日頃ですか。今みたいにスイスイと行けるわけじゃなくて、途中で敵の動きを見たり、船団を集めたりしますから。9月3日に動員完結して、慶良問の渡嘉敷に着いたのが9月27日です。今、考えますと、そんなに時間がかかるかなという感じですが。
--------戦闘が始まるまでは、どのような訓練を?
皆本‥渡嘉敷では戦隊の全艇で突撃する訓練をやるわけにはいきませんから、舟艇を浮かべてそれを攻撃する実爆を1、2回やりました。ですが、数に制限がありますからね。後はもう、ただ形だけの訓練でした。
10月9日に沖縄守備軍の第三二軍が兵棋演習を主催しました。
「兵棋」というのは、海上なんかの図面に棒を動かすという兵棋演習をやりまして、それに赤松戦隊長が部下を連れて参加しております。私は渡嘉敷にいましたが、翌日の10月10日、松の木に登っていた基地隊の哨戒兵が「敵機来襲のようです!」と言うので見ましたらね、沖縄本島に猛烈な空襲が行われました。この空襲で那覇市が全焼しました。それに渡嘉敷の港内外の連絡船、漁船も全部沈められました。後で聞きましたら、小禄の飛行場……これは沖縄本島にある海軍の飛行場なんですが、小禄飛行場の格納庫がまだ燃えているのに、海軍の爆撃機か何か大型機が強行着陸したということで、海軍さんに「海軍はすごいなあ!えらい度胸だ!」と言いましたら、「やられていると分かったが、小線から鹿児島辺りまで飛ぶ燃料はなかった。一か八かでここで降りよう」ということで、本当に幸運にも着いたということでした。
--------昭和19年10月10日の那覇大空襲で、渡嘉敷島にも被害があったのですね?
皆本‥はい。今、言いましたように連絡船・漁船も、村落もほとんどやられましたね。