特攻インタビュー(第5回)・その8
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆陸軍海上挺進戦隊(1)
--------皆本さんは、どちらの部隊に配属されたのですか?
皆本‥私は第三戦隊です。第一・第二・第三戦隊が一番早く編成されました。一個戦隊の舟艇は100隻。隊員は戦隊長以下104名でした。舟艇は一人乗りが原則でしたが、戦隊長艇と中隊長艇は指揮の関係で二人乗りでした。ですから、戦隊長1名、中隊長3名の分、舟艇よりも人数が多いわけです。
私らの第三戦隊が動員完結したのは昭和19年9月3日でしたかね。字品で船団を組んで、3隻の船に乗って沖縄に移動することになりました。沖縄戦が始まる前でしたが、当時でも冷静に考えれば、この戦争は先が見えたという感じでした。特攻隊の船団は長崎の西を廻って熊本の天草湾に入り、それから鹿児島湾に入るというように遠回りをする。燃料も余計に必要だし、海軍の艦長に「何で豊後水道を通らないんですか?」と問いたら、「海軍の艦艇以外は豊後水道の通行を禁止している。なぜかと言うと、10数隻のアメリカ潜水艦がそこに待機しておって、貨物船なんか片っ端に沈められるから、輸送船の方は迂回するんだ」と言うんです。
宇品を出ます時に、私は「宝来丸」という3800tの貨物船の輸送指揮官代理を命ぜられました。それで門司に着いたら、軍から、我々の船にドラム缶入りのガソリンを積めと言ってきました。そしたら、船長が頑として聞かないんです。第一船舶輸送司令部が門司にありましたから、とにかく参謀に来てもらって説得させようと思ったら、予科士官学校の時の区隊長だった谷口太郎少佐がおられ、「おい皆本。君は今度、沖縄に展開するんだな。ご苦労だ。頑張ってくれ」と言われました。それで、これこれしかじかと事情を話しましたら、「よし、俺が行く」と言って船長に会ってくれました。ところが、船長が、船舶参謀の谷口少佐の命令を聞かないんですよ。門司出港の時が近づくのに、積むべきガソリンも積めない。なぜかと言うと、魚雷を喰った場合にガソリン積んどったら、もう一面……何といいますかね、火が洋上に広がって1人も生存できないということなんですね。
困り果てていましたら、門司の近くの沖伸士の親方が4、5人連れて来ました。そして、私と船長のやりとりを聞いた沖仲仕の親方が、船長の胸ぐらをつかんで「船長、何だ! 戦やってんだ! 馬鹿野郎、貴様下りろ、俺が積む!」と言ってくれて。その気迫は嬉しかったですね。涙が出ました。そして、部下に「早く積め! 船団の出発時問に間に合わせなければ駄目だ。いいか!」と。私が「親方、ありがとうございます」と言ったら、「おい!中隊長さん、死ぬなよ!」と言ってくれました。それから出港しました。何と言いますかね、もう、淡々とした状況じゃなくなっていましたね。実際、私の乗った船も奄美大島の側で、アメリカの潜水艦の攻撃を受けましたが、水雷艇「真鶴」の適切な対処で被害を受けることなく行きました。途中で沈んだ戦隊もかなりあります。