特攻インタビュー(第5回)・その9
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆陸軍海上挺進戦隊(2)
--------反対した船長は一緒に乗り込んだのですか?
皆本‥はい。そりゃまあ、船長が乗らんと他の者では出来ませんからね(笑)。私も冗談で、「俺が船長だったら考えは同じだな」と言いました(笑)。他の船にガソリンを全部、積めなくて、私の乗っている船が比較的、船室が空いていたから命令が来たんですね。
門司からは、海軍の水雷艇とか駆逐艦の護衛で船団を組んで移動しました。そして天草に着きました。天草湾なら潜水艦が入ってこないので、その晩、「酒1杯ずつ呑んで宜しい。外で軍歌でも歌え。月を見ろ。安心して月を見られるのはこれが最後かもしれん。よく見とけ」と。
鹿児島に着いたら「皆本少尉宛」ということで、船舶司令部から電報が来ていました。字品を出発する前に、マルレ艇を船台に積んだんです。そしたら船長が「中隊長、このままで出港すると、洋上に出て揺れて舟艇が船台から落ちて壊れる。マニラロープで縛らにゃいかん」と言う。船長に「マニラロープがあるか?」と間いたら「ない」と言うので、私は信号を出させて内火艇を呼びました。どこに行けばいいか解りませんでしたが、ともかく陸に上がったら、襟に何かの印をつけている広島女子専門学校のお嬢さんに会いました。「隊長さん、何ですか」と聞くから、「マニラロープが欲しい」と言ったら、彼女がかけあってロープを調達して船に積みました。ところがロープを船に運んだら、もう出港でしょう。うちの小隊長が、中隊長に「(湾内に残す)舟艇をどうしますか?」と言うんです。「波止場までやる暇はない。とにかく切り離しておけば、湾外には出ないよ」と言って (笑)。それで船舶司令部から、「あの舟艇はどうした?」と質問がありまして、私は戟隊長に「戦地に行くのに、そんなことを掛け合っている暇はない」と言ったら、「よし、そのとおりだ」と(笑)。
--------その頃になると、移動するだけで命懸けですね。
皆本‥そうです。もう何ですね、スムーズにはいかないです。
話は変わりますが、私は戦後、陸自衛隊幹部学校で3年間、沖縄方面作戦の講義をやりました。幹部学校というのは昔の陸軍大学校です。私が教育したのは、防衛大学校1期とか2期、3期の選ばれてきた連中です。私が幹部学校の教官として着任したら、竹下正彦校長が呼んでいるというから会いましたら、竹下校長が「君は沖縄の生き残りだから、君が沖縄方面作戦をやれ」と言うんです。私は「校長閣下、ちょっと待ってください。自分が戦った戦場のことを講義すると美化するから」と言いましたら、「美化せんでやれ。沖縄戦は一番苦労した最後の戦、国土戦である。素晴らしい統率が陸海軍、県知事や校長にもあったから、それをやってくれ」ということでやりました。考えてみたら、18名で大力クマにこもってやった時に、指導に来た西浦節三中佐は陸士34期で、竹下正彦校長と同期ですから (笑)。その話があって、「皆本も生きて帰って来たから付き合え」、「用があっても無くてもいいから、午前10時と午後2時には校長室に来い」と言われました(笑)。