特攻インタビュー(第5回)・その3
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆工兵から船舶兵に
--------昭和19年4月に陸軍士官学校を卒業されるわけですが、すぐ「マルレ(◯のなかに「レ」の字)」に?
皆本‥ちょうどですね、昭和18年9月に船舶兵という新しい兵種が生まれたんです。それまで陸軍の船舶関係は、工兵科の中にある船舶関係の連隊とかが担当していました。それが、船舶兵科種が創設されたことで分かれたわけです。
--------それで、皆本さんは工兵から船舶兵に兵科を変更したわけですね。
皆本‥船舶を希望したわけじゃないですがね。卒業が近づいた時、陸軍工兵大佐が来て、いろいろ訓示して「質問はあるか?」と言う。私は黙って「早く去れ!」と思っていましたら、同期生で、後にフィリピンで戦死した氷室というのが「皆本が質問します!」と突然言ったんです。仕方ないから「大佐殿、質問しますが、我が工兵と輜重兵だけは、皇族殿下がお一人もおいでにならない。品が悪いから、この兵種には来られないんですか?」と言ったら、工兵大佐は明快な返事を避けて「卒業は近まっておる。つまらんことを考えんで勉強せい!」と言いました。
それが影響したかどうか知りませんが、私は工兵をクビになって、新しい船舶兵に任命されました。船舶兵は新しい兵種ですから、同期生の戦車兵と工兵が船舶兵に移りました。戦車兵はなぜかというと、戦車兵科はたくさんいましたが、戦車の製造が間に合わないわけです。だから戦車兵と工兵から兵種変更して、確か60名が船舶兵になりましたが、そのうちの過半数以上、40名くらいは戦車からでした。残りが工兵からですが、船舶兵になりましたら何と言っても本家は工兵の方です。工兵では船関係を少しやっていましたから。
--------陸軍船舶兵は「暁部隊」という通称でも知られています。最初に配属されたのは?
皆本‥広島県宇品の船舶司令部附になりました。当時、大本営陸軍部で陸軍船舶特殊攻撃の考えを提起した人がいて、船舶司令官・鈴木宗作中将閣下を始めとする船舶司令部と大本営が、その検討に入っていました。兵器行政本部と第十陸軍技術研究所では、肉迫攻撃艇の開発を手がけていました。それと、陸軍船舶兵特別幹部候補生という制度が昭和19年4月に新設されました。これは、昔の旧制中学を出た15歳から19歳という若い志願者を幹部候補生にするというものです。陸士出の幹部候補生は見習士官から少尉になりますが、こちらは卒業後、伍長に任命する。卒業しますと下士官に任用するという制度を決定しております。
ただ、既存の部隊が全くない。これからどうするかという時期ですからね。船舶司令部で私を含め18名が選ばれ、研究班が作られました。長が斉藤義雄少佐。18名の中に同期生が3名いて、あとは大学を出たり、旧制中学を出た幹部候補生出身者たちでした。
昭和19年7月16日、この18名が広島県広島湾の大力クマ島という……昔の名前は弁天島でしたが……そこを根拠地としました。その島は、もともと大変なお金持ちの方が別荘を作っておりましたところで、陸軍が買い受けたか、借り受けたか知りませんが、そこに泊り込んで、「どうしたらいいか」、「舟艇の試作艇ができた」、「どういう攻撃をしたら良いか」ということを、いろいろ皆で協議しました。時々、西浦節三船舶参謀なんか来られて一緒に協議して検討したわけです。
--------試作艇の攻撃方法などを、いろいろ模索したということですか?
皆本‥はい。斉藤少佐が海上挺進攻撃研究姓の隊長で、副隊長が私と同じ沖縄・渡嘉敷島に展開した海上挺進第三戦隊の戦隊長・赤松嘉次大尉(後に少佐)です。斉藤少佐は工兵科出身、赤松大尉は戦車兵科出身でした。赤松さんは既に亡くなっておりますが、赤松さんが編成する時に、私の同期が18名の中に3名いましたから、「皆本、貴様、俺のところに来い」ということで、海上挺進第三戦隊の第三中隊長になりました。