特攻インタビュー(第5回)・その2
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆身体検査であやうく陸士入校取り消しに
--------ご出身は熊本で、済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)から陸軍士官学校に進まれたのですね。
皆本‥全国の中学校の中で、鹿児島一中、熊本・済々黌、福岡・修猷館、東京・府立四中が陸軍士官学校と海軍兵学校に進む名門校でした。済々黌からは陸士56期、57期に一番多く入りました。陸士に行ったのが35名。海軍兵学校と海軍機関学校が9名。東大にも10名行っています。済々黌には名物先生もいました。数学の坂本昇という先生は、教壇に上がって教科書を開く前に一席ぶつわけです。熊本弁で「よかか!」と。「よそん者は、一所懸命勉強してるよ。負けんようにやれー」と必ず一言、檄を飛ばしてから授業を始めました。
--------当時の学校制度は予科と本科という区別がありましたが、陸士も、まず、陸軍予科士官学校に入校して、その後、陸軍士官学校に進むという形だったのですね。
皆本‥はい。士官学校は昭和12年に神奈川県座間に移っていて、市ヶ谷は予科士官学校だけになっていました。予科士官学校も昭和16年9月に埼玉の朝霞に移転しますから、我々の57期が市ヶ谷に入校した最後の期となりました。
入校は4月1日ですが、入校直前に身体検査を受けなくてはなりません。昭和16年3月28日、市ヶ谷に着きましたが、私を含め10名が身体検査に引っかかりました。私以外の9名はガックリしながら市ヶ谷を去って行きました。あいうえお順か何かで私は一番最後でした。忘れもしません。私の身体検査で鈴木軍医少佐が頭をかしげました。私は海軍兵学校や陸士56期の試験を受けましたが、胸に異常があって不合格だったので、今度も駄目かと。高等学校の受験の手続きもしてないし、こら参ったなと思いました。しかも、郷里の村を出る時、駅で、万歳三唱で送ってもらいましたからね。
そしたら、鈴木軍医少佐が私を指差して「これで最後か」、衛生曹長が「最後です」。鈴木軍医少佐はホッとしたんでしょうね。小さな声で「君の出身はどこだ?」と聞いてきたんです。私は「熊本です」と答えました。「中学は?」と聞くので「済々黌」と答えたら、小さな声で「済々黌からは大勢、入校して頑張っているな。君もひとつ頑張れ!」と肩を叩いて、もう一回ゼスチャーで聴診器を当てました。
そういうこともあって、予科士官学校在学中は保護生徒でした。保護生徒というのは長距離行軍とかが免除されて、他の生徒が到着した頃にトラックで運ぶという、そういう状態でした。
--------その年の12月に日米開戦になるのですが、その時のことを何か覚えていらっしゃいますか?
皆本‥もう、予科士官学校は市ヶ谷から朝霞に引っ越していました。今は、陸上自衛隊の広報センターなどがある朝霞駐屯地になっています。
12月8日のことですが、昭和16年10月の末、富士の演習場で野営演習をやって朝霞に帰ってきました。どこで、どうやって知ったかは忘れましたが、戦争が始まったのを開いて、皆で、とにかく万歳を叫ぼうということになりました。あの頃はテレビなんかもないし、戦争が始まるということは、士官候補生の我々には全く情報はありませんでした。まあ、アメリカとの戦争が始まるかどうかなど考えてもいませんでしたね。それほどの広い情報とか知識を持っていなかったものですから。
--------その後、陸軍士官学校に進まれますが、その時には兵種が決まっているのですか?
皆本‥予科士官学校は兵種なしです。皆、共通です。予科士官学校を卒業しますと、兵科……兵種と言いますかね、それが分かれて、それぞれの部隊に配属されます。私は熊本の工兵連隊長・山田工兵大佐をよく知っていたから、じゃあ、工兵連隊に行こうということで、金沢の師団工兵連隊に配属されました。だから、私は工兵です。英語で言いますとエンジニアです。配属された原隊で半年ほど隊附をつとめて、座間の陸軍士官学校に入校しました。