特攻インタビュー(第5回)・その10
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆渡嘉敷島に上陸
--------鹿児島から渡嘉敷島へは直接移動したのですか?
皆本‥沖縄本島に、ちょっと立ち寄りました。那覇の港に入って、夜中に慶良問に着いたんでしたかね。我々が慶良問に到着するちょっと前に、海上挺進基地大隊が着いていました。我々、海上挺進戦隊104名の特攻隊を支援する部隊です。この基地大隊は隊長以下、約900名おりました。これが一足先に着いて、いろいろ段取りしておりました。
--------基地に到着すると、最初にどんな仕事をされたのですか?
皆本‥管理業務は基地大隊がやりますが、宿舎がないから村民の方の家に分宿しまして分かれておりました。ニッパハウスと言いますか。宿舎ができるまではそこにおりました。で、村民の方々と正対の儀礼を済まして、さっそく訓練に入ったわけです。
--------皆本さん達を迎えた村民の方々は、どんな感じでしたか?
皆本‥非常に温かく、喜んでいただきました。後で、写真もお見せしますが、本当に良くしていただきました。いまだに文通しています。大江健三郎が、渡嘉敷で315名が集団自決したのは軍の命令があったからだという本を出しましたね。それを見た曽野綾子さんが「とんでもないー」と2年がかりでモンペをはいて島に行って、ずっと聞いてこられて出版された本が『ある神話の背景-沖縄・渡嘉敷島の集団自決』(PHP文庫他)です。曽野先生もおっしゃっているように、自分の郷里以上に沖縄の人には親切に支えていただきました。はい。
--------海上挺進第三戦隊が渡嘉敷島に到着されたのは昭和19年8月?
皆本‥9月ですね。9月3日に動員完結して宇品を出ることになりましたから、9月27日頃ですか。今みたいにスイスイと行けるわけじゃなくて、途中で敵の動きを見たり、船団を集めたりしますから。9月3日に動員完結して、慶良問の渡嘉敷に着いたのが9月27日です。今、考えますと、そんなに時間がかかるかなという感じですが。
--------戦闘が始まるまでは、どのような訓練を?
皆本‥渡嘉敷では戦隊の全艇で突撃する訓練をやるわけにはいきませんから、舟艇を浮かべてそれを攻撃する実爆を1、2回やりました。ですが、数に制限がありますからね。後はもう、ただ形だけの訓練でした。
10月9日に沖縄守備軍の第三二軍が兵棋演習を主催しました。
「兵棋」というのは、海上なんかの図面に棒を動かすという兵棋演習をやりまして、それに赤松戦隊長が部下を連れて参加しております。私は渡嘉敷にいましたが、翌日の10月10日、松の木に登っていた基地隊の哨戒兵が「敵機来襲のようです!」と言うので見ましたらね、沖縄本島に猛烈な空襲が行われました。この空襲で那覇市が全焼しました。それに渡嘉敷の港内外の連絡船、漁船も全部沈められました。後で聞きましたら、小禄の飛行場……これは沖縄本島にある海軍の飛行場なんですが、小禄飛行場の格納庫がまだ燃えているのに、海軍の爆撃機か何か大型機が強行着陸したということで、海軍さんに「海軍はすごいなあ!えらい度胸だ!」と言いましたら、「やられていると分かったが、小線から鹿児島辺りまで飛ぶ燃料はなかった。一か八かでここで降りよう」ということで、本当に幸運にも着いたということでした。
--------昭和19年10月10日の那覇大空襲で、渡嘉敷島にも被害があったのですね?
皆本‥はい。今、言いましたように連絡船・漁船も、村落もほとんどやられましたね。