特攻インタビュー(第7回)
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投稿日時 2012/6/15 6:39
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特攻インタビュー(第7回)
海軍航空特攻 野口 剛氏
(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会特攻ライブラリー取材スタッフ
「編注・当会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員による「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当会事務局までご連絡下さい。」
◇ ◇ ◇
野口 剛氏軍歴 (略歴)
乙種飛行予科練習生 第十六期
海軍上等飛行兵曹
第七二一海軍航空隊 戦闘第三〇六飛行隊
第七二一海軍航空隊 戦闘第三〇七飛行隊
第二〇三海軍航空隊 戦闘第三一二飛行隊
海軍神雷部隊直掩
日本本土空襲遊撃戦
◇ ◇ ◇
特攻ライブラリー取材スタッフ (五十音順)
及川 昌彦 世話人
神崎 夢現 進行
倉形 桃代 記録
堤橋 律子 世話人
須貝 智行 写真撮影
高橋 暢 映像撮影
長尾 栄治 インタビュアー・構成
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆軍人にあこがれた少年時代
--------予科練に入隊する昭和16年は東京にお住まいだったのですか?
野口‥はい。東京の世田谷に実家がありますので。父親の仕事の関係で霞ケ関にあった海軍省に住んでいたことがあるんです。5歳くらいの頃でしたが。海軍の制服が格好良くて、軍人にあこがれました。海軍省の次は……永田町の自民党の前に、今も赤レンガがあると思うんですが、そこに大蔵大臣官舎があったんです。二・二六事件の時まで、そこにも住んでいました。それで、国会議事堂の横を行ったところに陸軍省があったんです。そこに友達がいました。馬場もあって、馬に乗っている人もいましたけれど、陸軍と海軍を見比べて海軍がいいなと思っていました。多分、その頃から海軍にあこがれていましたね。
--------友だちの間で陸軍派、海軍派のようなものはありませんでしたか?
野口‥ありましたね(笑)。陸軍に行くんだったら俺は騎兵になりたいとかね(笑)。私も中学2年の時、陸軍幼年学校に行きたかったんですが、20円だったか月謝を取られるんですよ。タダではないんです。学費が払えないから行けなくて。
--------当時の中学校は5年制ですが、中学3年生を修了した昭和16年に、予科練に入隊されています。卒業を待たずに志願されたのですか?
野口‥はい、そうです。
--------志願した理由があったのでしょうか?
野口‥やっぱり軍人になりたかったですね。それで、飛行機乗りになりたいと願望していました。
--------飛行機乗りを目指したのは何か理由が?
野口‥中学に入る頃、少年航空兵というのがあると学校で教えてもらって、そういう方面に行きたい者は行けという話を聞いたものですから、それから飛行機に関心を持ちました。最初は民間のパイロットになりたくて、洲崎の方に民間の飛行学校があったんですが、飛行機に乗って色々学ぶのに1時間幾らで……もう忘れてしまいましたが、当時でも考えられないほど高額で。そんな高いお金を掛けてなるんだったら少年航空兵になった方がいいかな、と(笑)。
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆乙種予科練へ
--------野口さんは乙種予科練に入隊されています。中学生に進学した方は予科練でも、甲種に進むのが一般的だと思うのですが。(※注1)
野口‥甲種も合格しました。ですが、私は中学3年で予科練に行くものですから、卒業している先輩方が甲種に沢山いると知っていましたので、一緒に競争するには体力的に追い付いて行けないと思ったので乙種を選びました。
--------甲種と乙種は自由に選べたということでしょうか?
野口‥はい、選べましたね。私は、昭和16年12月に入隊の予定でしたが、いつまでも通学するより早く軍人になりたかったので、横須賀鎮守府にお願いして、半年早めて、乙飛16期に入れてもらったのです。
--------甲種と乙種の違いは何でしょう?
野口‥進級が早いという違いがあって、教育期間も甲種は1年半、乙種は2年半ということでした。当時、乙種も教育期間を2年に短縮していましたが。
--------予科練に入隊された頃、アメリカとの関係が悪化してやがて戦争となります。そのような雰囲気を実感する出来事はありましたか?
野口‥昭和16年5月1日に予科練に入りましたので、大東亜戦争はまだ始まっていませんでしたが、12月8日に戦争が始まって、一段と厳しく鍛えられるな、と思いましたね。
--------その後、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いなどで戦局が悪化していきますが、そういう戦況はご存じでしたか?
野口‥訓練の方が先だったので、戦況について詳しく知らされることはありませんでした。
--------予科練から飛行練習生、そして実戦部隊へ進む過程を教えていただけますか?
野口‥予科練に入って1年ほど過ぎた昭和17年5月に、土浦の水上練習機で適性検査をしました。そのときに操鮮員、偵察員に分かれ、私は陸上機の操縦員に行くということだけが分かりました。入隊から1年ほど土浦にいましたが、土浦の人員が増えて収容しきれなくなり、できたばかりの三重の海軍航空隊へ配属になりました。そして、そこで予科練を卒業しました。
その後は鹿児島県の出水航空隊に入りました。ここは、徳島の戦闘機隊の訓練基地だったのですが、練習航空隊になり、そして飛練(飛行練習生)が初めてできて、そこに一番最初の練習生として配属されました。そこを卒業するときに、戦闘機、あるいは爆撃機、攻撃機に分けられました。当然、誰しもが戦闘機を希望するのですが、爆撃機に配属の者もいれば、艦爆に行った者、艦攻に行った者もいるというわけです。そのとき、私は戦闘機に行けて良かったと思っていましたね。
--------有名な話で、海軍の搭乗員になるには「人相見」がいて、顔の骨格などで適性を選ばれていたといいますが、野口さんもご経験がありますか?
野口‥はい。土浦でやりましたね。
--------予科練に入隊した時、体験されたということでしょうか?
野口‥はい、そうですね。しかし、どういうところを見られたのか分かりませんけれども、されたのは間違いないですね。予科練に入る時は、1週間ほど予科練で寝泊りしながら適性検査をしました。
--------当時の映像に残されていますが、ぐるぐる体を回されて平衡感覚を試すというのも?
野口‥あれはもちろん、当然やりましたね。それで後ろから押し出されて、真っ直ぐ歩けるか、立つか、やられました。それから操縦梓を持たされて、重くなったり軽くなったりするのですが、そのときにどれくらいの幅で動くのかというのもやりました。それと、いっぱい穴が開いている円盤があって両端に針が付いていて、円盤が落ちないよう注意して廻すっていうのもやりましたね。
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆厳しかった予科練教育(1)
--------予科練の教育は厳しかったですか?
野口‥厳しかったですね。
--------有名な七つボタンの制服でしたか? (※注2)
野口‥私が入った頃は、まだジョンベラ(水兵服)でした。後から七つボタンに……1年経たないうちになりましたね。
--------同じ予科練でも、乙種と甲種では教育の場は完全に分かれていたのですか?
野口‥はい、分かれていました。自分一人用に机が与えられていて、教科書やなんかは全部そこの中に入れて兵舎へ帰るわけです。風呂に入らなければ怒られる、床屋に行って頭を剃らなきや怒られる、洗濯していないと怒られる、破れた服を着ていると怒られる……もう大変でしたね (笑)。
--------最初は座学なのですか?
野口‥乙種は2年です。甲種は1年半。
--------最初に乗るのは九三式中間練習機?
野口‥はい、赤とんぼですね。あれを6カ月。その後、実用機を4カ月。
--------教官が後ろに乗ってポコポコ殴られた?
野口‥そうですね(笑)。
--------私など車の運転くらいでしか想像できないですが、初めて飛行機を操縦する時、緊張しましたか?
野口‥ええ。「筑波山よーそろ」と言われたのに、「お前はどこへ向いて飛んでいるんだ」と (笑)。
--------離陸と着陸では、着陸の方が緊張されましたか?
野口‥そうですね。離陸は脚がバタバタしていても良いから、とにかく真っ直ぐ向かって、速度がついたときにスッと引けば上がっていきますけどね。降りるときは、あそこに降りるんだと……。そう、出水に行ったときに格納庫の中に綱を張って、もっこをぶら下げたんです。それに乗ってすーっと滑ってくるんですよ。8mつていうところでアイドルパーにして三点に降ろして着陸する。海軍は三点着陸。これは航空母艦に降りるためにね。航空母艦は……「ここで艦尾かわった」と、ここで8mなんですね。それで降りてきて柵に引っ掛けるわけですよ。これが、陸上飛行場でも母艦を基準にしてやらせていたので、8mという高さが絶対に守らせる高さでした。格納庫の中には8mのところに赤線が引いてある。だから、すーっと滑ってきながら、横を見ながら、8mの高さを覚える。それで高さを覚えろってね。
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆厳しかった予科練教育(2)
--------野口さんの頃は、まだ訓練の時間も十分にあったのでしょうか?
野口‥そうですね。正規の期間、訓練しましたから。私の1期か2期くらい後まででしょう。それから、特乙 (※注4)というのができて、予科練を数カ月で出て行った。はっきり覚えていないですが、それですぐ飛行訓練という。それから丙種(※注3)。丙種は予科練3カ月かそこらで全部、実機訓練に行きましたからね。
--------戦争末期になると燃料が無いから訓練も短くなったようですね。
野口‥そう、燃料が無いからね。だから、2年くらい後に入った人は水上特攻に行かされてましたね。飛行機乗りが水上特攻に行ってました。予備学生も同じようにね。
--------戦争中、そういう状況は分かりましたか?
野口‥分からなかったですね。僕らのときは松根油を使って訓練したことがないんですよ。ガソリンですよね。でも日本海軍では一種類しかなくて、91ガソリンと言って、オクタン価91のもので、紫色の燃料でね。それで訓練していました。赤とんぼは87でしたね。私は、訓練は正規の期間やりました。
--------飛行時間はどれくらいだったのでしょうか?
野口‥軍隊時間で総合600数時間ではないでしょうか。私は戦闘機ですから、1回あがって降りてくるまでに30分から40分くらいでしたけれど、爆撃機の方は1回で5時間も10時間もですから、1000時間くらい乗ってたんじゃないかと思いますね。そのかわり着陸回数は、私が記憶しているのは、訓練生が終わって卒業する頃に3000回くらいでしたね。爆撃機に行ったのは、余り回数はないんですよね。その代わり時間は飛んでいるということで。
--------飛行時間と一言でいっても、乗った飛行機の種類によって変わってしまうのですね。
野口‥そうですね。乗った飛行機で全然違うわけですよ。
--------すると、単純に飛行時間が長い方がベテランかというと、そうとも限らない。
野口‥そうそう、そうとも限らない。例えば、二式飛行艇(二式大艇)に乗って、サイパン辺りに行って帰ってくれば、一回で大変な飛行時間になりますからね。
--------数字だけでは分からない、やはり実際に体験した方でなければ分からないことですね。
野口‥そうだと思います。
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆実戦部隊で零戦に乗る
--------飛行練習生の教育が終わると、次は実戦部隊に配属になったのですね。
野口‥はい。卒業して今度は大分の戦闘機教育隊で実戦、実機を習いました。
--------そのときの戦開機は零式艦上戦闘機ですか?
野口‥ちょうど、私達のときは零戦でした。昭和15年にできた戦闘機で、既に昭和18年ですから零戦で訓練しましたね。その前に九六式艦上戦闘機で地上滑走だけして、直ぐに零戦で訓練になりましたね。
--------よく話題になるのですが、当時の搭乗員達は「レイ戦」と呼んだのか、それとも「ゼロ戦」と呼んだのか。
野口‥当時も両方使っていましたね。
--------零戦に乗った思い出は残っていますか?
野口‥今までは脚(車輪)が出たままの機でしたが、零戦は脚が入る機なので、格納を忘れてしまい、地上から旗を振られてやり直したということがありました。
--------靖国神社の遊就館で実機を見ると大きく感じましたが、野口さんはどうでした?
野口‥中間練習機に半年しか乗っていませんでしたけど、特別な感じはしませんでしたね。
零戦になって脚が一番心配だったのと、風防を開けたり閉めたりするのが気になりました。離陸したら風防を閉める、それから脚を入れて、フラップを閉じて上昇していくということで忙しかったですね。
--------その時期の訓練は?
野口‥まずは離着陸訓練をして、それから特殊飛行ですね。宙返りをしたり背面飛行をしたり、ロールしたり。その後に空戦をやるわけです。空戦も、優位の状態、劣位の状態、同位の状態と三つの状態で実弾射撃訓練をするのです。その後は編隊飛行の訓練をして、卒業ということになります。
--------その頃の教官は、南方で実戦を経験した搭乗員もいましたか?
野口‥はい。怖かったです。怖かったですね、実用機訓練の時は……。練習機の時は爆撃機や攻撃機の教員や教官がおられましたが、戦闘機は余りおられなかった。実用機の場合は、同じ戦闘機乗りでないと教えてもらえなかったので、それが、ちょうど直系の先輩で戦地から帰ってきた方がほとんどだったので、大分の戦闘機隊の時は、とにかくきつかったですね。
--------今でも名前を覚えている教官の方はいますか?
野口‥本田(稔)さん。甲種予科練の5期の方ですね。その方は、戦後、航空自衛隊へ行かれて、三菱重工へテストパイロットとして行かれた方でして、私も戦後、民間に行っているときに仲良くさせていただきました。
--------当時は鬼のような。
野口‥ええ、そうですね (苦笑)。大分の4カ月の間にカレンダーに印を付けていましたが、殴られなかった日は(約120日中) 19日しか無かったですね。まあ、きつかったですよ。
--------その時の厳しい訓練は、その後に役に立ちましたか?
野口‥はい、効いてますね。
--------どのような時に、役に立ったと実感されましたか?
野口‥そうですね。陸軍も海軍もよく、「ただ殴られていた」という話を聞きますが、私達はそうは感じていなかったですね。やはり、自分が悪いのだと感じていましたから。だから、普通の生活する上で班長でも階級の上の方でしたが、それほどいじめるようなことは無かったと思っています。
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆神雷部隊に志願
--------大分基地での教育が終わった後はどうされましたか?
野口‥4カ月が過ぎ、卒業して、筑波の実戦部隊に配属されるのですが、そこで5人だけが大分に残されることになりました。3カ月ほど操縦教員としての練成をして、筑波に配属になりました。筑波では予備学生の中間練習機の教員をしていました。その時に神雷部隊の話がきました。日本ではこれ以上の部隊はできないと聞かされた。ただし行ったら最後、帰ってこられないということで、自分の家庭のことも考えて長男はダメだとか、戦闘機に乗って国に尽くしたいという者はいるかと聞かれた。この部隊に行きたい者はマルを書いて出しなさいということになった。ちょうど同期に仲の良かった者が二人いまして、それじゃあ一緒に行こうかということで、行くことにしました。その後、三沢航空基地へ行って、予備学生の13期の後期生に零戦の実施部隊の教育をしました。そこで、一段落がついたころに神雷部隊への転勤命令がきて神ノ池へ行きました。
--------神雷部隊への志願ですが、いつ頃あったのでしょうか?
野口‥昭和19年8月ですね。牧大尉という分隊長がおられまして、この方も戦地から帰った方で顔や手に戦傷を負った方でした。この牧大尉が、行ったら戻れない、こういう隊なのだけれども、行きたい者はマルを書いて出しなさいと言いましたね。我々はその時にマルを書いて提出してあって、三沢にいる時に転勤命令がきたというわけです。
--------昭和19年3月、飛行練習生卒業。6月から三沢基地。そして11月に神ノ池に転属となるわけですね。
野口‥そうですね。
--------神雷部隊が「桜花」という特攻兵器を使う特攻隊であるということは、当時、知っていましたか?
野口‥いいえ、分からなかったですね。ただ、行ったら帰ることはできない部隊であると聞いていました。特攻かどうかは分かりませんでした。
--------志願という気持ちは自然に出たものですか?
野口‥う~ん。出ちゃったですね(笑)。長男 片親は考えてもいいぞと言われましたけれども、長男ではないし両親もいるし、と。
--------そこで配属されたのが、第七二一海軍航空隊第三〇六飛行隊だったのですね。
野口‥神ノ池に行った時、副長の五十嵐中佐がおられたわけですが、畠山と言う者と二人で行きましたら、「お前は戦闘機の専修だろう。それならば三〇六へ行け」と言われました。だから、最初の頃は何だか分からないが、また戦闘機に、零戦に乗れるのだと思っていました。しかし、三〇六には人が余りおらず、何をしていいのか分かりませんでした。
そうすると、2日後には、群馬県の大田飛行場へ行って零戦を受け取ってくるよう言われたり、あるいは三菱に行って来いと言われて取りに行き、試験飛行をやって、持って帰ってきたら、今度は、厚木に行って儀装してこいと言われて機銃やらを積んできたわけです。全員がそのようなことをしていたので、三〇六飛行隊には誰がいて、どのくらいの人数がいるのかということが全然分かりませんでしたね。
--------すると、神ノ池基地に配属された当初は、まだ部隊の編成中のような状態であったと?
野口‥はい、そうですね。
--------まだ訓練をするような状態ではなかったわけですか?
野口‥はい、ないです。そのころ、周りから色々と話を開いたところ、零戦でエンジンをカットして降りてきてるのがあるとか、面白い飛行機があるぞと聞いた。それから、やっと部隊として揃って会うようになって、桜花機のことと、こういう部隊なんだという話を聞いて桜花機の格納庫に連れて行かれて初めて理解したわけです。
--------初めて桜花をご覧になったときはどう思いましたか?
野口‥プロペラは無いし、計器は二つか三つしか付いてないし、それでロケットが付いてるというので、どういう風に戦うのかと思っていたら、一式陸攻もあって、一式陸攻に積んでいくと聞かされました。その桜花の部隊に行く方が特攻隊だと聞きました。そこで、我々は、目的地まで連れて行くのが仕事なんだと分かりました。神崎大尉が分隊長のときにもよく言われたのですが、「腕で神雷を護れなかったら身を持って護れ」と。目的地までは何としてでも護っていかなければならないと感じていましたね。
--------それは、昭和19年頃の話でしょうか?
野口‥そうです。昭和19年の暮れに近い頃の話ですね。
--------そうすると、フィリピンの関大尉の特攻は報道されていましたか?
野口‥私などは、まだ知りませんでしたね。関大尉については聞かされたとは思いますが、いつ頃だったか記憶が曖昧ですね。
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆野中隊長の思い出
--------神雷部隊隊長の野中五郎少佐は、いろいろ有名なエピソードがある方ですが、お会いになりましたか?
野口‥三〇六の戦闘隊にはよくおいでになりまして、お酒を飲んでいるときにも来られまして、「いっちょ頼むぞ」と、べらんめぇ口調で話されて親しかったですね。
--------相当豪快な方だったらしいですね。
野口‥正しく、そういう感じです。
--------この写真は、昭和19年12月に連合艦隊司令長官が基地を訪問のときの写真ですが、野口さんもご一緒に写られているのですか?
野口‥はい、はい、はい。
--------そのときのことを覚えていらっしゃいますか?当時の連合艦隊司令長官は豊田副武大将ですね。
野口‥そう、一緒に写真撮るから、いる者全員来いってことになって……。
当時、こんな偉い人に会うのは初めてでした。
--------神雷部隊の一員であったということは誇りに思っていましたか?
野口‥特殊部隊だと考えておりましたし、誇りに思っていましたね。他の部隊とは違うと、日本に一つしかない部隊であるという誇りがありました。
--------桜花を護衛する任務ということで、特別な訓練はありましたか?
野口‥一式陸攻の援護訓練というのをしました。敵が来襲した時の護り方や攻撃方法の訓練をしましたね。一度だけですが、昭和19年12月の暮れも追った頃、大分まで合同訓練に行きました。そこで、一式陛攻をバリカン運動で護っていく飛び方とか、敵が釆たらどういうふうにするかということを大体の見当を付けながらやりましたね。大分で一泊くらいして、2日後ぐらいに帰りましたが、天候が悪く、編隊は無理なので単機で帰れということで言われまして単機で帰りました。
--------今と違い、計器類も不十分で、単機で行動するのは危険だったのではないですか?
野口‥我々、戦闘機乗りは計器飛行というのをやらずに、ある程度の感覚で、もうそろそろ神ノ池じゃないかなともぐってみたら、ちょうど羽田の上で、羽田と書いてあったので、もう少し先が神ノ池だと分かっていましたから、それで帰りましたね。
--------そのときは事故なく全機戻れたのでしょうか?
野口‥いえ、2機くらい帰ってこなかったですね。
--------当時、事故で失われた飛行機は相当あったのでしょうか?
野口‥はい、相当ありましたね。ですが、当時はスモッグなんかないですから、三沢辺りから霞ケ浦に用事があって、あるいは筑波に用事があって帰ってくる時など、地図はいらなかったですね。5000mから6000m上空から日本海も太平洋も見えるから、地図がなくてもそのまま帰ってきました。あのころは天気の良い日は非常に視界が良かったですよ。
--------そういう時、やはり日本は綺麗だなと思いましたか?
野口‥ええ、思いましたね。楽しみながら飛んだこともありますね。
--------やがて、神ノ池から九州へ?
野口‥昭和20年に入ってからですね。2月にフィリピンに行くという話は聞いたのですが、駄目になり、今度は台湾へ行くということになりましたが台湾も駄目で、それじゃ九州ってことで都城に行きました。九州は、陸軍と海軍と基地が二つあって、どちらか分からずにみんな陸軍の方へ降りてしまって大変でした。
--------陸軍と海軍は伸が悪かったとよく聞きますが、そういう場合にはどうでしたか?
野口‥親切にしてくれましたね。「海軍基地は隣ですよ」って話だったのですが、もう夕方だったので一晩泊めてもらって翌日もって行きました。そして、都城で猛訓練が始まりましたね。空戦訓練ばかりでした。
--------そういう訓練では、一式陸攻や桜花の部隊も一緒だったのですか?
野口‥いいえ、違います。都城には零戦だけで行きました。それで、すぐ宮崎に行ったんです。宮崎に行ったときには陸軍の「靖国」という爆撃機(※注4)がありまして、海軍の偵察員が乗って爆撃に行くということがありましたけれど、一式陸攻や桜花と一緒の訓練というのは大分の合同訓練以外やっていません。
--------式陸攻や桜花の搭乗員と直接接する機会は無かった?
野口‥ほとんど無かったですね。
--------戦闘機隊と陸攻隊は完全に分かれていたのですか?
野口‥はい、居住区も別でしたからね。
--------戦闘機隊の搭乗員や上官などとは相当親しくなりましたか?
野口‥はい、親しくなりましたね。直系の先輩もいましたし、同期もいましたし、甲も乙も丙も一緒でしたからね。
--------三〇六飛行隊は機数も多かったのですか?
野口‥はい。最終的には60機くらいあったと思います。そして、今度は宮崎から富高基地へ行きました。富高では遊撃戦が始まりましたので、訓練と実戦ばかりしていました。
--------直掩の戦闘機隊の雰囲気はどうでしたか?特攻出撃の掩護ということで気が荒れるというのは無かったですか?
野口‥特に無かったですね。彼ら、陸攻隊の居住区に行くことも無かったですし、同期に誰がいるのかというのも分からなかったですから。
--------訓練をしながら出撃の日を待っていた?
野口‥はい、そうです。
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆B29との遊撃戦
--------その頃はB29による爆撃が活発になっている時期ですが、空襲はありましたか?
野口‥昭和20年3月18日の遊撃戦をやるまでは余り無かったと思います。その遊撃戦の後からは、絶え間なく来たという状況だと思います。
--------3月9日、10日は東京大空襲があったわけですが、ご存じでしたか?
野口‥東京に空襲があったとは聞きました。
--------そうした時、ご家族と連絡を取る手段はあったのでしょうか?
野口‥いいえ。全然ありませんし、別段考えもしなかったですね。
--------3月18日の遊撃戦のお話を聞かせていただけますか。
野口‥私の初めての空戦になったわけですが、私たちの一番機は西村少尉といい、操練の23期の方で戦地帰りでした。水上機から来られた方で、「俺について来い」と言ってくれました。そして3番機は私の同期の小須田という者でした。それで、朝の7時すぎに上空に上がって初めての空戦を行いました。
西村少尉は上空に上がっても、すぐには戦いませんでした。8000mくらいまで高度を取って、空戦から外れて出て行こうとする敵機に上から攻撃するというやり方でした。ああ、なるほどこういうやり方があるのだと、そのとき初めて習いましたね。
--------初陣のときは、やはり隊長機に付いていくので精一杯でしたか?
野口‥はい、精一杯でしたね。だから気が付いたら機銃の弾がもう無くなっているんですよ (笑)。面白いもので、引き金の引き方によっては、すぐに弾がなくなってしまうものなのですよ。やはり戦争というものはやってみないと色々と分からないものなのだと思いましたね。敵機が火を噴いて落ちていくのを見たりして、最初はやはり足が震えましたね。武者震いか、怖くて震えたのかは分からないのだけれど(笑)。
--------当時の戦闘機隊ですと一個小隊4機?
野口‥4機でしたね。
--------初陣の、その後はどうだったのでしょうか?
野口‥初陣は4回ほど着陸しては、燃料と弾薬を補給してまた上がってと繰り返しました。しかし、敵機も次から次へと繰り返し、帰ったらまた来て、帰ったらまた来ましたからね。その晩、私達は20機ぐらいやられたと思います。それで、私が一番伸の良かった畠山という者が戦死していました。その晩は、そのまま鹿屋基地へ行けということになって仲間のうち4機ぐらいが、零戦の後ろに一人整備さんを乗せていきました。私達は翌日、残っている者全員で鹿屋に行きました。3月18日に遊撃戦をやって、19日に鹿屋に機体を運んで行って、20日は休んで、3月21日に神雷攻撃でした。
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆神雷部隊出撃!(1)
--------神雷部隊の出撃は事前に知らされていましたか?
野口‥色々聞いてみると、前もって攻撃命令は出ていたようです。第1回の神雷攻撃は。私達は当日の朝9時頃だったでしょうか。偵察機からの連絡で「敵の艦船上空に戦闘機が上がっていない」と報告を受けて攻撃に行くぞ、と知らされました。それから飛行機を引っ張り出して、お昼前頃から爆撃機から先に上がっていきました。
--------では、野口さんが出撃命令を聞いたのは当日ということでしょうか?
野口‥はい、当日です。まず、全般的な攻撃命令が出て、三〇六戦闘隊は隊長から、「今日の攻撃は大事な攻撃で、かつ、シビアだぞ」と言われました。そこでまた、「自分の腕で護れなかったら身を持って護れ」と言われて攻撃が始まりました。
ですが、18日の遊撃戦で飛行機も、大分くたびれて修理しなければならない部分が沢山あるので、全機出撃はできないかもしれないと聞きました。ですが、「一機でも多く上がっていくぞ。頑張れ」と、言われましたね。
--------野口さんが出撃されたのは午後になってからですか?
野口‥いえ、午前中です。陸攻よりも零戦の方が速いですから、陸攻が編隊を組んで上空を通過した頃に私達は編隊離陸していましたので、直ぐに追い付いてしまうわけです。
--------そこで一式陸攻部隊と合流して直掩の任務に就いた?
野口‥はい、そうです。
--------野口さんの小隊は陸攻部隊のどの辺を飛んでいたのでしょうか?
野口‥左側の一番後ろでした。その辺りで、上に行ったり下に行ったり左右に振ったりしていたわけです。
--------合流した後は、そのまま、真っ直ぐ沖縄を目指したのですか?
野口‥はい、そうです。
--------どのくらいの時間を一緒に飛んだのでしょうか?
野口‥確か、お昼頃に上がって14時頃までだったと思うので、2時間くらいではないかと思います。後方は気にせず、とにかく、くっついて行けばいいと思って飛んでいました。それで、無線機の性能が良くなかったので、私のところまで聞こえなかったですから、何かあれば、そばに寄って行って手信号で合図してました。途中から飛行機が遅れていくだとか、途中で引き返すだとかは余り見ていませんね。だから、結局、全部で何機行くことができたのか私は分からないんですよ。
--------陸攻隊を見るのは久しぶりでしたか?
野口‥そうですね。大分での合同練習に行ったのと同じように護って付いて行くという感じで。天気の良い日でしたね。
--------陸攻には桜花が搭載されていましたか?それをご覧になりましたか?
野口‥そうそう、ぶら下がっていました。私には、敵の船団も見なかったわけですよ。一番後ろで飛んでいたので前しか見ていなかったわけですが、後ろを気にしてなかったのが良くなかったと思うのですが。
--------そこに敵機が現れた?
野口‥そうです。
--------何時ぐらいとかは分かりませんか。
野口‥分からないですね。私は左側の最後尾で、上に上がったり下に下がったりのバリカン運動をして飛行していたときに敵機にやられたわけです。
--------敵機は編隊のどの辺りから攻撃してきたのでしょうか?
野口‥後ろですね。後ろの上からやられたんです。私は方向舵を撃たれました。そして、後ろから来た敵機は我々の編隊の横へ行きました。敵機は私の左側に出ましたので右から高度を上げて戦おうと思ったわけなんですが、そのまた後ろに別の敵編隊がいたので切り返して高度を下げました。
しかし、方向舵がやられてしまって動かなくなってしまったので、余り時間が経つと打ち落とされるのが関の山と思いまして、低空に移動しなければと思いました。そこで270度方位に、3度から5度くらい振りながら南大東島を見付けて、40分から50分かかったと思いますが、不時着しました。
--------敵機の来襲は、方向舵を撃たれたショックで初めて分かったのですか。
野口‥そうです。敵機を見てる間にどんどん落ちていってしまったので、敵機が何機来てどうだったのかというのはちょっと私には分からないですね。そのまま、南大東島に突っ込んでいってしまったから。
--------野口さんが編隊を離脱するときに、仲間の編隊が撃ち落とされるのを見ましたか?
野口‥はい。火を噴いてるのが見えました。
--------野口さんが島に不時着しようとしているのを追いかけてくる敵機は無かったのですか?
野口‥はい。低空に逃げているときに追ってきている機は無かったです。