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特攻インタビュー(第7回)・その8

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通常 特攻インタビュー(第7回)・その8

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/7/4 8:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆野中隊長の思い出

 --------神雷部隊隊長の野中五郎少佐は、いろいろ有名なエピソードがある方ですが、お会いになりましたか?

 野口‥三〇六の戦闘隊にはよくおいでになりまして、お酒を飲んでいるときにも来られまして、「いっちょ頼むぞ」と、べらんめぇ口調で話されて親しかったですね。

 --------相当豪快な方だったらしいですね。

 野口‥正しく、そういう感じです。

 --------この写真は、昭和19年12月に連合艦隊司令長官が基地を訪問のときの写真ですが、野口さんもご一緒に写られているのですか?

 野口‥はい、はい、はい。

 --------そのときのことを覚えていらっしゃいますか?当時の連合艦隊司令長官は豊田副武大将ですね。

 野口‥そう、一緒に写真撮るから、いる者全員来いってことになって……。
 当時、こんな偉い人に会うのは初めてでした。

 
 --------神雷部隊の一員であったということは誇りに思っていましたか?

 野口‥特殊部隊だと考えておりましたし、誇りに思っていましたね。他の部隊とは違うと、日本に一つしかない部隊であるという誇りがありました。

 --------桜花を護衛する任務ということで、特別な訓練はありましたか?

 野口‥一式陸攻の援護訓練というのをしました。敵が来襲した時の護り方や攻撃方法の訓練をしましたね。一度だけですが、昭和19年12月の暮れも追った頃、大分まで合同訓練に行きました。そこで、一式陛攻をバリカン運動で護っていく飛び方とか、敵が釆たらどういうふうにするかということを大体の見当を付けながらやりましたね。大分で一泊くらいして、2日後ぐらいに帰りましたが、天候が悪く、編隊は無理なので単機で帰れということで言われまして単機で帰りました。

 --------今と違い、計器類も不十分で、単機で行動するのは危険だったのではないですか?

 野口‥我々、戦闘機乗りは計器飛行というのをやらずに、ある程度の感覚で、もうそろそろ神ノ池じゃないかなともぐってみたら、ちょうど羽田の上で、羽田と書いてあったので、もう少し先が神ノ池だと分かっていましたから、それで帰りましたね。

 --------そのときは事故なく全機戻れたのでしょうか?

 野口‥いえ、2機くらい帰ってこなかったですね。

 --------当時、事故で失われた飛行機は相当あったのでしょうか?

 野口‥はい、相当ありましたね。ですが、当時はスモッグなんかないですから、三沢辺りから霞ケ浦に用事があって、あるいは筑波に用事があって帰ってくる時など、地図はいらなかったですね。5000mから6000m上空から日本海も太平洋も見えるから、地図がなくてもそのまま帰ってきました。あのころは天気の良い日は非常に視界が良かったですよ。

 --------そういう時、やはり日本は綺麗だなと思いましたか?

 野口‥ええ、思いましたね。楽しみながら飛んだこともありますね。

 --------やがて、神ノ池から九州へ?

 野口‥昭和20年に入ってからですね。2月にフィリピンに行くという話は聞いたのですが、駄目になり、今度は台湾へ行くということになりましたが台湾も駄目で、それじゃ九州ってことで都城に行きました。九州は、陸軍と海軍と基地が二つあって、どちらか分からずにみんな陸軍の方へ降りてしまって大変でした。

 --------陸軍と海軍は伸が悪かったとよく聞きますが、そういう場合にはどうでしたか?

 野口‥親切にしてくれましたね。「海軍基地は隣ですよ」って話だったのですが、もう夕方だったので一晩泊めてもらって翌日もって行きました。そして、都城で猛訓練が始まりましたね。空戦訓練ばかりでした。

 --------そういう訓練では、一式陸攻や桜花の部隊も一緒だったのですか?

 野口‥いいえ、違います。都城には零戦だけで行きました。それで、すぐ宮崎に行ったんです。宮崎に行ったときには陸軍の「靖国」という爆撃機(※注4)がありまして、海軍の偵察員が乗って爆撃に行くということがありましたけれど、一式陸攻や桜花と一緒の訓練というのは大分の合同訓練以外やっていません。

 --------式陸攻や桜花の搭乗員と直接接する機会は無かった?

 野口‥ほとんど無かったですね。

 --------戦闘機隊と陸攻隊は完全に分かれていたのですか?

 野口‥はい、居住区も別でしたからね。

 --------戦闘機隊の搭乗員や上官などとは相当親しくなりましたか?

 野口‥はい、親しくなりましたね。直系の先輩もいましたし、同期もいましたし、甲も乙も丙も一緒でしたからね。

 --------三〇六飛行隊は機数も多かったのですか?

 野口‥はい。最終的には60機くらいあったと思います。そして、今度は宮崎から富高基地へ行きました。富高では遊撃戦が始まりましたので、訓練と実戦ばかりしていました。

 --------直掩の戦闘機隊の雰囲気はどうでしたか?特攻出撃の掩護ということで気が荒れるというのは無かったですか?

 野口‥特に無かったですね。彼ら、陸攻隊の居住区に行くことも無かったですし、同期に誰がいるのかというのも分からなかったですから。

 --------訓練をしながら出撃の日を待っていた?

 野口‥はい、そうです。

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