特攻インタビュー(第7回)・その7
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編集者
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆神雷部隊に志願
--------大分基地での教育が終わった後はどうされましたか?
野口‥4カ月が過ぎ、卒業して、筑波の実戦部隊に配属されるのですが、そこで5人だけが大分に残されることになりました。3カ月ほど操縦教員としての練成をして、筑波に配属になりました。筑波では予備学生の中間練習機の教員をしていました。その時に神雷部隊の話がきました。日本ではこれ以上の部隊はできないと聞かされた。ただし行ったら最後、帰ってこられないということで、自分の家庭のことも考えて長男はダメだとか、戦闘機に乗って国に尽くしたいという者はいるかと聞かれた。この部隊に行きたい者はマルを書いて出しなさいということになった。ちょうど同期に仲の良かった者が二人いまして、それじゃあ一緒に行こうかということで、行くことにしました。その後、三沢航空基地へ行って、予備学生の13期の後期生に零戦の実施部隊の教育をしました。そこで、一段落がついたころに神雷部隊への転勤命令がきて神ノ池へ行きました。
--------神雷部隊への志願ですが、いつ頃あったのでしょうか?
野口‥昭和19年8月ですね。牧大尉という分隊長がおられまして、この方も戦地から帰った方で顔や手に戦傷を負った方でした。この牧大尉が、行ったら戻れない、こういう隊なのだけれども、行きたい者はマルを書いて出しなさいと言いましたね。我々はその時にマルを書いて提出してあって、三沢にいる時に転勤命令がきたというわけです。
--------昭和19年3月、飛行練習生卒業。6月から三沢基地。そして11月に神ノ池に転属となるわけですね。
野口‥そうですね。
--------神雷部隊が「桜花」という特攻兵器を使う特攻隊であるということは、当時、知っていましたか?
野口‥いいえ、分からなかったですね。ただ、行ったら帰ることはできない部隊であると聞いていました。特攻かどうかは分かりませんでした。
--------志願という気持ちは自然に出たものですか?
野口‥う~ん。出ちゃったですね(笑)。長男 片親は考えてもいいぞと言われましたけれども、長男ではないし両親もいるし、と。
--------そこで配属されたのが、第七二一海軍航空隊第三〇六飛行隊だったのですね。
野口‥神ノ池に行った時、副長の五十嵐中佐がおられたわけですが、畠山と言う者と二人で行きましたら、「お前は戦闘機の専修だろう。それならば三〇六へ行け」と言われました。だから、最初の頃は何だか分からないが、また戦闘機に、零戦に乗れるのだと思っていました。しかし、三〇六には人が余りおらず、何をしていいのか分かりませんでした。
そうすると、2日後には、群馬県の大田飛行場へ行って零戦を受け取ってくるよう言われたり、あるいは三菱に行って来いと言われて取りに行き、試験飛行をやって、持って帰ってきたら、今度は、厚木に行って儀装してこいと言われて機銃やらを積んできたわけです。全員がそのようなことをしていたので、三〇六飛行隊には誰がいて、どのくらいの人数がいるのかということが全然分かりませんでしたね。
--------すると、神ノ池基地に配属された当初は、まだ部隊の編成中のような状態であったと?
野口‥はい、そうですね。
--------まだ訓練をするような状態ではなかったわけですか?
野口‥はい、ないです。そのころ、周りから色々と話を開いたところ、零戦でエンジンをカットして降りてきてるのがあるとか、面白い飛行機があるぞと聞いた。それから、やっと部隊として揃って会うようになって、桜花機のことと、こういう部隊なんだという話を聞いて桜花機の格納庫に連れて行かれて初めて理解したわけです。
--------初めて桜花をご覧になったときはどう思いましたか?
野口‥プロペラは無いし、計器は二つか三つしか付いてないし、それでロケットが付いてるというので、どういう風に戦うのかと思っていたら、一式陸攻もあって、一式陸攻に積んでいくと聞かされました。その桜花の部隊に行く方が特攻隊だと聞きました。そこで、我々は、目的地まで連れて行くのが仕事なんだと分かりました。神崎大尉が分隊長のときにもよく言われたのですが、「腕で神雷を護れなかったら身を持って護れ」と。目的地までは何としてでも護っていかなければならないと感じていましたね。
--------それは、昭和19年頃の話でしょうか?
野口‥そうです。昭和19年の暮れに近い頃の話ですね。
--------そうすると、フィリピンの関大尉の特攻は報道されていましたか?
野口‥私などは、まだ知りませんでしたね。関大尉については聞かされたとは思いますが、いつ頃だったか記憶が曖昧ですね。