硝煙の海 菊池 金雄
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清水港向け帰航
数日後、ラワン材を満載して清水港に向った。 遙か沖合から真先に、雲間に浮かぶ秀麗な富士山を望見、母国近しの感激がわく。
入港すると局長は、私を連れて「清水次郎長」の墓参りをしたあと「君の処女航海を祝して乾杯しょう」と小料理屋に入った。開口一番「僕は酒が入ったらキリがないので適当なとき切上げてくれ」と言われたものの、困惑しながらご相伴にあずかる。
雑談のなかで「新米にしては仕事がよくできる」などと褒められ、嬉しかった。彼は、私をからかったものか、適量で帰船したのでホットした。
清水港でラワン材を約半分揚荷して、二月中旬頃名古屋港に回航 。ここで荷役終了後、同月下旬、定期ドック(入渠)のため神戸の三菱造船所に入渠した。
ドック中に一時休暇で帰省。南国みやげ代りに持参した、乾いた椰子の実は珍重がられた。
このとき私は満二十歳となり、乗組員数人と兵庫県の郡部で徴兵検査をうけ、判定は第一乙種で現役入隊を免れた。
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船内のくらし
積み荷にもよるが、日本の各港では着岸しないで沖荷役が多かった。
乗組員の上下船は定時ごとに、在泊している各船を回る「サンパン(通船)」を利用していた。
荒天のときは、この小舟と本船間の乗り移りが難儀で、あるとき船員の奥さんが「タラップ(舷梯)」から足を踏みはずして、海に落ちたこともあった。
私は親に似てアルコールに弱かったので、上陸しても深酔いしないようにしていた。
船の浴槽には海水を使い、あがり湯だけ真水を使った。うねりで船体が揺れるとザアーと浴槽の海水がこぼれ、時化具合のバロメーターにもなった。外洋の海水は透き通るように綺麗だが、港内の濁った水はいただけなかった。
当時停泊中は、燃費節約のため船内作業が終わると発電機をとめていた。その間の照明はバッテリーと石油ランプを併用した。
私が乗船当初、このバッテリーの保守も担当させられた。希硫酸で電液の比重調整したり、過充電など試みたが、寿命が限界で実用にならなかった。
それから間もなく電気専門のエンジニアーが乗組み、本来の機関科にバトンタッチした。この体験によって、私はバッテリーの保守に自信をつけることができた。
長い航海が終わってエンジンの騒音がやみ、シーンと静まった船内は却って眠れなかった。深夜帰船する乗員の乗ったサンパンのポンポンという音も今では懐かしい。
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北米航路
本船は不定期貨物船で、北米航路にも度々就航した。
航海日数を短縮するため、アリューシャン列島寄りの大圏コースが常用で、長大なうねりに翻弄され、片道約二週間の航程だったと思う。
本船の無線電信送信機の電波は、沿岸用の中波と沖合用の長波だけで、遠距離用の短波帯の設備はなかった。
沖合からの無線通信は長波送信機だけが頼りで、東経百八十度付近が北海道の落石海岸無線局と交信できる限界だった。電波が微弱になると相手局の信号が送信用電源のモーター雑音で聞きとれなかった。
このため電波発射直後にモーターを停めるテクニックには少なからず苦労した。
この地点を過ぎると、他船の無線中継に頼るしかなかった。非常用の予備送信機(写真)は原始的な火花式で、送信機とアンテナ間の露出している銅管類をピカピカに磨かないと、局長のご機嫌が悪かった。
受信機はチックラー・コイルが露出しているオートダイン型で、船の動揺でコイルの間隔がずれると感度が変化するため、辞書などで動きをとめる工夫が、ユーモラスだった。またこの受信機には鉱石検波器を付加し、故障したときの予備受信機の機能があった。
太平洋航路の日本の各船は、自船の正午位置を放送する習わしがあり、視認できなくても連帯感があった。
船内の楽しみのひとつに「船内新聞」があった。定刻に船舶向新聞電報を受信、清書して掲示するのが私の担当であった。
特に相撲や野球などは人気番組で、折角苦労して書いたのに漢字ミス等を指摘されると内心面白くなかった。 これは単調な遠洋航海の、娯楽に飢えた生活からでもあったろう。
その後短波受信機が設備され、遠方でも新聞電報が受信可能となり、私のノルマが増えてしまった。
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アメリカ第一歩
サンフランシスコに入港するとき、金門湾にかかるゴールデン・ゲート・ブリッジの下を通るのであるが、目の錯覚でマストがあたりそうに見えたが心配無用だった。
水先艇の米人パイロット(水先案内人)が、風波に翻弄されながら勇敢に本船の縄梯子に飛びつき悠々とよじ登った。彼のプロ根性には感服してしまった。
入港日は新鮮な野菜やフルーツの盛った洋食メニューに舌鼓を打つことになる。私はそのときはじめて「サンキスト・オレンジ」を味わった。
翌朝、岸壁周辺には多数の乗用車があった。誰のものかと思ったら荷役作業員のマイカーとは、びっくりの巻。また、日本人経営の船舶食料品店にも自家用車が数台あるとのことで、生活レベルの格差には、ただただ驚くばかりであった。
波止場から繁華街まで離れていた。仲間とテクテク歩いていると、帰宅する作業員達が気軽にクルマを止めて乗せてくれた。
とあるスナックでイタリー人から声をかけられ、何かヤンキーの悪口を言っていた。多分日独伊親善のゼスチャーであったろう。
門広チーフオフィサー(一等運転士)は、素面は善人だが酒癖が悪く、外人にも難癖をつけるので、はらはらさせられたものである。
サンフランシスコの積み荷は、ドラム缶入り航空用ガソリンで「呉」行きの表示があり、荷役はフオークリフトなどを使って機械化されていた。
午後五時になるとデリックに荷物を宙づりのままでも一斉に終業していた。(これらの輸入ガソリンを使用、強大国相手に戦いを挑むとは正に無謀で、感無量なるものがある)
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召集令状
火気厳禁の危険物を満載して太平洋のど真ん中を母国向け帰港中のある深夜、局長に「おい、きたぞきたぞ」とたたき起こされた。何事かと思ったら召集令状電報であった。
しかし指定入隊日までに帰国できないので、その旨返報したところ、折り返し召集免除の電報が届いた。
帰国したら、村役場から「点呼延期願」をすぐ提出するよう書類が届いていた。
船員は特別扱いのためか、その後二度と召集令状はこなかった。
ロングビーチ寸景
ロサンゼルス近郊の港、ロングビーチに一度だけ入港したことがあった。
そのとき付近の入江で、多数の小型水上機が発着水する光景を垣間見たが、遊覧飛行ではなかったろうか。
入港後、先輩と一緒にディズニーランドに行く。まるで別世界の感じで、日本では見かけない色々なレジャー具があった。
そのひとつ。天井と床から通電する風変わりな電気自動車に乗った親子が、逆ハンドルのためかガチャンガチャンとぶつかり合って (そのたびに天井の電極から火花が飛んでいた)興じていた。
先輩に面白いからと無理やり乗せられ、肝を冷やした乗物はジェットコースターだった。
驚いたことに、ヤンキーギャルがキャッキャッとはしゃぐのに、私は必死の思いでハンドルにしがみつき「日本男児がこんな所で憤死したらつまらん」と、悲壮感を味わった。(どういう訳か、孫娘のひとりがこの種遊具が大好きとは、宇宙飛行士向きかも知れない)
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日系人と交流
シアトル南部の淡水で透明なコロンビア川 を遡行、ポートランドで米材を積載したことがあった。
岸壁脇には大きな製材工場があり、丸太は全部角材にして積み込んだ。
荷役後の夕方、船の回りに中国人風の労働者数名が集まってきた。
何か躊躇しながら「私たちはここの日本人作業員だが、最近の母国の様子を伺いたいの で、すぐそこの宿舎まで遊びにきてほしい」とのこと。お安いご用とばかり訪問した。
木造宿舎の広間にはキッチンとテーブル、ベット程度で殺風景だった。
船員側から「なぜうろうろしていたのか」と尋ねたら「日本船だから日本船員と思ったが、どうも中国人の感じがしたため」と答えので「実は船側でも、あなた方をそう思っていた」と、大笑いしてしまった。
彼らは「この工場では、日系労働者の処遇は米人よりいつも下位である」と不満を漏らしていた。
やはり日米の雲行きが心配のようだったので「万一開戦しても、日本には神風が吹くから心配無用」と、全く無責任なことを言ったような記憶がある。 (往時を顧みるとき、在米日系人は等しく米国の底力を正しく評価していたことと、自身の非常識に恥いるばかりである)
この航海の帰路は津軽海峡~日本海ルートで、船上から母国の山影を望み上海に直行した。
季節は真夏。上海の街で浴衣姿の女性を見かけ、一瞬、母国と錯覚しそうだった。
ポートランドで岸壁搭載の材木は、沖荷役のため無残にも黄浦江の泥水に下ろしていた。
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南方航路
南国で迎春
昭和十五年十二月末、北ボルネオでラワン材を積み込み、同島北岸に仮泊して昭和十六年の新年を迎えた。
私にとっては始めて船上の迎春であったが気候が日本の真夏なのでピンとこなかった。
まず全員が礼装して母国に向かって遙拝後、記念撮影。サロンで賄い部心尽くしの豪華な正月料理を囲み乾杯。平和な海での船内パーテーは、大家族的雰囲気で盛り上がった。
軍のスパイ暗躍
あるときビルマ(現在のミャンマー)のラングーンに外米積み込みに就航した。
従来本船には専任の事務長は不在で、チーフオフィサーが兼務していた。なぜかこの航海に事務長なる人物が乗り込んできた。彼は英語が得意なので、現地で買い物するときなど皆から重宝がられていた。私も彼の巧みな話術に便乗して、背広の生地を買った筈である。
某日。サンパンで帰船する船員に紛れ込み、事務長と一緒に現地青年数人が密かに乗船してきた。多分、日本への留学生なのかと思っていた。
数学が得意の電気技師の出問に正解するなど、教養のある青年たちのようだった。
荷役が終わったので日本向け帰港の途につき、マラッカ海峡を通過してシンガポール沖にさしかかったとき、英軍機が一機飛来した。
そのとき事務長が、デッキに出ていたこの青年たちに「すぐ室内に入れ」と、厳命していた。一体彼らは何者だろうと船員たちは不審に思っていた。
東京に入港間近になったとき、彼の事務長が参謀本部に「託送品授受」の電報を打ったので、やっと彼は軍の諜報機関の者と推察された。
この青年たちは戦中、戦後どのような人生をおくったことであろうか。
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「軍のスパイ暗躍」追跡情報(平成二十年十一月)
―ラングーン米積取り船による南機関の工作か?
南機関発足
昭和十六年二月一日 参謀本部に陸海軍関係将校が参集し、ビルマの独立支援目的の「南機関」(機関長・参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐)が、大本営直轄機関として設立され、同大佐は同年三月、大本営陸軍部から、ビルマルート遮断策について研究するよう内示をうけた。当時ビルマに関しては海軍がラングーン在住の予備役大尉国分正三を通じて早くから情報収集に努めていたが、陸軍側にはあまり情報は無かった。それで鈴木大佐は活動開始にあたって上海の特務機関員の樋口猛、興亜院の杉井満、満鉄調査部の水谷伊那雄らに協力を求めた。
鈴木大佐は同年六月、日緬協会書記兼読売新聞特派員「南益世」と偽ってラングーンに入り、タキン党員と接触の結果、アウン・サンとラミヤンがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招くこと決めた。十一月、アウン・サンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に移送された。鈴木大佐はアウン・サンに「面田紋二」、ラミヤンに「糸田貞一」の偽名を名乗らせて郷里の浜松にかくまった。
アウン・サンたちの来日を契機に、陸海軍は協力して本格的な対ビルマ工作を推進することを決定。当面、対外的には「南方企業調査会」と、偽称することとした。
主要メンバー
陸軍 -鈴木敬司大佐(機関長)、川島威伸大尉、加久保尚身大尉、野田毅中尉、高橋八郎中尉、山本政義中尉(川島大尉、加久保大尉、山本中尉は陸軍中野学校出身)
海軍 - 児島斉志大佐、日高震作中佐、永山俊三少佐
民間 - 国分正三、樋口猛、杉井満、水谷伊那雄
鈴木大佐は南機関の本部をバンコクに置き活動を開始した。南機関の任務は、世界最強のイギリス情報機関を相手として、日本の関与をいささかも漏らすことなく謀略を成功させるという極めて困難なもので、次のような行動計画を立てた。
ビルマ独立運動家の青年三十名を密かに国外へ脱出させ、海南島または台湾において軍事訓練を施す。訓練終了後は彼らに武器、資金を与えてビルマへ再潜入させ、武装蜂起の準備をさせる。武装蜂起の時期は昭和十六年年六月頃とする。
同年二月十四日、杉井とアウン・サンの両名に対し、ビルマ青年の手引きを命ずる作戦命令第一号が発せれた。両名は船員に変装して、ビルマ米輸送の日本貨物船でラングーンへ向かい、第一陣のビルマ青年四名の脱出を成功させた。以後六月までの間に、海路及び陸路を通じて脱出したビルマ青年は予定の三十名に達した。この三十名が、後にビルマ独立の伝説に語られることになる「三十人の同志」である。
四月初旬、海南島三亞の海軍基地の一角に特別訓練所が開設され、ビルマ青年が順次送り込まれて過酷な軍事訓練が開始された。ビルマ青年たちのリーダーはアウン・サンが務めた。訓練用の武器には中国戦線で捕獲した外国製の武器を準備するなどして、日本の関与が発覚しないよう細心の注意が払われた。グループに比較的遅れて加わった中にタキン・シュモンすなわちネ・ウィンがいた。彼は理解力に優れ、ひ弱そうに見える体格の内に凄まじい闘志を秘めていた。ネ・ウィンはたちまち頭角を現し、アウン・サンの右腕を担うことになる。
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謀略作戦の実態
独立運動指導者を日本に亡命させる目的で、同年二月十五日、杉井満とアウン・サン(日本名;面田紋次)の両名が偽造船員手帳(事務長;杉井、事務員;面田)を携行。船員服を着用して川崎在泊中のビルマ米積取りの大同海運「春天丸」に乗り込みラングーンに向かった。
この偽装船員乗り込みの件は、南機関長が秘密裏に船会社と逓信省に根回ししていた。他方、船長には二人の任務を伏せていたが、春天丸がシンガポール通過の前日、任務の一端を明かし、ある程度の針路命令権を承認させ、同時に一等運転士と機関長にも協力を求めた。
春天丸はバイセンに寄港し、船員に税関ゲートに警官不在を偵察させ、杉井、本船機関長、アウン・サン、ほか二名の船員とともに、バナナ買出し風に装って税関ゲートを通過。四百メートルほど先の木陰で、杉井が腹に巻いて携行した「ロンジー」をオンサンに着用させ、偽歯と留比を手にして間道からバイセンの町に送り込み、ヘンサダ経由の汽車でアウン・サンをラングーンに潜入させた。
その後、春天丸は英官憲の人員点呼をうけたが、予め関係書類は一名減じていたので無事クリアしたので、同船はラングーンに回航し、ビルマ米積み込み荷役に従事した。
アウン・サンが引率する脱出者収容時刻を翌日の二十三時三十分から一時間の間と内定していたので、杉井は上甲板、一等運転士は船首、船長は船尾、その他船員も適所に配置して受け入れ態勢を整えていたが、かねて打ち合わせの艀伝いのルートから定刻までに姿を見せなかった・・・事後確認では、在船の警官四名の監視下では予定コース進入は困難のためアウン・サン一行は一時、船尾係留浮標上に待避。係留鎖をよじ登って、一同無事決死的潜入に成功したのであった。
かくして脱出第一号作戦の四名は三月二十三日、東京に帰着することができた。
引き続き、第二号作戦は木俣豊次とフラミヤイン(日本名;糸田貞一)により八名。第三号作戦は杉井満により三名。第四号作戦は水谷伊那雄により十一名の脱出に成功している。
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恵昭丸による脱出工作
目下、関連文献からは恵昭丸での脱出工作を明記したものが見あたらないが、工作の時期および工作員は偽装事務長一名、脱出人員三名であったことから杉井満による第三号作戦の可能性が高い。
アウン・サンのプロフィール(一九一五~一九四七)
ラングーン大学在学中から民主主義運動に熱中、戦前からタキン党(タキンはマスターの意味で、ビルマ人がビルマ国の主人であることを意味する)書記長としてビルマ有数の政治家の一人だった。
イギリス官憲の弾圧を逃れて地下に潜行。一九四〇年日本に亡命して開戦と同時に南機関が編成したビルマ独立義勇軍参謀として日本軍に協力してビルマ戦線で戦った。
一九四三年に日本の工作で成立したバー・モー内閣の国防相に就任。その後、日本の軍政に反発して、ビルマ国防軍を組織し、英軍に協力して抗日戦に踏み切った。
彼はビルマの完全独立後の指導者になる声望があったが、一九四七年、戦前の英国傀儡政権の首相だったウー・リオ一派の凶弾に倒れ、三十二歳で亡くなったが、暗殺された七月十九日は「殉国者の日」として、ミャンマー国民の休日になっている。
また、ノーベル平和賞受賞のスー・チーさんはアウン・サンの遺児である。
付記
本稿について、改めて検証を試みたい思いがあるが、筆者は高齢柄至難と思う。
参照文献
ビルマ独立秘史 泉谷達郎著 徳間文庫
資料・研究ノート ビルマ国軍史(その一)大野 徹 大阪外国語大学
関連WEB
春天丸サイト
東南アジアの歴史
アウンサン将軍