特攻インタビュー(第6回)
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆特攻訓練マニュアル(2)
--------堀山さんも配布された書類に基づいて訓練計画を立てたのですか?
堀山‥昭和20年5月初めから館林に先着し、訓練を開始した第一八一、一八二、一八五、一八六振武隊の4隊・第一組は当然、攻撃計画まで出来て、関東平野で高度100mでの低空航法や羽田沖の仮設目標に対する超低空攻撃の訓練を済ませていました。実際、私が6月3日に着任した際、館林飛行場の北の、東武鉄道小泉線に沿った松林を掠め、さらに高度を落として10から15m位を時速550~580kmで南に飛び去る四式戦の姿は凄い気迫でした。その姿に、「歩兵の突撃もかく在るのか!」と感動し、アルバムの四式戦の写真の下に「我等の突撃機」と書き込んだ位です。私は配属が遅く、四式戦12隊の内、第一組の4隊の四式戦特攻のようには未だ特攻の本格的な訓練に入れず、第三組の4隊で一九四が最後、ようやく編隊飛行の程度でした。残念ですが、私は超低空を一度もやらず、体験のない突入訓練に嘘は言えません。
教育で面白い事がありました。中学時代入手した「海と空」の臨時増刊で、「商船の形態」という東京高等商船学校(現・東京海洋大学) の教授の本があり、内藤博弼君(第一九二振武隊長/57期)の「精神訓話」と引き換えに、これで2隊を教育しました「陸軍の攻撃目標は軍隊輸送船で、商船と同じ船首楼、船橋楼、船尾楼と絵の如く3個の山が特徴だ。これを『スリーアイランドベッセル』と言う。『三島型船』である」と教え、後で試験をしたら、皆、英語の方で答えが出ました。「精神訓話」を他人に頼むのはどうかと思いますが、内藤君は広島幼年学校出身の立派な精神家でしたから。
その後、隊のことは上田少尉に任せて、すっかり手を抜き、一生懸命に「体当たりの方法」を研究しました。指示された部隊の訓練は「超低空喫水線上水平攻撃」ですが、せっかくの250kg爆弾2発のエネルギーを無駄に空中に飛散させるより、水面下に入って水中爆発させれば、これでも海軍の800kgの魚雷に似た大きな効果が得られるはずだ。最初に海面に入る時に瞬発信管を短延期信管に切り換えておいて、0・何秒か後で爆発させれば手前で水中爆発でもいい、多分大量の海水が侵入するか、輸送船の舷側を突き抜けた後ならボイラーも爆発し、敵の1万トンクラスの軍隊輸送船なら一挙に、敵兵千人、戦車、重砲、武器、弾薬多数を轟沈出来るのではという結論に到達しました。6月頃、第三十飛行集団の高橋太郎参謀(50期/少佐/飛行第九八戦隊長/台湾沖航空戦に四式重爆(飛竜)を雷撃機として参加、一撃でほとんど全滅) に館林飛行場でこれを意見具申したら、「面白い。考えて返事しよう」と言われました。ところが7月に第三十飛行集団は市ヶ谷から熊本・健軍に移動。多忙でご返事はなし。部下には私のやり方を強要出来ずにいましたが、自分だけでもテストするつもりでした。陸士時代、戦術作業もあまり良くない成績でしたが、これは一生懸命に考えました。なにしろ自分の生命を賭けた一世一代の体当たり攻撃ですからね。ですが、実行に移す前に戦争が終わりました。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆特攻訓練マニュアル(3)
--------自分でいろいろなアイデアを出して訓練方法や攻撃方法を考えられたわけですね?
堀山‥戦後、調べたら、私の考えが間違っていなかったと思わせる文献を二つ見つけました。一つは陸軍が特攻を考えた時、昭和19年11月に、第三航空技術研究所長・正木博少将が「捨身戦法における艦船攻撃の考察」を参謀本部に提出した中の、六つの攻撃方法の中で四つは「水面下爆発の有効性」が書いてあり、「然し困難で喫水線上を勧めて」おられます。戦後刊行の「戦史叢書・決戦兵器の整備-長期的研究の廃止」455ページを参照していただければと思います。「続・陸軍航空の鎮魂」という本にも、どこかにありました。
もう一つは海軍の話で、「造艦技術の全貌-わが軍事科学技術の真相と反省(1)」(輿洋社)で、元海軍技術少佐の福井静夫氏が著述した第一部の中に「水中弾道」の記事が24ページにあります。廃戦艦「土佐」による防御実験の話です。当時、魚雷に対して十分の防御がされていたが、40センチ砲弾の至近弾が反跳せず、水中を進行して舷側甲板下を貫通し、水雷防禦壁を苦もなく突き破って機械室で炸裂し、大損害を生じた……浸水量は3000トンであた……。まあ、私の攻撃方法は戦術作業の 原案」を当てたようで嬉しくなりました。
--------「水面下に当たる」という攻撃方法は結局、訓練するまでに至らず……
堀山‥私もやっと2カ月位で、これでも一生懸命に考えたのですが、狭い一人の着想で止まりました。とても館林が皆、この方法を採用するまで発展は考えず、又、先に散った特攻の先輩のそれぞれにあった着想も残っていないし、情報交換の場もなかったのです。
この「体当たり」については、百式司偵の特攻、第二七〇振武隊長の折原志津夫君(航士57期)から、戦後に開いた珍しい話があります。ある時に海軍の将校から「敵艦の後部の舵やスクリューを狙っては」と言われたそうです。これは、昭和15年にドイツの戦艦「ビスマルク」を、イギリスの「ソードフィッシュ」という旧式の複葉の雷撃機が舵に魚雷を命中させて、「ビスマルク」はクルクル回ってフランスの軍港に戻れず、追撃してきたイギリス艦隊につかまり撃沈されてしまったのです。空母などは艦載機の離発着は高速力で直進せねばならず、舵やスクリューを破壊したら、空母の機能は停止し、後方へ退くにも駆逐艦数隻をつけねばならず、大戦果でしょう。中学時代に知っていたはずなのに……。館林の19人の特攻隊長が皆、合同で攻撃方法を議論することが全くなかったのは反省すべきですね。
--------館林には19個の振武隊が集まって合同訓練したということですが、訓練自体は隊ごとに別々だったのですか?
堀山‥館林飛行場は縦横1400mの草飛行場で、四式戦の当隊の場合、一九一一九二、一九三、一九四の4隊が格納庫の前で飛行訓練し、他に飛行機を見ず、他の隊の訓練を一切見ていません。上手に区分して使用したようです。
試験飛行の話ですが、57期の藤井常男君(第一八八振武隊長)が「重量物搭載」飛行を行いました。2001の落下タンクに水を入れて、2個で4001。まあ250kg爆弾2発位の体験になり、大変、操縦の自由が利かなかったそうです。四式戦の性能は高度6400mで時速624kmですが、「だんだん粗製濫造になり、性能も無理だろう」と、私も試験飛行で高度4000mから角度35度、レバー全開で実行。計器盤で時速624kmを視認しました。その際、急降下から上昇に転じるのに「トリムタブ」を使い、滑らかに上昇するのを体験しました。「タブ」は四式戦から初めてついて、場周離着陸時に使いましたが、他では使用の経験がなく、「おや、面白いな」と感じた位でした。特攻出撃で、超低空で行く時に、舵に敏感な四式戦は高度保持に苦労するはずですが、戦後に、航空自衛隊の戦史官の服部省吾さん(防大6期) の「操縦のはなし」という本に、タブを使い遠方の目標で高度10~15mをとれば楽に飛べることが書いてありました。なぜ56期の教官もそれを教えてくれなかったか……中島飛行機の技師も陸軍に上申してくれなかったか……惜しい事でした。トリムタブは、せっかく使えたのに残念です。超低空飛行の苦労が一つなくなったら、上空の警戒や編隊の調整など、もっといろいろ気を配れたと思います。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆特攻訓練マニュアル(4)
--------館林時代は基地の外で生活をされていたそうですね。
堀山‥特殊任務の戦力保全の意味もあり、隊員が空襲などで部隊とともに被害を受けることを考え、営外に分散させたのでしょう。振武隊は140番台から、12機編成の特攻隊を6機に分割し、兄弟隊とし2隊そろって同じ空いた旅館に泊まりました。これから3カ月で死ぬのだから自由な生活を配慮したのでしょう。それでバスが巡回して隊員を迎え、飛行場に往復してくれました。戦後、他の同期生に聞いても大体同様でした。館林は特に良くしてもらったかもしれません。必死必殺、肉弾体当たりの任務の部隊など、今までの陸軍にありませんでしたからね。
--------航空士官学校出の将校と転科組の将校では、やはり違いがあったのですか?
堀山‥予科は一緒ですが、航士の豊岡は多少スマート。地上の座間は垢抜けしない。でも、それほどの差は陸軍では出ません。海軍はずっとスマートと妹が言っていました。しかし、将校としての「基本的な志」は陸海軍とも同じです。ちっとも違わない。
私など師団砲兵で、しかも輓馬野砲で、まあ「馬方さん」が「パイロット」に大昇格したのだから野暮ったいのは免れない。飛行時間で遅れた分、多数は特攻になりました。飛行時間150時間の中尉では特攻でも難しかったはずです。豊岡の者も「転科は気の毒だ」と言いました。
--------転科組が優先的に特攻に回されたというところがあったのでしょうか?
堀山‥それは空中戦の戦技能力で分けたでしょうね。当然です。文句などありません。
--------実力でそうなったと。
堀山‥そうです。遅く航空になって、飛行時間が少なければダメなのです。でも、特攻は命中すれば効果は同じ。将校も下士官も戦果は一緒です。うまく当たれたら、もうそれで満足でした。
--------戦記ものを読むと、例えば海軍なら、特攻隊員は海兵出よりも予科練出の方が多かったとか、予備学生の方が多かったなどと書かれていますが。
堀山‥組織は三角形で、上は少なく中より下が多いのです。軍隊も社会も同じ。特攻隊もそうです。軍艦の海軍は陸軍と違い、海兵は少なく、陸士は53期から大陸作戦の関係上、たくさん将校を準備しました。大東亜戦争で戦場が拡大した海軍は、初級将校を大量の予備学生を採用して穴を埋めたのです。同じ少尉で3年かけた者と1年の者では、どちらを残しますか?海兵の特攻採用は世間の常識の範囲のやり方だったと思います。でも当時は海軍の予備学生の方が、陸軍の特別操縦見習士官よりスマートで評判が良かったんですよ。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆マークと隊名にこめた想い
--------机の上の四式戦の模型がありますが、操縦席の近くに「194振」と書かれていますね。実際の機体にも同じように書かれていたんですか?
堀山‥普段は書かず、出撃と決まってからです。この本……「館山の空」に、隊員が大きく番号を書いた写真がありますが、もうこれで最期だからと隊長が許したのでしょう。この模型は友人が精密に作ってくれたものです。マークは私が考えたもので、「194」の字を1、9、4に分解して爆弾に表し、敵の空母に我々の爆弾が命中して波間に沈めるという意味です。出撃まで訓練も進んでいなかったので隊員にも言っていません。だから、マークのことは隊員も知りません。
--------マークだけでなく、第一九四振武隊の隊名も考案されたそうですね。
堀山‥当時、番号の他に皆、隊名をつけました。私も「深山桜(みやまざくら)隊」としました。東京の三輪田高女の妹が女子挺身隊として大本営第二部にいました。そこに51期の渡辺正という地図係の参謀がいて、彼が陸士予科の区隊長時代、「花は深山の山桜黙々咲いて淡々と 雲煙遠く世を眺め万朶の桜と 薫るなり」という歌を作って、流行歌の「男の純情」の節で生徒に屋上で歌わせたという。妹は「黙々淡々」と言い、小生も同感。私の先祖が松阪で、本居宣長という有名な国学者の出身地でしょう。「敷島の大和心を 人問はば 旭に匂う 山桜花」……それで、これにしました。部下には「我々は深山の山桜のように人知れず咲き、人知れず、ただ任務だけを果たして黙って死んで行こう。戦果確認機はいらぬ」と言い、皆、賛成しました。第一九三振武隊の松田二男君のは「七生白虎隊」といい、天皇への忠臣・大桶公の誠忠の七生報国と、仙台幼年学校出身の彼は会津の白虎隊の忠烈とを併せたものです。百式司偵の第二七二振武隊の長沢隆徳中尉(航士/少尉候補生24期)は「轟隊」で、おそらく「空母轟沈」を祈ったのでしょう。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆突然だった終戦(1)
--------終戦前後はいかがでしたか?
堀山‥昭和20年8月5日、百式司偵の第二六八振武隊(梶川正夫大尉/陸士55期/卒業時の転科で既にベテラン/雲染屍隊)が千葉県・八街飛行場に前進し、見送りました。館林は全部、福岡の第六航空軍の指揮下と思っていたので、なぜ第一航空軍の八街飛行場に行くのかと見送りながら奇異に感じました。司偵特攻は第一航空軍に転用されたのか、よく判りません。
私は当時、知らなかったのですが、8月13日、14日頃には、四式戦特攻の一八一、一八二、一八五、一八六の4隊に九州への前進命令が出たり、取り消されたり、かなりの混乱がありました。第一八六振武隊の落合成郎君は「出陣食」というご馳走をいただいたと言います。「戦史叢書・本土決戦準備1関東の防衛」 の591ページには、8月中旬の航空総攻撃に、第六航空軍は全特攻を九州地区に集結し、8月15日から22日の一週間にわたり、同地区の全航空兵力を合わせて沖縄方面の敵に対して連続波状攻撃を加えることが計画されたとあります。8月15日は終戦の日で、準備と発動、終戦工作が交錯して混乱したのでしょう。でも、結局、館林の特攻隊は九州には出ませんでした。
--------では、8月15日の終戦は突然の出来事でしたか?
堀山‥前日の8月14日の晩、B29が飛行場に焼夷弾爆撃をしたのですが、館林中学の右手の3階の建物に宿泊していた我々は、焼夷弾の閃光に「原子爆弾か!」と毛布に潜り込んだのだからお恥ずかしい。玉音放送は中学校で全隊長が集まり拝聴し、全然内容は判らず、隊長の落合君が「ワッ」と泣いたので「さては負けたか!」……途端に目の前が灰色になり、そのままでは立っておれず、机にすがって「しまった。逝った同期生に死に遅れた!」とのみ思い、もう、それは皆、呆然としました。
--------終戦から復員まではどうだったのでしょうか?
堀山‥酒井剛集成教育隊長(陸士48期/歩兵第五連隊/航空転科/第三十戦闘飛行集団部員で比島作戦に従事)は、直ちに「承詔必謹」と「祖国再建」を説かれ、一同同感。混乱は全くなく、さすが当時、「私心」 のない特攻隊長は立派でした。これはなかなか出来ないことでした。
日本軍の飛行は禁止され、8月17日が最期の飛行の日となりました。「最後に乗りたい」と隊員が言いましたけど、私は部下を飛ばせませんでした。精神が動揺していて危険だと判断したからです。果たして他の隊で1名、郷里訪問で不時着しました。そういうのは名誉なことではありませんから、部下を飛ばせなくて良かったと思っています。8月28日、部隊解散の式に、敵のF4Uボートシコルスキーが館林飛行場に飛来し、超低空で我々を監視に来たのには悲憤の涙を拭いました。終戦当時、館林飛行場には四式戦が12個隊分72機、百式司偵の特攻4隊、キ115特攻3隊の分を含め80機くらいの飛行機がありました。予備役将校(幹部候補生、特別操縦見習士官)と現役下士官(少年飛行兵)は直ちに復員。我々、陸士出身の現役将校の隊長19名は下館の住吉旅館に移動。いったん自宅に帰り、再び戻り、9月27日に復員、帰宅しました。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆突然だった終戦(2)
--------終戦の8月15日を境に、軍人を見る国民の目が厳しくなったという話を聞きますが。
堀山‥いくら日本人は軽薄といっても、そんなことはないです。昔から、「今どきの若い者は」と言われたものですが、当時、我々「特攻隊員」に言った者はありません。手を返したように、あなたはそんな事を当時の国民が我々に言えると思いますか?
--------ご自宅に戻られてからは?
堀山‥昭和20年9月27日復員。10月杯は東北の有畜帰農講習会へ。ところがインフレが始まり、帰農は止めて大学受験に方針変更しました。11月から小平の進学講習会へ。そこでは陸軍の文官の教官などがいろい教えてくれました。でも、微分方程式など数学も大分、忘れていて理系を文系に変更。占領軍の軍学徒一割制限の下、昭和21年春、慶應義塾大学の法科に進学しました。父に叱られた前非を悔いて3年間勉強し、卒業の成績は父に喜んでもらえました。
--------特攻隊長から大学生と環境が大きく変わったわけですが、心の整理みたいなものは特別にあったのでしょうか。
堀山‥終戦の時、戦争に負けたのは悔しいが、祖国を再建し、昔日の日本を再現してやると決心したので3年間の勉強はその準備と決めていました。慶應1年の時、小泉信三塾長を「福沢先生研究会」の皆で訪問した時、海軍の青年将校の写真があったので先輩に聞くと、一人息子さんが海軍で戦死されたという返事でした。現役の特攻隊長が負けて大学に入れていただき、塾長の令息は亡くなっておられ、これには申し訳なく思いました。
--------戦後、陸軍軍人だったことや特攻隊長を経験したことは役に立ったと思うことがありましたか?
堀山‥陸士は私に最高の教育をしてくれたと思います。戦後、勤めた三井東圧化学で副社長(東大出身)が、「君には部下がついてくるが、彼にはついて来ない」と東大の同僚と比較されたこともありました。頭もある程度いい。体は良いし、金は間違いないし、実行力はある。会社の体制派からみれば、こんな使いやすい社員はなく、まあ、体育会系みたいなものです。
--------軍隊体験と言っても、隊長として部下を持った体験は特別ですか?
堀山‥そうです。同期生でも隊長をやった男と、やったことのない男では明らかに差があり、副隊長と隊長でも違うでしょう。隊長は本当に最終責任者ですから。逃げられないのです。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆「館林の空」編纂
--------堀山さんの戦争体験をいろいろ伺っているのですが、特攻隊の思い出を戦後、語られるようになったのはいつ頃からでしょうか。また、話したくないと思われた時期がありましたか。
堀山‥悪事を働いたわけじゃないし、卑下して話せない、話したくないと思ったことはないです。若い頃は陸士の同期生の集まりの世話役で、軍隊のことは皆、お互い自由に話していました。あの犠牲的な行動を何も恥じることなどないと思います。反省ならいざ知らず、否定するなど……私など特攻と言っても、まだ半分位の隊長の分際で、散られた方を批判などどうして言えますか。
書いて残したいと思ったのは、51年間ブツ通して働き、77才で年金生活に入る時で、その後の人生の軟着陸のために「館林の空」を記録としてまとめて残そうと思いました。
--------「館林の空」を編纂されて、一番、苦労したことは何でしょうか?
堀山‥一つはメンタルな心情的なことは各人各様に任せ、「記録」としてなるべく広く正確に全体を述べることと、二つ目は122名の館林の特攻隊員の「写真の収集と完全な返却」でした。当時の写真はご本人にとって「宝物」です。苦労して集めた256枚を間違いなくお返し出来て、一番ホッとしました。
--------メンタルな部分は極力排除する方針とのことですが、松田二男隊長の手記として、特攻命令を出した上層部への不満を述べた文章が載っていますね。
堀山‥本当はその10年位前から、本文は松田君、122名の住所は木下勇君(府立四中四修/機甲兵/第二二九振武隊長/キ115特攻)、私は写真の収集と、役割を分担して準備をしていました。それが松田・木下の2人が相次いで亡くなり、私がすべてを行わなければならなくなりました。ところが、松田君の遺稿がどうしたことか全くなく、あの文章しかなかったのです。それに彼の上層部への批判は私も同感なのです。地上から佐官位で航空転科した参謀が飛行機の操縦も知らず、地上の図上戦術の感覚で飛行機の集中使用の原則や気象条件も判らずに「戦機に投じよ」と出撃を強制し、無駄死にさせたことを怒っているのです。観念論ではないのです。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆慰霊と平和祈念だけでなく戦没者の顕彰を
--------堀山さんもこの本で、いろいろ特攻についての所感を書かれていますが、改めて伺いたいのですが、堀山さんにとって特攻とはどういうものなのでしょう。
堀山‥もし、特攻を行わなくてすむ戦況なら、私だって志願しません。こんな消耗戦術が続けられるはずがありません。当時、あの戦法以外に勝利への途がなかったから、私は進んで志願したのです。降伏せよと言うのですか?それは軍の上層部の担当です。第一線部隊の下級指揮官は死力を尽くして戦うだけです。
--------特攻隊員としては出撃するのが当然という気持ちは理解できるのですが、送り出す家族の立場を考えたらどうでしょうか?送り出す立場からみれば、特攻も違った視点から考えなければならないと考えますが。
堀山‥それはあるかもしれません……しかし、それでもだ!……それでもやらなきやいかんと思います。そうしなければ一国は滅亡すると思う。親兄弟には心理的な大きなショックで、長期に国内が特攻を継続出来ず、政治の分野にも関係したでしょう。一億総特攻というスローガンも昭和天皇の御聖断で終わりました。これは当時の均衡の取られた処置です。しかし国民としては、やはり自国の危急存亡に際して身を捨てて、立ち向かう犠牲的愛国心を持ってほしい。国家の自由を奪われるのは御免です。家族のために若者が犠牲を甘受すべきです。でなければ誰がその抵抗をしますか?若者は運が悪かったのだと諦めてほしい。歴史はその繰り返しと思います。日本は、その危機の度にそうして国を守ってきたのです。私はそれをやっただけです。やらない人の発言には同意しませんが。
--------こうして堀山さんや他の人にお会いして、我々なりに特攻の事績などを理解して、さらに、次の世代まで語り継ぎたいと考えていますが、体験者として、我々の活動に対して、こういうことに力を入れてほしいなどの要望はありませんか?
堀山‥特攻で死んだ人の名誉というのを尊重してほしいと思いますね。それで、その家族なんかにつらい思いとか、嫌な思いとか……悲しいのはしょうがない。悲しいのはしょうがないけど、こちらの言動で、そういう人たちが、つらいような気持ちになることは避けてほしいと思う。特攻を客観的に戦法として批判するのはまた別ですよ。それはやってもいいけど、その当事者に過酷な仕打ちをしないでほしいということですね。
今の日本の現状に対してですが、戦勝国は降伏国を、思想・言論は自由にしても、「歴史」は一国の精神の因るところ、戦勝国の方針に変えさせ、政治・経済・学問で分断政策を巧みに操れば、基本的には降伏国を再起不能にし、将来も従属が続くでしょう。民主主義は「神の思想」と言うほどにバランスが難しいと聞きます。「個なくして私のみ在り」……欲望無限の60年です。「特攻」も美化するなと言い、今なお、「顕彰の字のない、慰霊と平和祈念」がせいぜいです。
ある戦争未亡人の、平成17年の靖国神社の献歌ですが、「かくばかり 醜き国になりたれば 捧げし人の ただに惜しまる」に同感です。一度、堕落した自覚のない人々が再生するには、何年かかるか判りません。皇室と共に来た日本人が、武家政権から明治維新を迎えるまで700年かかりました。その思わぬ発端は「国学」でした。それが人々の日本の再発見となり明治維新へ。さらに海外思想も取り入れ立憲君主政体になり、世界での近代日本の発展の本になりました。しかも歴史は、各国の栄枯盛衰の事実を冷酷に告げ、「満つれば欠く」が原則です。価値なきものは滅び、今の日本では再生の目の前に滅亡しかねませんが、それは自業自得です。
「ONE FOR ALL一ALL FOR ONE」(一人は皆のために、皆は一人のために)……これは近頃のサッカーの合言葉にあるそうですが、まあ、当分は口当たりの良い英語でも使い、スポーツの合言葉くらいから始めてはどうでしょう?大衆自らの行動から精神が生まれるでしょう。いつか、国家の危急の際に子孫のDNAが、我々の特攻精神を発揮させるかもしれません。アテにはなりませんが、せめて期待したいですよね。
--------今日は貴重なお話をありがとうございました。
(……了……)
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※注1
・「館林の空 第三十戦闘飛行集団 館林集成教育隊」は、当時、機数では日本最大の、機種も優秀機ばかりの、特攻基地の記録を平成14年に残したものです。
文章200頁、資料68頁、写真256枚。450部を3500円で完売。その後はCDで1枚1000円で分けています。館林市立図書館では複写に応じてくれたこともありました。(堀山氏談)
堀山 久生氏(第194振武隊長)軍歴
1923年(大正12年)6月
三重県宇治山田市で生まれる。
1941年(昭和16年)4月
陸軍予科士官学校入校。
1942年(昭和17年)10月
陸軍士官学校入校(陸士57期)。
1944年(昭和19年)4月20日
陸軍士官学校卒業。航空転科。
1944年(昭和19年)4月21日
陸軍航空士官学校入校(第96期召集尉官操縦学生)。
1944年(昭和19年)9月19日
陸軍航空士官学校修業。
1944年(昭和19年)9月26日
明野教導飛行師団附(昭和19年度第2次乙種学生)。
1945年(昭和20年)3月30日
修業。作戦補充要員。
1945年(昭和20年)5月23日
第30戦闘飛行集団隷下・仮編決と号第194飛行隊長。
同日飛行第47戦隊にて振武隊を編成。
1945年(昭和20年)6月3日
館林に移動。館林集成教育隊にて四式戦を受領、特攻訓練開始。
1945年(昭和20年)9月27日
復員。