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特攻インタビュー(第6回)・その15

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通常 特攻インタビュー(第6回)・その15

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/6/9 10:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 堀山久生氏

 ◆突然だった終戦(1)

 --------終戦前後はいかがでしたか?

 堀山‥昭和20年8月5日、百式司偵の第二六八振武隊(梶川正夫大尉/陸士55期/卒業時の転科で既にベテラン/雲染屍隊)が千葉県・八街飛行場に前進し、見送りました。館林は全部、福岡の第六航空軍の指揮下と思っていたので、なぜ第一航空軍の八街飛行場に行くのかと見送りながら奇異に感じました。司偵特攻は第一航空軍に転用されたのか、よく判りません。

 私は当時、知らなかったのですが、8月13日、14日頃には、四式戦特攻の一八一、一八二、一八五、一八六の4隊に九州への前進命令が出たり、取り消されたり、かなりの混乱がありました。第一八六振武隊の落合成郎君は「出陣食」というご馳走をいただいたと言います。「戦史叢書・本土決戦準備1関東の防衛」 の591ページには、8月中旬の航空総攻撃に、第六航空軍は全特攻を九州地区に集結し、8月15日から22日の一週間にわたり、同地区の全航空兵力を合わせて沖縄方面の敵に対して連続波状攻撃を加えることが計画されたとあります。8月15日は終戦の日で、準備と発動、終戦工作が交錯して混乱したのでしょう。でも、結局、館林の特攻隊は九州には出ませんでした。

 --------では、8月15日の終戦は突然の出来事でしたか?

 堀山‥前日の8月14日の晩、B29が飛行場に焼夷弾爆撃をしたのですが、館林中学の右手の3階の建物に宿泊していた我々は、焼夷弾の閃光に「原子爆弾か!」と毛布に潜り込んだのだからお恥ずかしい。玉音放送は中学校で全隊長が集まり拝聴し、全然内容は判らず、隊長の落合君が「ワッ」と泣いたので「さては負けたか!」……途端に目の前が灰色になり、そのままでは立っておれず、机にすがって「しまった。逝った同期生に死に遅れた!」とのみ思い、もう、それは皆、呆然としました。

 --------終戦から復員まではどうだったのでしょうか?

 堀山‥酒井剛集成教育隊長(陸士48期/歩兵第五連隊/航空転科/第三十戦闘飛行集団部員で比島作戦に従事)は、直ちに「承詔必謹」と「祖国再建」を説かれ、一同同感。混乱は全くなく、さすが当時、「私心」 のない特攻隊長は立派でした。これはなかなか出来ないことでした。

 日本軍の飛行は禁止され、8月17日が最期の飛行の日となりました。「最後に乗りたい」と隊員が言いましたけど、私は部下を飛ばせませんでした。精神が動揺していて危険だと判断したからです。果たして他の隊で1名、郷里訪問で不時着しました。そういうのは名誉なことではありませんから、部下を飛ばせなくて良かったと思っています。8月28日、部隊解散の式に、敵のF4Uボートシコルスキーが館林飛行場に飛来し、超低空で我々を監視に来たのには悲憤の涙を拭いました。終戦当時、館林飛行場には四式戦が12個隊分72機、百式司偵の特攻4隊、キ115特攻3隊の分を含め80機くらいの飛行機がありました。予備役将校(幹部候補生、特別操縦見習士官)と現役下士官(少年飛行兵)は直ちに復員。我々、陸士出身の現役将校の隊長19名は下館の住吉旅館に移動。いったん自宅に帰り、再び戻り、9月27日に復員、帰宅しました。

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