特攻インタビュー(第6回)・その17
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編集者
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆「館林の空」編纂
--------堀山さんの戦争体験をいろいろ伺っているのですが、特攻隊の思い出を戦後、語られるようになったのはいつ頃からでしょうか。また、話したくないと思われた時期がありましたか。
堀山‥悪事を働いたわけじゃないし、卑下して話せない、話したくないと思ったことはないです。若い頃は陸士の同期生の集まりの世話役で、軍隊のことは皆、お互い自由に話していました。あの犠牲的な行動を何も恥じることなどないと思います。反省ならいざ知らず、否定するなど……私など特攻と言っても、まだ半分位の隊長の分際で、散られた方を批判などどうして言えますか。
書いて残したいと思ったのは、51年間ブツ通して働き、77才で年金生活に入る時で、その後の人生の軟着陸のために「館林の空」を記録としてまとめて残そうと思いました。
--------「館林の空」を編纂されて、一番、苦労したことは何でしょうか?
堀山‥一つはメンタルな心情的なことは各人各様に任せ、「記録」としてなるべく広く正確に全体を述べることと、二つ目は122名の館林の特攻隊員の「写真の収集と完全な返却」でした。当時の写真はご本人にとって「宝物」です。苦労して集めた256枚を間違いなくお返し出来て、一番ホッとしました。
--------メンタルな部分は極力排除する方針とのことですが、松田二男隊長の手記として、特攻命令を出した上層部への不満を述べた文章が載っていますね。
堀山‥本当はその10年位前から、本文は松田君、122名の住所は木下勇君(府立四中四修/機甲兵/第二二九振武隊長/キ115特攻)、私は写真の収集と、役割を分担して準備をしていました。それが松田・木下の2人が相次いで亡くなり、私がすべてを行わなければならなくなりました。ところが、松田君の遺稿がどうしたことか全くなく、あの文章しかなかったのです。それに彼の上層部への批判は私も同感なのです。地上から佐官位で航空転科した参謀が飛行機の操縦も知らず、地上の図上戦術の感覚で飛行機の集中使用の原則や気象条件も判らずに「戦機に投じよ」と出撃を強制し、無駄死にさせたことを怒っているのです。観念論ではないのです。