硝煙の海 菊池 金雄
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鹿児島~基隆~マニラ
ここから台湾の基隆(キールン)経由でマニラに向かった。基隆の暁部隊(陸軍の輸送船を一手に面倒をみる部隊)から、安全航海祈念の激励をうけた。
ここから南下、いよいよ敵の潜水艦が潜む魔のバシー海峡(台湾とフィリピンの間の海峡をいう)にさしかかり、見張員を増やし、緊迫した単独突破に挑戦しなければならなかった。
敵は、獲物が空の小型船のため見逃したものか、運よくサブタング水道に逃げ込むことができた。
ここまでくると後は、喫水の浅い小型船の特徴を生かして、島づたいにルソン島西岸を南下、九月下旬無事マニラに入港することができた。
さすがにここは最前線の兵站基地で、港内には大型輸送船が多数停泊。その中に同会社の天日丸もおり懐かしかった。
本船は暁部隊打合せと、燃料や真水・生鮮食料などを補給のため数日停泊することになり、乗組員たちは早速上陸した。 私は昨年高瑞丸で寄港したので二度目のマニラ上陸。なおアメリカナイズの名残があり、街には衣類や日用雑貨などが豊富に店頭に並び賑わっていた。
私は防暑用に涼し気な麻の半袖シャツや日用品を若干買い入れたはずである。
目的地変更(ミリ~マニラ)
ここの暁部隊から昭南島行きを中止して、「ボルネオのミリとマニラ間の油輸送」に変更の指令をうけ十月上旬ミリに向け出港した。
一旦、母国に別れを告げた乗組員たちは、どこに行こうが命のまま航(はし)るだけだった。
私は、一年前高瑞丸(こうずいまる)で波の静かなスルー海を度々航海していた。灯火管制下、満天の星座に浮かぶ南十字星を再び仰ぎ、ひたすらボルネオをめざした。
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なんきんむし
この戦標船(戦時標準型の船舶)は、在来船とくらべると、すべてがバラック工法で、ベット脇の壁板の隙間に住みついた南京虫の夜襲には、ほどほど参ってしまった。
この虫は暗がりで襲う習癖から常に常に懐中電灯を手元に置き、頃合いをみてパット照らすと、す早くベット用の蚊帳の隅に逃げたところを手でつぶし、退治していた。
この船の無線室は狭く、かつ二段ベットの居室併用で、嫌でも無線信号に邪魔され、満足な休息もできなかった。
敵の潜水艦回避と、乗組員の疲労回復のため適所に仮泊することがあった。 マージャン愛好者はその寸暇に、隣室の士官食堂で卓を囲み、ガラガラ音が深夜におよぶこともあり、うるさかった。
このように各室間の防音隔壁もずさんな、粗製乱造な船であった。
忙中閑
ミリに到着の前、北ボルネオのアピ(現コタキナバル)と、ブルネイ湾口のラブアン島に仮泊したことがあった。
アピに上陸。軍の酒保でジャワコーヒーを試飲。おつまみは茹でた落花生だった。
ここで、現地人そっくりの色黒の日本のオバチャンに出会った。外見からとても日本人には見えないので訝ったところ。立派な日本語で受け答えしたのでヤマトナデシコと確認された。
一体彼女はどんな境遇で南国で生活しているのか聞きたかったが、残念ながらその暇がなかった。
ラブアン島にも好奇心から船の伝馬船で磯辺に上陸してみた。海水はきれいで、アワビそっくりの小さな貝が無数にあった。 少し陸地に入ったら大きな動物の足跡があたので危険を感じ、引き返した。
かくして十月半ば目的地のミリに到着した。油の積み込みは沖合に投錨、送油管で行った。
船員や乗船警戒隊の海兵たちは適宜上陸。軍の酒保で疲れを癒したのであった。
私はここで上陸しなかったので、町の様子は不詳。また、近くのブルネイに連合艦隊の基地があったことも全然知らなかった。
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スルー海で爆沈
ミリ~パラワン島
私は今まで、戦闘場面に遭遇した体験がなく、戦火の海は遙か彼方のような気がしていた。したがって、知らぬが仏の平常心で船務に挺身できたものと思う。
しかし、現実の戦況は日を追って厳しさを増し、護衛なしの海上輸送は困難な状況になっていた。
十月二十日頃、C重油を満載して在来老朽船の共同丸(千トン級タンカー)と、二隻の 船団を組み、陸軍の護衛船(船名??失念)一隻に守られて、船団速力六ノット(本船は若干速力が早かったが、相手船の速力が遅かった)でマニラ港に向け出帆した。
対潜水艦見張りを強化して、北ボルネオ西岸を北上。無事スルー海に入った。
ところがパラワン島北部近海で、該護衛船から事前打合せもなく「護衛を打ち切り、船体整備のため昭南島に回航する」旨の通告があった。
危険な油を満載した両船側としては、全く軍の身勝手な対応に不満が噴出したことは当然であった。
そこで両船の船長が「護衛無しでは続行できない」旨を強く軍側に申し入れた結果、航空機で間接護衛することになった。
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敵機の餌食
一夜、パラワン島の小湾に仮泊。翌十月二十五日の朝抜錨。朝食中に飛行機の爆音がした。当然味方機が飛来したものと思っていた。
ところが、いきなりバリバリと機銃掃射に見舞われた。変だと思って出てみたら、米軍の哨戒機(コンソリデーテットB24)一機が本船に襲いかかってきた。
当然本船警戒隊員が必死で応戦したため、敵機は高度から爆弾投下に移った。
ドカ、ドカーンという大爆裂音とともに、重い船体が一瞬浮き上がった。至近弾一発 でエンジン停止。船内はシーンとなり、二発目の至近弾で簡単に船体が亀裂---沈下開始。始めて爆弾の威力を肌で感ずる。
その瞬間---故郷の親のことなどが脳裏をかすめ---戦死の場到来と観念。 (事後親たちの言。そのころ夢見悪かった)
間もなく「総員退船!」の、船長命令。
各自持ち場を離れ、続々とデッキに集合。私は谷津通信士と暗号書の袋を担いで脱出しようとしたら、一方の通路は部材が散乱して通れなかった。二人はすぐ他の通路からデッキに出て、暗号書袋を海没させた。
甲板部員はすばやくボート(救命艇)を降下、船体の沈没前に総員離船。全員ボートに泳ぎつくことができた。
敵弾で海兵一名(大谷兵長)即死。内田セーラー(水夫)が被弾四発の重傷を負った。
船長が、このセーラーに「元気を出してボートまで泳げ!」とハッパをかけ、彼は辛うじてボートまで泳いだが、すぐ息が絶えた。
敵機は今度はボートに向かって機銃掃射に移った。
船長から「各自泳ぎながら散開せい!」の号令がとんだ。
われわれ非戦闘員は「戦争とはむごいもの」と実感。幸いこのときは犠牲者が出なかった。
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ニワトリも受難
本船は、直撃弾でなく至近弾で亀裂浸水したので、幸い漏油が少なかった。
付近海面には船上の浮遊物が散乱――賄部員が卵をとるため飼っていた鶏が、木箱の上で途方に暮れていた! が、船員たちも生死のはざまで、なすすべもなかった。(後年この被弾を考察してみると――船体が溶接施工の脆弱な造りのため――至近弾で簡単に船体が亀裂したことが、全員脱出に幸いしたようにも考えられる)。
僚船が救出
僚船の共同丸は、船尾に野砲を備えていたので、敵機の攻撃から逃れられたかも知れない。該船は一時雲隠れしたが、敵機の退去確認後やっとわれわれを救助し、すぐ入浴させ温かく保護してくれた。
当然全員は着の身着のままで、私はマニラで買った半袖と半ズボン(古い作業ズボンの活用)姿だった。命の恩人である僚船の友情は終生忘れるこができない。
○ 著者付記
(1)昭豊丸の沈没位置は、仮泊地点とコロン湾避難コースから、概略 北緯11-00 東経120-00 付近であると推定される。
(2)同船の沈没地点が南シナ海と表示している文献があると指摘されたので、その出所を追跡結果、アメリカ側の記録(Navy F4Us sink Japanese auxiliary submarine chaser Cha 62 north of Palaus. Other Japanese casualties include auxiliary submarine chaser Cha 52 sunk at Palau, 07°30'N, 134°40'E; and merchant tanker Shoho Maru sunk by USAAF aircraft in South China Sea, 11°18'N, 114°50'E.)であることが判明しましたが、事実は(1)に相違ないことを当事者の一人として証言する。(本件は、福島県の元同僚も同意済み)
(3)戦死者については本書に記した二名(船員一 海兵一)が爆沈時犠牲になったことは間違いないが、事後大同海運の記録に五名戦死とあったので、殉職船員顕彰会に確認の結果「S20.6.28台北で機関部員一名戦没。S20.7.28ルソン島で甲板部員2名戦没」との回答があったので、前記同僚に確認結果。台北の一名は帰国時、高雄で一名が病気入院しているので同人と推定されこと。また、ルソン島の二名はマニラで暁部隊に徴集された四名グループと思われるが、大同海運の記録との不合は、同社が他社と合併したため解明することはできなかった。
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大艦隊発見
その後、近くのコロン湾(ブスアンガ島)の陸軍基地に向かっていたところ
「敵味方不明の大艦隊発見!」の報に、船内は一時ざわめきたった!
おそるおそる接近したところ、日本艦隊と確認。胸をなでおろした。
私は日本艦隊を間近に見たのは初めてで、実にキレイに船体が整備されて、錆だらけの 輸送船などとはくらべものにならなかった。 (戦後史によると--同艦隊はレイテ殴り込みの志摩艦隊のようで、この美しい船体の化粧は--出陣の晴れ姿であったと思う)
○ 著者付記
コロン湾で目撃した日本艦隊は残存志摩艦隊か!
昭豊丸がスルー海で米機に爆沈されたとき僚船共同丸が救出し、近くのコロンの陸軍基地に向かう際、数隻の日本艦隊がコロン湾に潜んでいた。艦隊側からの手旗信号は目撃したが、艦名は未確認のため事後各種戦記を精査中のところ下記の記録を発掘し、この艦隊は 那智 足柄 霞 不知火の4艦と推定される。
したがって、小著の「大艦隊発見」の項の括弧内付記の・・・この美しい船体の化粧は、出陣前の晴れ姿であったと思う・・・は誤りであるが、同艦隊は敵と戦火を交えないで退避しために、戦痕を視認できなかったものと思う。
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須磨艦隊のスリガオ海峡退避行動
志摩艦隊は西村艦隊の2時間後にスリガオ海峡に到着した。この際魚雷艇の攻撃を受け軽巡阿武隈が被雷した。3時25分、志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始したが、旗艦の那智が最上を炎上停止した敵艦と誤認して転舵、8ノットで動いていた最上と衝突した。敵情が不明であるのと味方の惨状をみて、突入を断念、海峡外で様子を見ることにして退避をはじめた。
4時10分、オルデンドルフ少将は同士討ちの報告を聞いて砲撃を中止させた。巡洋艦と駆逐艦は残敵の掃討と救助活動をするべく南下を開始した。
当初は多数の生存者が海面を漂っていたが、大半が米軍の救助を拒否して自決、または近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったため殆どが原住民の襲撃により殺害され、生存者は沈没した全艦合わせて10数人だった。特に最初に大爆発を起こした戦艦扶桑は、艦長以下1637人全員が戦死し、生存者は1人もいなかった。
阿武隈の護衛に駆逐艦潮を派遣してマニラへ向かわせ、最上には駆逐艦曙を護衛にあたらせてコロン湾に避退するよう命じたが、最上はその後空襲を受け最終的に乗員の退艦後、曙の魚雷で処分され、翌日の11時28分、阿武隈もアメリカ陸軍機の空襲を受けて沈没した。志摩艦隊の本隊である、那智、足柄、霞、不知火は何度か空襲を受けたものの、損失艦なくコロン湾に到着した。不知火を栗田艦隊の駆逐艦早霜の救援に送ったが第38任務部隊の空襲で撃沈された。
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コロン基地上陸
さて、丸裸同然の遭難船員たちは、共同丸の伝馬船で上陸することになった。早く上陸したい集団心理から、一度に多勢乗ったため沈下、水舟状態となった。さすが船長は落ついたもので「心配無用、伝馬船につかまって片手で水をかけ!」と号令をかけ、全員無事上陸。コロンの陸軍基地に保護された。
(戦後史によると。僚船共同丸は昭和二十年一月六日、ルソン島リンガエン湾で空爆に遭い沈没、乗員の戦死者の有無は不詳)
コロン湾は周囲が絶壁に囲まれ、水深も深く、敵の空襲を避ける適地=艦隊の燃料補給地点にもなっていたようである。 われわれの収容先は学校の校舎。夜間、爆音の都度屋外に避難した。熟睡中は板の間を走る、ドヤドヤという音で飛び起きた。
ある時、山手の避難先で住民の一人が月明下、敵機に向かってハンカチを振っているのを目撃した。
軍から支給された白米には、ゴマ塩をふりかけたように石炭粉が混じり情けなかった。実情は数日前マニラから多数の輸送船がここに避難したため糧食が枯渇ぎみだった。
栄養補給のため、海兵が小銃で仕留めた野生の水牛も食べたが、結構おいしかった。
戦死した二名はすぐ空き地で荼毘に付した。
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マニラ~高雄~門司
数日後、マニラに向け、南洋鉱業の日南丸に便乗。このときも、伝馬船の浸水トラブルがあり、遺骨やタバコ(陸兵が割愛してくれたもの)が海水で濡れてしまった。
幸いマニラ回航の駆潜艇も同行。敵潜に、ボカボカ爆雷を投下。やっとの思いで無事マニラに上陸することができた。
敗色のマニラ
素足でアスファルト舗道を踏んだら、焼けつくようだった。捨て下駄を見つけてやっと仮収容所のダンスホールに着いた。
ここでゴロ寝の一夜を過ごした途端、私は不覚にもデング熱でダウン。幸い士官だけ代理店の社員寮に移ることになった。
敗残船員もやっとベットで安眠、私はひたすら安静。食事は台湾出身の女子社員が運んでくれて、徐々に快方に向かった。 それから約一週間後。遭難船員の収容施設となっていた高層マンションに移った。
話は前後するが、前回マニラ寄港の際に在泊していた多数の輸送船は米機の空爆に遭い無残な姿で港内に横たわっていた。
そのなかには同社船の天日丸(戦時標準A型貨物船・六九〇〇トン)も混じっていた。 (大同海運社史によれば、昭和十九年九月二十一日マニラ港は米軍機約二〇〇機からなる大編隊の猛爆撃に遭い、反撃の効なく在港大型輸送船は次々と直撃弾をうけ炎上沈没した。
幸い難を免れた天日丸外八隻は空襲警報解除後、軍命によりコロン湾に避難したが、虱つぶしの敵偵察機に発見され、九月二十四日約七十機の空爆をうけ、天日丸など五隻以外の避難船は全部撃沈された。
しかし天日丸も十月二十二日マニラ港で空爆により遂に撃沈された)
港内での沈没は、着底して船体の一部は水面上にあるので、ある程度の食糧や身回り品は持ち出せたと思う。
しかし、われわれは裸同然で救出され--無一文の哀れな敗残船員であった。
暁部隊から最小限の衣服が支給--軍靴には靴下なし--靴擦れで化膿。治療しなければならなかった。
シンガポール陥落記念日に、軍から缶ビール各一缶、全船員に特配。私はアルコールに弱かったが、試飲したらメキメキ食欲がでて体調は快復に向かった。
時々タバコの支給があり、モンキーバナナなどと交換、補食していた。
当時、マニラは多数の遭難船員で収容施設は満員だった。このような徒食船員は早めに母国に送還させるべきにもかかわらず、レイテ作戦から帰還する船がほとんど無く、やむを得ず長期待機を余儀なくしていた。
空襲警報の都度、収容先マンションの地下室に避難。今思うと、地下室には昼光色の蛍光灯があった。 当時日本では見たことがなく不思議な電灯だと思っていた。
空襲時には日本軍機は全然現れず、敵の退去後に一~二機が飛び上がるだけだった。
当時、遭難した各船から四~五名がマニラに残留し、軍の雑務につくことになっていた。
本船には四名の割当。船長が希望者を募ったが応募者なし。
船長は、コーターマスター(操舵専従員)が四名であることから彼らを指名した。
その時私自身も、魔のバシー海峡を勘案して残留者に手を上げようか否か迷いもあった(会社の記録--彼らは戦死殉職者に含まれているようである。)
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魔のバシー海峡突破
約一ヵ月後の深夜、突然の指令で海軍の徴用船、和洋丸(約三千トン)で台湾の高雄まで便乗することになった。
十二月一日午前十時半頃--和洋丸・萩川丸の二隻船団は、三隻の護衛艦に守られてマニラ港をあとにした。
そして、翌日の午後三時頃--船団はサンフェルナンド港に仮泊--十二月三日朝、高雄向け抜錨した。
敵は、日本の重要なシーレーンであるバシー海峡に多数の潜水艦を配備して虎視眈々と獲物をねらっているものと推測された。
北上してまもなく、北よりの季節風が強まり--船団の速力は十ノット(時速十九Km)から三ノット(時速六Km)に落ちた。
翌四日も荒天--各船は終日難航した。その夜和洋丸は、バシー海峡中央部にある、サブタング水道に辛うじてすべり込み仮泊した。しかし僚船萩川丸と護衛艦を見失なってしまった。
終夜--僚船と護衛艦を待ったが遂に合流できず、荒天のためか、または敵襲で消えたものか分からなかった。
十二月六日午前七時半--和洋丸船長は悲壮な決断。単独で魔のバシー海峡突破を強行しなければならなかった。
ただ一つの頼みの綱--高雄海軍基地からの航空機による支援--接触できなかった。
午後になって、北西の季節風がしだいに強まる--夕刻には風速二十メートル以上の暴風雨--速力が五ノット以下になった。
敵潜側は、荒天下の攻撃は至難であったものか、幸運にも和洋丸は敵の網をくぐりぬけ--十二月七日午前十時無事高雄に入港することができた。 (海上平穏なとき、和洋丸船内に「浜辺の歌のメロデーが流れる--以来この曲を耳にすると、魔のバシー海峡がまぶたに浮かぶ」)