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終戦と引き揚げ、、北朝鮮編(一)野崎 博氏の手記

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団子

通常 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編(一)野崎 博氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/6 1:09
団子  半人前   投稿数: 22
1996年、今から9年前、私の友人、「野崎 博氏」が自分の経験を風化させたくないと言う気持ちから、北朝鮮学校時代の同窓会(敗戦時南に移動した朝鮮の生徒も含む)の会誌に投稿し、それを手作りの小冊子にして、私たち友人、知人に送ってきたものを、彼の許しを得てここに投稿するものです。彼もメロウ伝承館に協力できる事を大変喜んでいます。

「終戦と引き揚げ」
興南
北朝鮮感鏡南道(県)東朝鮮湾が深く陸地に接した街、興南府(市)は野口 遵氏の朝鮮窒素《ちっそ》、後の日本窒素肥料KKが作った工場の町である。昭和初期、赴戦江ダムに20万kw発電所を建設、ついて長津江、虚川江、鴨緑江本流に70万kw大発電所(黒四ダム33万kw)全部で150万kwの発電所を建設した。その電力を消費するため建設された世界規模の化学コンビナートが興南工場である。終戦時、従業員4万五千、工場・社宅・厚生施設を含めて19・8平方キロ(新宿区18・5平方キロ)製造設備世界一。水電解工場、世界三位。硫安《りゅうあん》工場、日本一。硫安、油脂、火薬、カーバイト、マグネシュム。人造宝石。石炭から直接液化による人造石油、アルミニュウム、カーボン、苛性《かせい》ソーダ、石灰窒素、アセチレン、アンモニア、石鹸《せっけん》、発電所ー興南を結ぶ新興鉄道などである。興南港は一万屯《とん》級数隻が横付け出来る2千メートルをこす岸壁があった。戦争末期、これら軍需物資《ぐんじゅぶっし=軍事上必要な物資》製造工場はB29《=アメリカボーイング社製の爆撃機》に爆撃されても不思議ではないが、爆撃は一度もなかった。20年《1945》3月7日、B29が一機偵察に来た。銀翼に飛行雲をひきながら青空に映えて美しかった。無知な私たちは、白煙ひいているから、すぐ墜《お》ちると話していた。

昭和20年8月9日、ヤルタ会談《=1945年2月米、英、ソ3国がヤルタで行った会談》で満州攻撃を要請され、同意したソ連は、中立条約を破棄して北朝鮮に侵攻《しんこう=攻め込む》した。ここに日本人の悲劇が始まる。同8月22日、ソ連軍先遣隊が興南に進駐。
この日を堺に敗戦とはどういうものか、興南在住日本人24,114人は骨身に思い知らされ、地獄に投じられたのである。

「終戦」
(一)
昭和20年8月15日、私達のクラスは校内で土堀り作業をしていた。朝から暑い日だった。午後の作業にかかろうとした頃、職員室から先生が来られ「作業は中止。すぐ帰宅するように」と言われた。そうして戦争はスンダとも言われた。それだけ告げると戻っていかれた。朝鮮の先生だった。その日、すでに知っていたのか朝鮮の生徒は朝から出て来てなかった。2,3名きたものもいつの間にか消えていた。終戦を学校で迎えたのは全校中私のクラスだけだった。前日から予告があった「玉音放送《=天皇直接のラジオ放送》」は学校にラジオがないから聴いていない。

放送は重大戦局に国民は心を一つにして聖戦を完遂《かんすい=やり遂げる》せよ。そんな内容だろうと話し合っていた軍国の少国民に今更戦争が済んだと言われても、終わったのか、敗《ま》けたのか意味がのみこめない。サイパン玉砕《ぎょくさい=潔く死ぬ》、沖縄はとられ敗色濃いのは知っていても、関東軍100万健在、連合艦隊は温存してあると信じていたから、まさか負けるとは思ってもみない。皆は顔を見合すだけで悔し泣きする者も激高するものもいない。この場に強い指導者がいて、神州《=日本は神国と称していた》不滅を叫び、皇軍《こうぐん=天皇の軍隊》不滅を呼びかけたなら、同調して興奮するだろうが13歳の少年は戸惑うだけで、不安そうにそそくさと帰って行った。

学校には7月に中支より移動してきた展部隊と補給隊と通信教育隊が駐留していた。展部隊とは第34軍のことで隷下《れいか=従属するもの》に59師団(衣)127師(扶翼《ふよく》)があり各学校に分駐して陣地構築をしていた。部隊は「大正14年大阪工廠《こうしょう》」の標識をつけた野砲《=大砲》を装備しており、車輪は鉄製であった。当時化学実習室は兵器係りの部屋になっていて、朝がた係りの兵隊が真新しい銃口にグリスが詰まっている99式の小銃を木箱から出してグリスを拭《ぬぐ》い並べていた。

私は最新式だという小銃をはじめて見た。銃床が荒削りで仕上がりが悪く、遊底覆い《ゆうていおおい=銃の部品》もなく粗製品という印象でがっかりしたのを覚えている。この銃を元の木箱に納め釘付けしている。私は窓越しにどうするのかと訊《き》いた。「戦争に負けたので裏山の横穴防空壕に埋めろと命令だ」という。銃の説明をしてくれた兵隊が、投げやりに敗けたというのを訊いて敗けたとなると朝鮮におれなくなる。これは大変と事の重大さが判りかけた。俺達はこれからどうなるのだろうか、ぼんやり考えながら帰った。

夜、灯火管制《とうかかんせい=空襲の目標になるのを避けるため電灯を黒布で覆った》の黒い幕をはずした。電灯が煌煌《こうこう》と明るく華やいでみえた。程なくして「灯火管制は続けるように。停戦交渉中であり談判破裂したら戦争だ。」と通達があった。そうだろう。日本がそう簡単に敗けるはずがないそれが本当だ。妙に納得した。8月15日、私の長い一日は終わった。

余談だが(、、、すでに知っていたのか朝鮮の生徒は朝から出てこなかった。、、)と書いたが私は朝鮮の生徒は口コミで終戦を前から知っていたと思い込んでいた。30年間そう思っていた。
昭和56年ソウルで日韓合同同窓会が催された。級友の朱 鍾徳君に「あの日は何故休んだ。終戦を前から知っていたのか?」と訊いた。「何を言うか、知っている筈《はず》がない。夏休みに作業するのが嫌だからサボっただけだ」私は恥じた。勝手に思い込み書いていた。時代の証言は思い込みが一人歩きする。自戒。
、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 


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