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Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、野崎 博氏の手記

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団子

通常 Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、野崎 博氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 17:31
団子  半人前   投稿数: 22
長い長い投稿文で、お読み頂く皆様も大変と存じます。私は9年前に「野崎 博氏」から受け取り、久しぶりに読み返しながらの投稿ですが、著者自身も大変な経験で同情しますが。書いておりますうちに、無惨《むざん》に亡くなられた方々の無念を思うと、その人たちの為にも頑張って投稿を完了しなければ、、と思うようになりました。

皆様もどうぞ頑張って読んでくださいませ。、、、、

(七)
12月までに死んだのは、感鏡北道(県)から避難してきた人たちである。地元では避難民と言った。
8月9日ソ連軍の理不尽《りふじん=道理に合わない》な攻撃に夏服のまま脱出したソ連国境の人々は、興南まで辿《たど》りついたがマイナス10数度の冬が越せず12月までに多くが死んだ。富坪の元海軍演習場兵舎に収容された3千3百人の難民は半数の千五百人が死亡。凍った死体は廊下《ろうか》の隅に積み上げて、春を待って埋葬したと言う。1月になると難民の中でも死ぬべき人は死んだからなのか、死亡率が減り、在住者の死亡率が増えた。四月には難民の死亡率に追いついた。老人、幼児が多かった。

死因は発疹《はっしん》チブス《=法定伝染病の一つ》と栄養失調《えいようしっちょう=食物の不足による体の異常》、全身衰弱、飢《うえ》である。ついで再帰熱《さいきねつ=ダニが媒介する病気》、肺病、肺炎。発疹チブスは虱《しらみ》が媒介する伝染病である。1~2週間で発熱し、2~3日で39度40度の高熱となり強い頭痛がする。発熱4日後全身に2ミリくらいの赤い発疹が現れる。経過がよければ12~3日頃から熱が下がる。重傷者は脳症を起こし高熱に耐えられず多くは死亡する。

予防は入浴、虱がつかないように清潔にして衣類を加熱する。興南には地区ごとに共同浴場があった。日本人は締め出され入浴は禁じられた。入浴は禁じる理由はない。単なる嫌がらせだけだった。私は日本に帰るまで8ヶ月、風呂に入っていない。

ただ1度だけ2月に発疹チブスの予防のためソ連軍の命令で入浴した。風呂に入っている間、加熱器に衣服を入れて虱を殺すのだ。共同浴場は久しぶりの風呂に少々はしゃいでいた。

湯船には30人ほどがつかり、芋の子を洗う《=混雑するようす》、それ以上だ。友人を見つけ、やぁと声をかけ、下湯をかけて入った。五ヶ月ぶりの湯が全身にしみた。その時後ろから怒声がきた。振り返る私を風呂番は睨《にら》み「下湯をかけずに入った。規則違反だ。やりなおせ。」大声で怒鳴った。裸の群れに一人、ズボンの裾をまくり、腕まくりした大男が仁王立ち《におうだち=いかめしく突っ立つ事》になって怒っている。げすな《=いやしい》初老の男だった。「下湯はかけた」小声の私に「バカ!俺《おれ》は見ていた」廻りの日本人はシーンとなって目をそらし知らぬ顔だ。彼は看守か、古年兵のように小さな権力に酔うている。日本人が羊のように従っている。彼の生涯にただ一度味わう優越だろう。私はやり直した。陰毛がはえかけた年だ。全身が白くなるような屈辱だった。

10月になると困窮《こんきゅう》者が少しでも働く場所を得るように、日本人世話会では工場に入り働く事を交渉した。8月26日、朝鮮人だけで操業すると日本人を締め出した工場側は、朝鮮人の南朝脱出《=北朝鮮(ソ連統括)から南朝鮮(連合軍統括)へ》帰郷により人手不足になった。それを補うため10月14日工場内労働を許可するようになった。賃金は4円、増配米2合7勺(400g)2月には8円になった。

最初は人夫と言う単純労働だったが、元電工、溶接工、大工などおり、重宝《ちょうほう=便利》がられ日本人の採用が多くなりやがて三千名近くになった。一般に米の配給は殆ど《ほとんど》ないに等しいから、2合7勺では家族は食えない。お粥の弁当を持って働いた。

そのうち、技術者、技能者が指名就労者と言う朝鮮人と同じ労働条件で働くようになった。朝鮮人だけでは運転出来ないことが判ってきたのである。化学工場では技術者が必要である。政治だけでは工場経営はできない。この時期、工場は労働組合の管理方式で経営されており、刑務所帰りの党員や急進的な組合員が指導的地位にあったが、これらの人は大工場経営に無力であった。工場は荒廃に向かっていた。

北朝当局から新しく派遣された支配人は工場の組織を改め、労働組合の急進派を追放して荒廃に向かう工場を再建する気運が出てきた。

「工場再建について日本人技術者の援助をお願いしたい。朝鮮人が工場を動かすと言う建前を崩《くず》したくないので、日本人技術者は指導系統にはいらず、顧問《こもん=相談を受け意見を述べる役》の立場で実際の動きをバックアップしてもらいたい」という申し入れがあった。指名労働者は2500人に達した。

私は硫安《りゅうあん=肥料》の貨車積みをしたが、労働がきつく、使いものにならず1日で首になり、少年ばかりのグループに入り、倉庫の整理片付けなど軽作業に廻《まわ》された。

ある日昼休み、朝鮮人の監督が“日帝36年は”と言い出し、天皇制が悪い。廃止すべきだと長々と話した。言われっぱなしも癪《しゃく》だから「天皇制も一長一短ある。要は国民の選択の問題だ」と言う。彼も工場の学修会で仕入れた付け焼刃だったのか天皇制は終わり、例の36年を長々とまくしたてた。
      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 

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