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Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、野崎 博氏の手記

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団子

通常 Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、野崎 博氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 17:28
団子  半人前   投稿数: 22
(五)
興南工場の日本人を一人残らず難民《なんみん=戦争や天災で生活できなくなった人の群れ》状況、いわば抑留《よくりゅう=強制的に拘束する》生活に追い込んだのは9月15日から、22日まで3回に分けて行われた社宅追放だった。

日本窒素《ちっそ》は興南の地に大化学工場を建設した。北鮮避地《へきち=都会から離れた土地》に必要な技術者、技能者を確保するため、従業員社宅を建設した。赤レンガ建て、地区ごとにボイラーがあり配管して各戸スチーム暖房があり、冬でも浴衣《ゆかた=木綿の単衣》で過ごした。水洗便所があり、台所はオール電化されていた。朝鮮人技術者は日本人と同じ社宅に入った。

一般労働者社宅は1棟8戸、四畳二間オンドルの建設で台所は練炭《れんたん=円筒型に固め縦に穴を開けた燃料》であった。長屋の両端に共同の便所があり、水道は共同栓だった。常づね朝鮮共産党は「山の上に上って見ろ。みすぼらしい建物が朝鮮人が住む所。あの赤レンガの立派な建物には日本人が住んでいる。それで君たちは満足なのか。」と煽動《せんどう=あおりたてる》していた。

第1回社宅追放は9月15日午前10時頃九竜里、雲城里地区に社宅移動の命令が突然通達された。唐突《とうとつ=出し抜け》だった。
1、本日午後3時までに社宅を明け渡す。
1、家具書籍を置いていく事。
1、当座の食料15日分と生活用品は持っても良い。
1、各人搬出は一回だけ。
1、その他
突然だった。何を置いて、何を持って出るか選別も判らない。移動先は水西里、竜岩里、雲中里の朝鮮人社宅や独身寮だ。一番遠い西本宮までは6Kはある。一回で持ち出せる量は僅《わず》かである。牛車、リヤカーは使ってはならないという。狂気のような混乱になった。自衛隊は家具の持ち出しを監視して歩き廻った。後刻入居する朝鮮人が家具をなるべく多く置いていかせようと見張っている。泣く泣く外へ出る。すかさず自衛隊が釘付けにし、あるいは朝鮮人が間をおかず入居した。

混乱はますばかり、日本人世話会が、朝鮮当局と交渉した結果、明朝出発してよい事になり、移動は16日に延期された。しかしこの通達を知らずに出て行ってしまった人は戻っても家に入れず、二度荷物を運び出すことは出来なかった。16日も悲惨さは同じだった。家の外には朝鮮人が群がっており、少しでも荷物を多く持ち出そうと道路に一時置いてあった荷物は盗まれる、と言う被害が続出した。知り合いの朝鮮人がこっそり提供してくれた牛車で荷物を運んだが、途中で共産党の宣伝班につかまり朝鮮人の御者《ぎょしゃ=牛を操る人》は殴られ荷物は降ろされた。

日本人に味方をしたのは英豪《英=イギリス。豪=オーストラリア》兵捕虜だった。彼らは巡回して朝鮮人の暴状を牽制《けんせい=自由に行動させない》してくれた。知り合いになった日本人の荷物を運んだりしてくれた。応召《おうしょう=軍隊への召しに応じる》者の家庭は男手がなく更に悲惨だった。幼児をかかえ何が持ち出せる。

新興鉄道にそって、九竜里から西本宮に通ずる道は荷物をかつぎ、行李《こうり=竹や柳で編んだ荷物入れ》を引っ張っていく者、私有財産を奪われた日本人の列が蜿々《えんえん》と続いた。行き先は朝鮮人社宅だ。四畳二間に二世帯が押し込まれて、横になるのがやっとという状態だった。

9月20日、第二回湖南里、柳亭里の場合は事情がやや好転した。前回の移動の情報が伝わり、予測がついた。移転命令も前日に通達された。今度は家具は置いていく。衣類は全部搬出してよい。牛車の使用は認める。翌日の12時までに移転完了のこと。たいそうな緩和である。

衣類持ち出しは今後の越冬に大変な助けになった。売り食いで命をつなぐ時、売るものがある、ないは、生き延びるか、死ぬかの差があった。荷物を預かると申し出て、後日、返してくれた親切な朝鮮人もいた。

第3回、9月21日私の地区本宮地区移転は一段と緩和された。充分に準備する時間があり、2日にわたって荷物を運ぶことが許された。工場の朝鮮人側が好意ある態度を示した。竜興工場勤労課を中心に、朝鮮人従業員への施策が進歩的で内《=日本人》《=朝鮮人》の区別をつけなかっため、朝鮮人の一般的空気がよかった事にもよるという。

我が家は家具は置いてきたが、牛車2台に夜具、衣類、生活具一切、落し紙《=トイレットペーパー》にする古雑誌まで運ぶ事が出来た。衣類が持ち出せなかったら18歳を頭に家族9人は、飢え死にしないまでも、1人、2人は欠けたであろう。幸運としか言い様がない。

移転先は指示が無かった。不安だったがとりあえず西本宮に移った。翌日、竜興の友人から状態のいい家があるからと知らせがあり、竜興に移動した。父は2度の移動に呆然となり判断動作が鈍った。牛車の手配から積み降ろし、家の選定からテキパキ段取りしたのは次姉(公州師範在学)だった。彼女は黒い小倉《=小倉織、学生服に使用した》の学生服を着て生き生きと動き、動乱《世の中が乱れること》の女だった。

この時期、郵便局長とか官庁で長のつく中年男は権威と組織にのった生き方しか知らず時代の急変についていけなくなり、腑抜け《ふぬけ=意気地の無い有様》になった。そのくせ、女房だけに威張り、高粱《こうりゃん》飯を「こんなもの食えるか」と言って女房を困らせた。自分は食料の調達一つするでなし、虚《うつ》ろな目をして動かない。

箸より重たい物を持った事がない奥様はやむを得ず物を売り、食料を求めて歩き廻った。動乱は女性の隠れた才能を見つけ出した。
      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、

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