Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、野崎 博氏の手記
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終戦と引き揚げ、、北朝鮮編(一)野崎 博氏の手記 (団子, 2005/8/6 1:09)
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団子
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(二)
敗戦当初は独立万歳を叫ぶ少グループのデモは時々見かけたが、平穏だった。
戦勝国となり、自由になった英豪軍《=イギリス・オーストラリア軍》捕虜は散歩の途中、我が家に寄った。父が片言の英語で、雛《ひな》人形を土産に送ったら喜んで煙草、チョコレートをくれた。彼らはB29が飛来して落下傘で収容所に物資を投下したから、新しい服に美しい靴をはき。背筋をシャンと延ばして歩いていた。
緑ヶ岡の学校に駐屯《ちゅうとん》していた日本将校が戦時中から家に遊びに来ていた。長姉が学校の教師だったから、4人ほどが一緒によく来た。敗戦になり、鮭や牛缶を持って毎日のようにやって来て、風呂に入り酒を飲んでた。酔って、末はシベリヤ行きかとボヤいていた。
8月の終わり、ソ連軍が進駐してきた。ツバがない戦闘帽にボロ服、油でテカテカに光ったズボンにゲートル、日本兵より貧相《ひんそう=みすぼらしい》で鉄冑《てつかぶと》がない。それらが自動小銃をかかえ、だらしなく、二列に行進してきた。
平穏な街もソ連兵が来てから一変した。最初は路上で追い剥《は》ぎのように腕時計と万年筆を強奪した。腕に幾つも時計をつけて、ねじを巻くのを知らず故障だと言う、笑い話のような話が広まったのはこの頃である。ついで小人数で押し入り掠奪《りゃくだつ》暴行をした。年頃の婦女子は坊主頭に男装して逃げ廻《まわ》った。私の姉2人ははじめ床下に隠れたが危険だと判り、その都度逃げた。朝鮮人の案内でトラックを乗りつけ、根こそぎ掠奪した。朝鮮人が市場で売って分け前を貰うのだ。被害は数知れず、日本人は震《ふる》え上った。
8月が終わり、白昼ソ連兵が一人近所に押し入った。人々は避難して家も道路も無人になっていた。窓から見ていたらソ連兵は裏の家に入って出てこない。私は恐いもの見たさに忍び寄って扉の隙間《すきま》から覗《のぞ》こうとした。その時、急に扉があいて出てきたソ連兵とばったり鉢合わせ「しまった」と激しく後悔した。驚いたのはソ連兵のほうだ。かじっていた林檎《りんご》を放り投げ銃を構えた。2人の間は2mぐらいしかない。銃は細い槍のような剣が銃口に折り畳《たた》みに固定した日露戦争当時の銃だった。それを肩にあて私を狙《ねら》った。「撃たれる」走って逃げたかったが、走れば後ろから撃たれる恐怖があって全身がこわばった。じりじり後ずさりして退《しりぞ》いた。5mも離れたらソ連兵は銃を降ろした。私は背を向けて歩いた。その時になって足がガクガクした。
酔って赤い顔をしたソ連兵は奪った青い背広のズボンをはいている。自分のボロズボンと履き替えたのだ。ソ連軍では軍服と異なる縞《しま》の青いズボンをはいて兵営に戻っても何ら罪にならないのなら、全軍、とんでもない泥棒軍隊だ。日本の子供は「マダム、ダワイ」「フレーブ ダワイ」を覚えた。(女をだせ)(パンをくれ)だ。ソ連兵はマダム ダワイ、ダワイと押し入り女を犯した抵抗して殺された女性もあり、娘をかばって射殺された父親もあった。毎日被害の話ばかりが流れた。
廬峰地区に3名のソ連兵がやって来た。我慢できなくなった男たちが銃を取り上げ殴って2人を縛ってソ連憲兵《けんぺい=軍隊の警察》に渡した。1名は逃げた。
ほどなくしたら憲兵が殴られたソ連兵を連れてきた。銃の遊底《ゆうてい》が無くなったから捜《さが》せという。捜したが見つからない。そこで憲兵は捜し出せなかったら地区長を明朝銃殺すると言う。
翌朝、ソ連兵の上官らしい軍曹が来て、銃の部品を奪ったのは反ソ行為だ。探し出さないと男子全員を銃殺する。仕方なく地区の全員で捜したが、もともとでたらめだから出て来ない。更に軍曹が言うには、捕らえられた兵隊は信用のおける兵隊なので部隊の給料の一部1万円を持たせておいた。金と兵隊の腕時計が紛失した。それを5分以内にだせという。でたらめな難題と判っていてもしかたなく拠出《きょしゅつ=金品を出しう》して差し出した。今日はこれで帰る。遊低は朝までに捜せと言い残して帰った。それっきりこの事件は済んだ。
ソ連兵に手を出すなと日本人世話会から通達があった。自衛の手段がなかった。何とか地区毎に見張りを立て(ソ連兵が来たぞぉー)大声を出して知らせ、逃げるしかない。地区によっては毎晩続いた。その度に近くにあった高粱《こうりゃん》畑に逃げ込む女達で畑が荒らされた。耕作者の朝鮮人から損害賠償が請求され、支払った。
ソ連兵に無意味に射殺される犠牲者が出た。同級生の父親がその一人である。ソ連当局が掠奪暴行を容認していたとしか思えない。憲兵もぐるである。世界に冠たる警察国家、スターリンの軍政機関が取り締まるなら簡単に実行できたろうに、それをしない。米国製ジープと6輪トラックに乗り、マンドリンを抱えた先遣《せんけん》部隊は囚人兵だと噂された。だがしかし囚人部隊だから何をしてもいい、大目にみる、それは無い。ソ連兵の掠奪暴行は10月が最盛期だった。
2月になると2線部隊と交代して兵隊の服装もよくなり、将校は丸い軍帽に生地のいい軍服になった。トラックは運転台から全部板張りのソ連製のボロ車になり、コルホーズに使うような馬車があった。小銃は日露戦争の旧式銃が増えた。その頃になると憲兵の取締りが強化され、略奪者の肩章《けんしょう=軍服の肩につける階級章》を引きちぎり連行したと言う噂《うわさ》が流れた。もっともその頃には、日本人は乞食《こじき》のような難民状態になって奪われるものが無くなっていた。
ロシヤマダムというソ連兵相手に個人営業する女性が現れたのはその頃だ。ソ連兵は朝鮮語を覚えトンマニイツソ(金は沢山ある)金を払う様になった。ロシヤマダムはなんとなく判り、おかみさんたちは「あの人はロシヤマダムでしょう、きっと」など噂したが、言葉には非難というよりも、うらやましいという響きが微《かす》かにあった。
、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、
敗戦当初は独立万歳を叫ぶ少グループのデモは時々見かけたが、平穏だった。
戦勝国となり、自由になった英豪軍《=イギリス・オーストラリア軍》捕虜は散歩の途中、我が家に寄った。父が片言の英語で、雛《ひな》人形を土産に送ったら喜んで煙草、チョコレートをくれた。彼らはB29が飛来して落下傘で収容所に物資を投下したから、新しい服に美しい靴をはき。背筋をシャンと延ばして歩いていた。
緑ヶ岡の学校に駐屯《ちゅうとん》していた日本将校が戦時中から家に遊びに来ていた。長姉が学校の教師だったから、4人ほどが一緒によく来た。敗戦になり、鮭や牛缶を持って毎日のようにやって来て、風呂に入り酒を飲んでた。酔って、末はシベリヤ行きかとボヤいていた。
8月の終わり、ソ連軍が進駐してきた。ツバがない戦闘帽にボロ服、油でテカテカに光ったズボンにゲートル、日本兵より貧相《ひんそう=みすぼらしい》で鉄冑《てつかぶと》がない。それらが自動小銃をかかえ、だらしなく、二列に行進してきた。
平穏な街もソ連兵が来てから一変した。最初は路上で追い剥《は》ぎのように腕時計と万年筆を強奪した。腕に幾つも時計をつけて、ねじを巻くのを知らず故障だと言う、笑い話のような話が広まったのはこの頃である。ついで小人数で押し入り掠奪《りゃくだつ》暴行をした。年頃の婦女子は坊主頭に男装して逃げ廻《まわ》った。私の姉2人ははじめ床下に隠れたが危険だと判り、その都度逃げた。朝鮮人の案内でトラックを乗りつけ、根こそぎ掠奪した。朝鮮人が市場で売って分け前を貰うのだ。被害は数知れず、日本人は震《ふる》え上った。
8月が終わり、白昼ソ連兵が一人近所に押し入った。人々は避難して家も道路も無人になっていた。窓から見ていたらソ連兵は裏の家に入って出てこない。私は恐いもの見たさに忍び寄って扉の隙間《すきま》から覗《のぞ》こうとした。その時、急に扉があいて出てきたソ連兵とばったり鉢合わせ「しまった」と激しく後悔した。驚いたのはソ連兵のほうだ。かじっていた林檎《りんご》を放り投げ銃を構えた。2人の間は2mぐらいしかない。銃は細い槍のような剣が銃口に折り畳《たた》みに固定した日露戦争当時の銃だった。それを肩にあて私を狙《ねら》った。「撃たれる」走って逃げたかったが、走れば後ろから撃たれる恐怖があって全身がこわばった。じりじり後ずさりして退《しりぞ》いた。5mも離れたらソ連兵は銃を降ろした。私は背を向けて歩いた。その時になって足がガクガクした。
酔って赤い顔をしたソ連兵は奪った青い背広のズボンをはいている。自分のボロズボンと履き替えたのだ。ソ連軍では軍服と異なる縞《しま》の青いズボンをはいて兵営に戻っても何ら罪にならないのなら、全軍、とんでもない泥棒軍隊だ。日本の子供は「マダム、ダワイ」「フレーブ ダワイ」を覚えた。(女をだせ)(パンをくれ)だ。ソ連兵はマダム ダワイ、ダワイと押し入り女を犯した抵抗して殺された女性もあり、娘をかばって射殺された父親もあった。毎日被害の話ばかりが流れた。
廬峰地区に3名のソ連兵がやって来た。我慢できなくなった男たちが銃を取り上げ殴って2人を縛ってソ連憲兵《けんぺい=軍隊の警察》に渡した。1名は逃げた。
ほどなくしたら憲兵が殴られたソ連兵を連れてきた。銃の遊底《ゆうてい》が無くなったから捜《さが》せという。捜したが見つからない。そこで憲兵は捜し出せなかったら地区長を明朝銃殺すると言う。
翌朝、ソ連兵の上官らしい軍曹が来て、銃の部品を奪ったのは反ソ行為だ。探し出さないと男子全員を銃殺する。仕方なく地区の全員で捜したが、もともとでたらめだから出て来ない。更に軍曹が言うには、捕らえられた兵隊は信用のおける兵隊なので部隊の給料の一部1万円を持たせておいた。金と兵隊の腕時計が紛失した。それを5分以内にだせという。でたらめな難題と判っていてもしかたなく拠出《きょしゅつ=金品を出しう》して差し出した。今日はこれで帰る。遊低は朝までに捜せと言い残して帰った。それっきりこの事件は済んだ。
ソ連兵に手を出すなと日本人世話会から通達があった。自衛の手段がなかった。何とか地区毎に見張りを立て(ソ連兵が来たぞぉー)大声を出して知らせ、逃げるしかない。地区によっては毎晩続いた。その度に近くにあった高粱《こうりゃん》畑に逃げ込む女達で畑が荒らされた。耕作者の朝鮮人から損害賠償が請求され、支払った。
ソ連兵に無意味に射殺される犠牲者が出た。同級生の父親がその一人である。ソ連当局が掠奪暴行を容認していたとしか思えない。憲兵もぐるである。世界に冠たる警察国家、スターリンの軍政機関が取り締まるなら簡単に実行できたろうに、それをしない。米国製ジープと6輪トラックに乗り、マンドリンを抱えた先遣《せんけん》部隊は囚人兵だと噂された。だがしかし囚人部隊だから何をしてもいい、大目にみる、それは無い。ソ連兵の掠奪暴行は10月が最盛期だった。
2月になると2線部隊と交代して兵隊の服装もよくなり、将校は丸い軍帽に生地のいい軍服になった。トラックは運転台から全部板張りのソ連製のボロ車になり、コルホーズに使うような馬車があった。小銃は日露戦争の旧式銃が増えた。その頃になると憲兵の取締りが強化され、略奪者の肩章《けんしょう=軍服の肩につける階級章》を引きちぎり連行したと言う噂《うわさ》が流れた。もっともその頃には、日本人は乞食《こじき》のような難民状態になって奪われるものが無くなっていた。
ロシヤマダムというソ連兵相手に個人営業する女性が現れたのはその頃だ。ソ連兵は朝鮮語を覚えトンマニイツソ(金は沢山ある)金を払う様になった。ロシヤマダムはなんとなく判り、おかみさんたちは「あの人はロシヤマダムでしょう、きっと」など噂したが、言葉には非難というよりも、うらやましいという響きが微《かす》かにあった。
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