Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_1
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異国での敗戦(北朝鮮) (きぬ子, 2006/9/23 16:33)
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- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_8 (きぬ子, 2006/9/23 16:43)
きぬ子
投稿数: 9
女学校三年生の八月十五日
毎朝、校門を入ると奉安殿《ほうあんでん=御真影・教育勅語謄本などの奉安所・学校の敷地内につくられた》前で最敬礼をした。白い鉢巻きをしめて廊下に並び、厳粛《げんしゅく》な気持で教室に入る。ここは動員《どういん=戦争目的のため資源や人間を統一管理のもとにあつめる》の作業場でもあった。日本軍の火薬を入れる袋を作るのである。婦人従軍歌《じゅうぐんか》「ほづつのひびき《火筒の響き》遠ざかる」を歌って作業にとりかかった。誰の顔にも緊張した血が漂っている。作業は午後四時まで続けられた。
昼食は黒くて小型のかたいパンニ個、おかずもバターもない。お茶だけでもぐもぐと食べた。作業が終わると班ごとに成績が発表される。
女学校三年生の八月十五日。もちろん、夏休みなどなかった。学校へ行くと、いつもとちがった空気が漂っていた。登校する時、電柱や掲示板に、重大ニュース十二時発表と大きく書いたものをだれもが見ていた。その日の作業は午前中で中止になった。マイクが故障のため、生徒達はニュースを聞くこともできない。静かに待っていた。
職員室を覗《のぞ》いてきた組長が「先生達みんな神妙な顔して聞いていらっしゃったわよ。なんのことだかさっぱり分からないわ」と報告してくれた。私達が不安な気持ちでいた時、隣の席の警察署長の娘のKさんが私にそっとささやいた。「日本は負けるらしいんだって」「えっ」。信じられない。絶対勝つんだ。こんなに一生懸命やってきたのにうそだろう。負けるなんて私には考えられなかった。
戦争が終わった日
私たち生徒は、講堂に集められた。校長先生のひきつった顔と落ち着かない態度は只事ではない。難しい言葉で話は続き、「国状」という言葉が何度もくり返されたが、私達には、理解できなかった。
「十八日に登校するように」と言われ、いつものように集団で下校した。三キロの道を黙って歩いた。国防色《=元陸軍軍服のカーキ色》に染めた夏服に、モンペ《戦時中には、足首をゴムでくくったようなズボン》姿、救急袋《=常備していた》を肩から下げ、下駄履《げたば》きだった。暑い夏の盛り、家についても静かで、ひっそりとしていた。、大きく開かれた仏壇の前には、木の枠に紙をはった十字形の燈籠(とうろう)がゆれていた。その目はお盆だったから。
父の店を覗《のぞ》くと、他の人に混じっていつものように朴さんと鄭さんの姿が見えた。裏に回った。チョンガー《俗に独身男》も変わらず働いている。
母を探し、周りを伺ってそっと聞いた。「いったいどうなったの、おかあさん」。「戦争は終わったのよ、日本は負けたの」。母は小声で言った。やっぱり友達が言っていたことが本当だった。
母の言葉は続いた。「朝鮮は独立するから気をつけるのよ」。日が暮れかかった頃、母はもう黒い幕なんかしなくていいのと言った。怒ったような口調だった。
電灯をあかあかとつけ、その下で久し振りに明るい食事をしたのを覚えている。父は、「これから大変なことになるかもしれない。うっかりしたことは言わないように。遠くへ行ってはいけないよ」と妹や弟に言い聞かせた。
夜遅く、遠くで「まんせい、まんせい」と大勢の現地の人が叫ぶ声がした。私はなかなか寝つけなかった。
翌十六日
十六日、街の様子は一変した。丘の上に府庁がある。そこの火の見櫓(やぐら)から、朝鮮語の放送が始まった。音楽を流しては同じ放送をくり返している。二階の窓から見ると、警察署の前には両手を上げた男達が十数人も並んでいる。朝鮮の女の人は、鮮やかな色のスカートをなびかせ、お祭り気分で歩いている。
夕方近くになった頃、朝鮮人町から続々と人が出てきて海岸の方に向かって走っていった。口々に何か叫ぶ。「朝鮮独立万歳」という声が何度も聞こえた。人の波はどんどん大きくなっていった。アメリカ軍が港に上陸するというデマが飛んだらしい。私達家族は家の中で息をひそめ、じっとしているしかなかった。
人の波が下火になった頃、子どもを背負った若い女の人が泣きながら駆け込んできた。「助けて欲しい」と言うのだ。ソ連参戦のため満州からこの地に沢山の人が疎開してきたばかりであった。うちの二階にも一家族がいたが、その女の人も疎開してきたばかりだというので心細かったのであろう。母は、「まあまあお入り、逃げたらかえってあぶないからね。今晩はうちでお泊まり」と言って部屋へ通した。女の人は、ほっとして、翌朝帰っていった。
店で働いていた現地の人の姿も見えなくなった。店に来る人もほとんどいない。だが、見なれない男の人が二人いる。母に聞くと、日本の警察官として働いていた朝鮮人が逃げてきたのだそうだ。「かくまってくれ」と言ったらしいが、それはできることではない。府庁も警察も朝鮮の人々の手に渡った。私たちはもう覚悟しなければならない時がきた。夜、父を囲み話を聞いた。日本も空襲で大変なことになっている。いつ日本に帰ることができるか分からない、戦地の兵隊さんも皆大変だから辛抱《しんぼう》しよう……。そんな話だった。
毎朝、校門を入ると奉安殿《ほうあんでん=御真影・教育勅語謄本などの奉安所・学校の敷地内につくられた》前で最敬礼をした。白い鉢巻きをしめて廊下に並び、厳粛《げんしゅく》な気持で教室に入る。ここは動員《どういん=戦争目的のため資源や人間を統一管理のもとにあつめる》の作業場でもあった。日本軍の火薬を入れる袋を作るのである。婦人従軍歌《じゅうぐんか》「ほづつのひびき《火筒の響き》遠ざかる」を歌って作業にとりかかった。誰の顔にも緊張した血が漂っている。作業は午後四時まで続けられた。
昼食は黒くて小型のかたいパンニ個、おかずもバターもない。お茶だけでもぐもぐと食べた。作業が終わると班ごとに成績が発表される。
女学校三年生の八月十五日。もちろん、夏休みなどなかった。学校へ行くと、いつもとちがった空気が漂っていた。登校する時、電柱や掲示板に、重大ニュース十二時発表と大きく書いたものをだれもが見ていた。その日の作業は午前中で中止になった。マイクが故障のため、生徒達はニュースを聞くこともできない。静かに待っていた。
職員室を覗《のぞ》いてきた組長が「先生達みんな神妙な顔して聞いていらっしゃったわよ。なんのことだかさっぱり分からないわ」と報告してくれた。私達が不安な気持ちでいた時、隣の席の警察署長の娘のKさんが私にそっとささやいた。「日本は負けるらしいんだって」「えっ」。信じられない。絶対勝つんだ。こんなに一生懸命やってきたのにうそだろう。負けるなんて私には考えられなかった。
戦争が終わった日
私たち生徒は、講堂に集められた。校長先生のひきつった顔と落ち着かない態度は只事ではない。難しい言葉で話は続き、「国状」という言葉が何度もくり返されたが、私達には、理解できなかった。
「十八日に登校するように」と言われ、いつものように集団で下校した。三キロの道を黙って歩いた。国防色《=元陸軍軍服のカーキ色》に染めた夏服に、モンペ《戦時中には、足首をゴムでくくったようなズボン》姿、救急袋《=常備していた》を肩から下げ、下駄履《げたば》きだった。暑い夏の盛り、家についても静かで、ひっそりとしていた。、大きく開かれた仏壇の前には、木の枠に紙をはった十字形の燈籠(とうろう)がゆれていた。その目はお盆だったから。
父の店を覗《のぞ》くと、他の人に混じっていつものように朴さんと鄭さんの姿が見えた。裏に回った。チョンガー《俗に独身男》も変わらず働いている。
母を探し、周りを伺ってそっと聞いた。「いったいどうなったの、おかあさん」。「戦争は終わったのよ、日本は負けたの」。母は小声で言った。やっぱり友達が言っていたことが本当だった。
母の言葉は続いた。「朝鮮は独立するから気をつけるのよ」。日が暮れかかった頃、母はもう黒い幕なんかしなくていいのと言った。怒ったような口調だった。
電灯をあかあかとつけ、その下で久し振りに明るい食事をしたのを覚えている。父は、「これから大変なことになるかもしれない。うっかりしたことは言わないように。遠くへ行ってはいけないよ」と妹や弟に言い聞かせた。
夜遅く、遠くで「まんせい、まんせい」と大勢の現地の人が叫ぶ声がした。私はなかなか寝つけなかった。
翌十六日
十六日、街の様子は一変した。丘の上に府庁がある。そこの火の見櫓(やぐら)から、朝鮮語の放送が始まった。音楽を流しては同じ放送をくり返している。二階の窓から見ると、警察署の前には両手を上げた男達が十数人も並んでいる。朝鮮の女の人は、鮮やかな色のスカートをなびかせ、お祭り気分で歩いている。
夕方近くになった頃、朝鮮人町から続々と人が出てきて海岸の方に向かって走っていった。口々に何か叫ぶ。「朝鮮独立万歳」という声が何度も聞こえた。人の波はどんどん大きくなっていった。アメリカ軍が港に上陸するというデマが飛んだらしい。私達家族は家の中で息をひそめ、じっとしているしかなかった。
人の波が下火になった頃、子どもを背負った若い女の人が泣きながら駆け込んできた。「助けて欲しい」と言うのだ。ソ連参戦のため満州からこの地に沢山の人が疎開してきたばかりであった。うちの二階にも一家族がいたが、その女の人も疎開してきたばかりだというので心細かったのであろう。母は、「まあまあお入り、逃げたらかえってあぶないからね。今晩はうちでお泊まり」と言って部屋へ通した。女の人は、ほっとして、翌朝帰っていった。
店で働いていた現地の人の姿も見えなくなった。店に来る人もほとんどいない。だが、見なれない男の人が二人いる。母に聞くと、日本の警察官として働いていた朝鮮人が逃げてきたのだそうだ。「かくまってくれ」と言ったらしいが、それはできることではない。府庁も警察も朝鮮の人々の手に渡った。私たちはもう覚悟しなければならない時がきた。夜、父を囲み話を聞いた。日本も空襲で大変なことになっている。いつ日本に帰ることができるか分からない、戦地の兵隊さんも皆大変だから辛抱《しんぼう》しよう……。そんな話だった。